プロフェッショナルの仕事術
小さなデザインオフィスの理念経営

  • 秋松 太地 (融点株式会社 代表取締役)

<略歴>
2000年 京都工芸繊維大学造形工学科意匠コース卒業
複数のデザインオフィス勤務を経て
2012年 融点(株)を創業
2021年 神戸大学MBA修了
同年   まちライブラリー 世界のはしっこBooks & Field 開設

◆地域の子どもたちが自由に歩き回るオフィス

 私たちの会社では、オフィスを地域の子どもたちが自由に歩き回っています。これは決して意図的に生み出した状況ではありませんが、近所の子どもたちが当たり前のように空いたデスクで宿題をしたり絵を描いたりしている光景は、奇妙でもあり、微笑ましくもあります。私たちはこの予期せぬ状況をポジティブに受け入れているのですが、そもそもの発端は2021年の初夏、オフィスの1階を「世界のはしっこBooks & Field」という私設図書館として地域に開放したことにあります。

 そこで私からは、なぜオフィスの一部を地域に開放したのか? そこにどんな経営的意図があったのか? そしてその結果どんな変化が生まれようとしているのか? その答えを、小さな組織における理念経営の試行錯誤を通して紹介します。

オフィススペースのデスクで絵を描く小学生

 

週末の図書館スペース

◆社員にとってユーザビリティの高い経営理念へのリデザイン

 私は神戸で小さなデザインオフィスを経営しています。デザイナーである私が神戸大学MBAを志した理由は、当時「デザイン経営」というワードを頻繁に耳にするようになっていた中で、自分は経営に関してあまりに浅学であり、経営学を学ぶ必要性を強く感じたためでした。在学中は、自身が関心を寄せていた組織内部へのブランディングにおける経営理念の重要性に注目し、國部克彦先生の下「経営理念の内容表現と浸透力」というテーマで研究を行いました。

 ところが研究が進み、次第に経営理念への理解が深まるにつれて自社の理念の至らぬ点に気づかされることになります。そこで自身の研究成果を応用し、自社の理念のリデザインに着手することにしました。

 

 これは新しく策定された私たちの会社の理念です。おそらく見慣れない理念体系に違和感を覚えた方も多いことでしょう。詳述は控えますが、この理念体系は、MBAでの自身の研究において上場企業400社の理念の内容表現と企業パフォーマンスの関係性を分析した結果導き出されたもので、背景に次のような理念の設計思想を持っています。

1.社員にとって理念の実践とは、日々の事業活動において適切な意思決定を支援する知的ツールとして、理念を愛用することである。

2.人間は問題解決に際して純粋に形式的な知識を利用するというよりは、具体的な文脈との結びつきをもつ中間的な抽象レベルの知識を利用する(類推の準抽象化理論)。

3.高い浸透力を有する理念は、①経営目的(Purpose)を明示し、②目的達成の手段(Field, Resource, Action)を含み、③より少ない要素(Simplicity)で、④組織固有のコンテクスト(Uniqueness)を持つことで、中間的な抽象レベルの知識としての条件を満たす。

4.高い浸透力を有する理念は、より俯瞰的な視点から「夢や感動」といった情緒性のあるテーマを扱う。

 ここで重要となるのは、理念の実践を求められている社員にとっては、理念自体に知的ツールとして満たされるべきユーザビリティが存在するということです。例えば、工作の得意な子どもも、錆びたハサミを与えられたのではその才能を発揮できません。私たちも、もしSWOT分析が9象限や16象限もあったら、これほど活用することはなかったでしょう。これらと同様に、理念にも社員にとって愛用できるものとできないものが存在し、後者を掲げていくら浸透努力を重ねても、思うような成果が得られないのは必然といえます。

 上述した理念の設計思想は、理念に社員にとってのユーザビリティを実装し、理念自体の浸透力を高めるためのフレームワークとして非常に有用です。MBA修了後は、この知見に基づきリデザインした自社理念の浸透に取り組むことになります。

