特集
企業のリスクマネジメントとコーポレートガバナンス

  • 山﨑 尚志 (神戸大学大学院経営学研究科 教授)

企業を取り巻くリスクの多様化

 今回、企業のリスクマネジメント、特に保険の活用とコーポレートガバナンスをテーマとしてシンポジウムを開催した。本シンポジウムでは、企業が直面するさまざまなリスクに対してどのように対応し、適切に管理していくべきかについて議論を深めた。以下では、本シンポジウムのテーマを企業リスクマネジメントとした背景、および開催に至った趣旨や問題提起について述べる。

 近年、世界を取り巻くリスクが急速に変化し、より複雑化している現状を踏まえ、世界経済フォーラム(The World Economic Forum)は、今後企業や社会が直面しうる深刻なリスクを分析・評価する目的で「グローバルリスク報告書(Global Risks Report)」を毎年公表している。同報告書には、世界各国の専門家を対象としたグローバルリスク意識調査の結果が公表されており、現代社会が抱えるリスクの動向や優先的に取り組むべき課題を提示している。

 最新の「グローバルリスク報告書2024」によると、多くの回答者が今後2年間の世界の見通しについて悲観的な見方を示しており、さらに、今後10年間で状況がさらに悪化する可能性があると考えている。図1は、「グローバルリスク報告書2024」において、短期的および長期的に重要とされるグローバルリスクを集計した結果を示している。

 ここで挙げられているリスクの多くは、日本企業にとっても重要な経営課題として認識されているものばかりである。たとえば、異常気象の頻発や社会の二極化、景気後退といった要因は、企業の経営環境に直接的な影響を与える可能性があり、これらにどのように対応するかが問われている。さらに、国家間の武力紛争や地政学的な対立といったリスクは、国際的なサプライチェーンの分断や市場の不安定化を引き起こす要因となり得るため、多くの企業が注視すべき課題と考えられる。また、AI技術の発展やサイバーセキュリティの脅威といった新たなテクノロジーの進展がもたらすリスクも無視できない。これらの技術革新は、企業活動に多くの恩恵をもたらす一方で、適切な管理が行われなければ情報漏洩やデータ改ざん、さらには業務の自動化による雇用の変化といった新たな問題を引き起こす可能性がある。

日本企業を取り巻くリスクマネジメントの諸問題

 こうしたグローバルなリスクの多様化や深刻化に加えて、現在の日本企業はさまざまな諸問題に直面しており、リスクマネジメントの観点からこうした問題にどのように適切に対処していくかが焦点となっている。

 たとえば、近年、多くの日本企業が事業の海外依存度を高めていることから、海外拠点の管理やリスクマネジメントの重要性が一層増している。特に、サプライチェーンの複雑化や現地の政治・経済リスクの影響を受けるリスクが高まっており、適切な管理体制を構築することが求められる。また、各国の法規制の違いやコンプライアンスリスクも無視できない要素であり、企業は国ごとに異なるリスク対応策を講じる必要がある。

 さらに、日本国内においても、企業経営のあり方は大きく変化している。一連のコーポレートガバナンス改革の進展により、企業はこれまで以上にリスクマネジメント体制の強化を求められており、単なる内部管理の枠を超えた経営の中核として組み込まれている。また、上場企業を中心に、機関投資家との対話を通じたリスク情報の開示が義務付けられるようになり、より透明性の高いリスク管理が求められるようになっている。このような変化を受け、企業は単にリスクを回避するのではなく、適切にリスクを把握し、戦略的に管理していくことが重要な課題となっている。

 伝統的に、企業のリスクマネジメント、特にリスクファイナンスにおいて中心的な役割を果たしてきたのが保険である。過去においては、リスクマネジメントといえば保険の活用を指すほど、両者は切っても切り離せない関係にあった。しかし、現代的な観点からいえば、保険の活用のみを考えるのではなく、より広範なリスクマネジメント手法を取り入れることが求められる。企業にとっては、保険を含めた総合的なリスクマネジメントの枠組みを構築し、それが企業価値にどのような影響を与えるのかを分析・評価することが重要である。

 リスクマネジメントが企業価値を高める要因となり得るかどうかについては、多くの研究や実務の中でその有効性が議論されている。リスクファイナンスが企業価値の向上に寄与するかどうかを考える上で、リスクコスト(cost of risk)という概念を導入することが有益である。リスクコストとは、リスクが存在することによって企業が負担するコストの総称のことである。資本市場の不完全性を前提とすると、さまざまな要因がリスクコストの増大につながることが考えられる。これらのリスクコストが顕在化すると、企業の期待正味キャッシュフロー(NCF:Net Cash Flow)が低下し、結果として企業価値の棄損につながる可能性がある。表1に、リスクの存在が企業価値に及ぼしうる主な要因をまとめている。

