金賞
IFRS の導入が M&A の Post Merger Integration に与える影響

髙津 亜弓
(アストラゼネカ株式会社)
1.はじめに
私がIFRS(International Financial Reporting Standards:国際財務報告基準)とPMI(Post Merger Integration:買収後の統合作業)の関連性に着目したきっかけを記す。執筆当時、私はバイオ医薬品メーカーA社に所属し営業本部にて管理職をしていた。20XX年、A社は米国の医薬品・ヘルスケア大手X社に3兆円を超える金額で買収され、その際、自身もPMIのプロジェクトに参画したことからM&A、とりわけPMIに興味関心を抱くこととなった。
PMIの期間、A社の販売計画は異常なほどに高くなり、全営業所が年間計画に対して大幅未達となった。買収側と被買収側の関係性にも悪影響を及ぼし、買収額が相応でないM&AはPMIで努力しても成功しないのではないかと皆が危機感を抱き始めた頃、この問題を少しでも改善できないかと神戸大学の門を叩いた。そこからMBAでの体系的な学び、ゼミの指導教官である國部克彦先生の教えを通して、なぜ、このような事象が起きているのか背景要因を深く追求していくこととなった。
2.研究目的と研究デザイン
IFRS導入下で行われるM&Aは日本会計基準下とは異なり、のれんの非償却が認められている。したがって、IFRSは企業を買収する時には促進に作用する一方で、PMIにおいては、毎期の減損テストの実施や、のれんの減損リスク、減損インパクトの大きさといった観点から、日本基準と比較して重圧という方向に作用するのではないだろうかと考えた。ここから導出されたのがA社のケースも高く買われた反面、のれんの減損リスクによる重圧を販売計画の増幅という形で現場社員が受けているのではないかという仮説であった。

しかし一般的には会計基準の違いはあくまでも財務諸表上の問題であり、その範疇を超えることはないとされ、企業戦略とは切り離されて考えられている。したがってIFRSとM&Aについて論じた先行研究は世界的に見ても少なく、IFRS導入によりM&Aの件数が増加したとする報告は散見されてはいるものの、その理由に関しては明らかにされていない。また、PMIとの関連性について述べられている研究は未見であったが、実際X社幹部はPMIの期間、「株価」や「株主」の反応を常に気にかけ、これらを根拠に施策を変えることがしばしばあった。そのため、株主が主に情報を得ている財務諸表上の数字は企業戦略に影響を及ぼし得ると考えられた。そこで、本研究ではA社のケースを通してこれらの点を明らかにし、さらに得られた内容が普遍的なものであるか、IFRSを導入している日本企業へインタビュー調査を行うことで会計基準の違いがM&Aにどのような影響を及ぼしているのかを明らかにしたいと考えた。
3.IFRSがM&A一件あたりの買収金額に与える影響
仮説を検証するため、IFRS導入日本企業を対象に、IFRS導入前後5年間の取引金額の比較分析(n=44)ならびにコントロール企業との比較分析(n=70)を行った。データは株式会社ストライクが提供しているM&Aonlineのデータベースを利用し、筆者が集計・分析を行った。
M&A 1件あたり取引金額の平均は、IFRS導入前は880億円であったのに対し、導入後5年間では2,200億円となり、統計学的にも有意に増加していた。次にコントロール群との比較結果であるが、同様に、IFRS導入企業で買収金額が大きくなる傾向が見られた。以上の結果から、IFRSの導入はM&Aを促進させる要素があることが実証された。
4.A社のケーススタディ分析
本M&Aの目的は、短期および長期収益の向上、ならびに製品ポートフォリオの拡張である。この点についてX社米国本社finance担当者は、「買収から数年かけて、その価値を最大化させることを考えているため、真の価値は買収時には判断できない。投資結果が分からないのに償却が始まっていく、のれんの定期償却は間違ったアプローチだ」と述べた。投資とは一般的に不確実性やリスクが伴うものであるが、中長期的でかつリターンの大きな投資を目的とした買収は、日本基準導入下では実施が難しいことが示唆された。
次にPMIに与える影響である。本ケースではA社の開発の失敗により、減損リスクが顕在化したことからPMIの期間に三度の大きな戦略変更が行われていた。