 このように、資本市場の不完全性から生じるさまざまなコンフリクトを考慮すると、保険を含めたリスクマネジメントがリスクコストを低下させ、企業の将来のNCFを増加させる効果が見込まれる。こうした理論展開で興味深いことは、保険がリスクを低減するという本来の役割そのものではなく、それがもたらす副次的な効果、つまりステークホルダー間のコンフリクト解消といったコーポレートガバナンスで議論される側面に焦点を当てている点である。たとえば、企業の経営者と株主、あるいは債権者の間で情報の非対称性が存在する場合、企業が十分なリスク管理を行っていることを示すことで、利害関係者の信頼を獲得し、企業全体の安定性を向上させることが可能となる。このように、企業価値を高める観点からいえば、リスクマネジメントは単なるリスク回避手段ではなく、ガバナンスの一環として機能させることが重要である。

 一方で、リスクマネジメントの実行には追加的コストが発生する点についても留意しなければならない。たとえば、企業が保険を購入する際、純粋なリスク補償だけでなく、保険会社の運営費や利益を反映した付加保険料を含んだ対価を支払わなければならない。また、デリバティブを用いたリスクヘッジを行う場合には、契約締結の際に発生する手数料や、市場変動に応じた調整コストなどが発生する。こうした追加的コストは、企業の期待NCFを減少させる要因となる。リスクが存在しなければリスクマネジメントを実行する必要はなく、それに伴うコストも発生しない。つまり、リスクマネジメントにかかる追加的コストも、リスクの存在によって生じるリスクコストの一種とみなされる。この点を踏まえれば、企業がリスクマネジメントを通じて企業価値を最大化するためには、その実施がもたらすベネフィット(期待NCFの増加)と、それに伴う追加的コスト(期待NCFの減少)を慎重に評価し、リスクコストの最小化が達成されるような最適な水準でリスク管理を行うことが不可欠となる。

 しかしながら、これまでの多くの日本企業において、保険の活用が主体性をもった意思決定のもとで行われてきたかというと、疑問が残る。従来の日本企業の商慣行では、企業価値の向上を目的とするというよりも、むしろ保険会社との関係性を重視した意思決定が行われてきたのではないか。たとえば、長年にわたる取引関係の維持や、系列保険会社との取引を優先する文化の中で、合理的なコスト・ベネフィット分析に基づいた保険購入の意思決定が必ずしも十分に行われてこなかった可能性は否定できないだろう。

 また、学術的な観点から見ても、研究者が企業の保険活用やリスクマネジメントの研究成果を実務に十分に伝えてきたとは言い難い。M&Aや自社株買いといった他の財務上のトピックに比べて、企業の保険活用が企業価値に与える影響に関する議論は相対的に軽視されてきた傾向がある。その結果、実務家に対しても、保険の経営的意義や活用方法についての理解が十分に浸透してこなかった可能性がある。

企業と保険会社の関係を問い直す

 加えて、最近では企業と保険会社の関係性の変化を促す出来事が次々に発生している。2023年には損害保険大手各社による共同保険の保険料事前調整問題が明るみに出るという事態が発生し、金融庁による業務改善命令が出された。この流れを受けて、2024年に損保大手各社は、自社で保有している政策保有株の完全売却方針を打ち出した。

 こうした環境変化を踏まえ、企業は今後どのようなスタンスでリスクマネジメントや保険の意思決定を行うべきか。これが、今回のシンポジウムの問題提起である。本シンポジウムでは、学術界、事業会社、損害保険業界の第一線で活躍する専門家の方々をお招きし、研究と実務の双方の観点から、日本企業の持続的な発展に向けたリスクマネジメントの在り方について議論を行った。

 最初に学術サイドの視点として、慶應義塾大学の柳瀬典由氏より、「企業リスクマネジメントと損害保険」をテーマに、現在、事業会社と保険会社を取り巻く実態はどうなっているのかについてご講演いただいた。次に、事業会社サイドの取り組みとして、三菱重工の増山啓氏より、「保険リスクマネジャーとしてのグローバル保険プログラム(GIP)運営」をテーマに、先進的な事例として事業会社はどのようにリスクマネジメントに取り組んでいるのかについてご講演いただいた。そして、保険業界サイドからは、日本損害保険協会の金泉浩二氏より、「企業のリスクマネジメント向上に向けた日本損害保険協会の取り組み」をテーマに、現在業界団体として事業会社の企業リスクマネジメント向上に向けてどのような取り組みを行っているかについてご講演いただいた。最後に、保険会社サイドによる視点から、東京海上日動火災保険の長島剛志氏より、「保険会社から見た日本企業におけるリスクマネジメントの現状とこれからの方向性」をテーマに、保険マーケットの現状を踏まえ、今後事業会社がどのようにリスクマネジメントを実行すべきかについてご講演いただいた。

 その後のゲスト講師によるパネルディスカッションでは、参加者の皆さまからいくつも質問が寄せられ、いろいろと検討する良い機会となった。本シンポジウムの開催記録もあわせて読んでいただければ幸いである。