これらの戦略変更はIFRSのもつ原則主義によって減損回避が行われたことに起因していた。また、ここでの問題点はM&Aに係る戦略には機密事項が多く、全社員に対して意図的に情報が伝達されなかったことにある。それゆえ多くの社員は目の前に起きている「販売計画が高い」という事象だけを見て、不安や抵抗、モチベーションの低下を示し、このことが結果としてPMIの阻害にも繋がっていた。
A社のケーススタディから、販売計画が高いという現象の背景要因には、減損回避に沿ったグローバル戦略の存在があったことが分かった。
5.IFRS導入日本企業へのインタビュー
約半数の企業は、IFRSにはM&Aを促進する効果があると回答した。その理由について、まず、のれんの取り扱いに関する点が挙がった。
「(日本基準下では)買収した翌年から必ず償却が始まり、少なくとも買収時に償却分以上の利益を見込んで買収をしなければならないので、意思決定時に躊躇することがある。逆に、IFRSでは大きな経営判断を促して、リスクを取りに行く経営者の心理的プレッシャーを軽減させるだけでなく、EPSの上昇も見込むことができ、経営者の背中を押す。」
この点については、先に述べたM&A一件あたりの取引金額の比較分析にてIFRS導入企業でその額が大きくなっていることを実証したが、その内容と合致する。
他に、開発費の資産計上がIFRS導入下でM&Aを促進させる大きなメリットだとする意見も聞くことができた。
次に、PMIに与える影響に関してである。得られた共通見解は、会計基準の違いがPMIに影響を与えることはないということであった。しかし、これには前提があり、買収時の評価が正当であり、減損の兆候がないことである。この前提から逸脱し、減損リスクが顕在化した瞬間、大きく影響を受けるのはIFRS導入下ではないかというのもまた得られた共通見解であった。日本基準下においても減損兆候があれば減損テストを行うことから、その影響は同じと思われがちであるが、IFRSの原則主義という側面が経営者の裁量の程度を良くも悪くも大きくし、減損回避を容易にさせるため、このことがPMIでの重圧につながっている。
したがって、のれんは定期償却すべきという意見が日本企業の担当者からは多く聞かれた。また、成功例は少ないが、M&A熟達者はこの原則主義を逆手にとって戦略的にバリュエーションを出しながらM&Aを加速度的に実行し、大きな成功を収めているということも同時にうかがうことができた。
一方で、会計基準の違いはM&AやPMIに全く影響しないと回答した企業も存在した。影響すると回答した企業、しないと回答した企業をさまざまな角度から分析したところ、業種で分類することができた。影響があると回答した企業の業種は医薬品・電気機器・情報通信であり、共通点は研究開発費が高い点である。これらの企業はM&Aでシーズを買うことが多く、開発費の資産計上という恩恵を受ける代わりに、PMIではのれんだけではなく、その開発品目の一つひとつに対しても減損テストが行われるため、減損リスクが顕在化しやすい。
またM&A自体の成否が外部環境や開発品目の成長度合いに引っ張られやすく、不確実性が高い。
よって、こういった企業が、リスクを取りながらM&Aによる成⻑戦略を押し進めるために、IFRSの柔軟な考え方が必要であるのではないかという考えに至った。実際、この3業種は、IFRS導入の業種別ランキングでも上位に位置する。これらの論理から、日本企業においてはIFRS導入下でのM&Aの促進要因は、のれんの非償却だけではなく、開発費の資産計上にもあることが示唆された。
6.さいごに
本研究では、A社のケーススタディならびに、IFRS導入日本企業へのインタビューを通して、会計基準の違いがM&AならびにPMIに与える影響を明らかにすることができた。IFRSはのれんの非償却、取得開発品の資産計上などによるEPSの上昇など、メリットが多いだけではなく、PMIでは経営者にとって、その裁量を良くも悪くも大きく反映できるために特に、不確実性の高いM&Aを行う産業では導入意義が大きい。しかし、現場社員の立場で考えると必ずしもそうではない。どちらも企業として目指す目標は同じであるはずだが、立場によって同じ事象であっても見え方が異なるからである。
以上の内容について、私自身、ならびにA社社員が事前に本研究内容を認識できていれば、IFRS下でのM&AやPMIに対してある程度心構えができ、重圧を多少は取り除くことができたのではないだろうかと考える。
本研究ではIFRSとM&A、PMIとの間にある影響を明らかにすることで、今後IFRSの導入を検討していく企業、また、現在IFRSを導入している企業のM&A戦略に貢献できたのではないかと考える。