◆理念は組織に鮮烈なインパクトをもたらす

 まず行ったのは、理念による既存事業の再編集です。私たちの会社は主にグラフィックデザインと建築デザインの二本柱から成っていますが、自社のパーパスを明らかにし、その実現のためのアプローチを定めることで、自分たちの仕事に新しい景色が見えてきました。これまでと同じ仕事がより自分ごとになり、顧客との関係性もパーパスにおいて対等なパートナーとして捉えるよう意識が変わりました。何より、自分たちの限られたリソースをどんな仕事に向けるべきか、逆に言えば、やらなくていいことの明確な基準を得られたことは大きな喜びです。

 また、他にはない独自の理念策定コンセプトと手法を得たことで、「経営理念デザイン」という新たなデザイン領域を拓くことができました。これを既存事業の競争優位性を高め、事業シナジーを起こしうる新たな事業として、三本目の柱に成長させることは自社の未来に大きな意味を持ちます。同時に理念デザインは、私個人にとっても今後の人生をかけて取り組むに値するミッションとなり、何にも代えがたいギフトだと感じています。

 理念への共感を前提とした人材獲得の準備も進めています。まず、持続可能な世界と子どもたちへの責任意識を制度でも体現するため、就業規則を子育てと仕事の両立に積極的な内容へと改訂し、兵庫県から子育て応援締結企業として認定を得ました。

 さらに、社員一人ひとりが安心して成長できる環境を整えるために、MBAの同窓生の力を借りながら理念インセンティブ制度としての機能も果たす人事考課の仕組みを作っています。クリエイティブ業界は離職率が総じて高く、特に多くの若い人材が過酷な働き方に疲弊し離職してしまう問題を抱えています。その解決策として、クリエイティブ職のキャリアパスと評価基準を明確にすることは必須だと考えています。

 正直なところ、新しい理念が社員にとって愛用できるものになっているかは、まだ策定から日も浅く、明らかではありません。しかしこれまでの自社の取り組みが生み出した変化から、理念は組織に鮮烈なインパクトをもたらすということを実感しています。

◆地域に開いたオフィスが、全ての結節点となった

 私たちが理念の中で最も重視するのは「子どもたちへの責任」です。この責任を果たす手段として自分たち自身で実行できることを模索した答えが、地域の子どもたちに私設図書館としてオフィスを開放することでした。「世界のはしっこBooks & Field」と名づけたこの小さな図書館は、本を通じて世界や自分自身の美しさ、思慮深さ、驚きに出会って欲しいという願いと、この地域で過ごした子ども時代の記憶をかけがえのないものにして欲しいという思いを込めてデザインされています。つまり地域に開いた私たちのオフィスは、理念を体現する象徴的アクションだといえます。

 一見この取り組みはボランティア的活動に見えるかもしれません。実際のところ、そこで収益が生まれることはありません。しかし実際には、経営に大きく貢献する価値をいくつも生み出してくれています。

 その中でも最も注目すべきは、働く環境と地域の子どもたちが融け合ったことで生まれた、私たちの意識の変化です。日常的にオフィスで交わされる子どもたちとの何気ない会話や、常に背中を見られているという意識は、自然と私たちの背筋を伸ばし、この子たちにとって善い大人でありたいという想いをより内発的なものへと深めてくれている気がします。そしておそらくこの感覚は気のせいではありません。

 國部先生が著書「アカウンタビリティから経営倫理へ」の中で、「企業で働く人間が社会的責任を履行するためには、経済組織である企業の中に公共的な空間を確保することが必要である」と述べ「私的領域の公共領域化」というコンセプトを提示されています。つまり、地域の子どもたちが自由に歩き回るオフィスで私たちが感じている意識変化の正体は、このコンセプトに基づいた私たち自身の社会的責任意識の高まりであり、必然の変化なのではないでしょうか。

 この変化以外にも、様々なことが起きています。新たに生まれた行政との好ましい関係性、住宅リノベーションや子どもに関わるデザインの新規顧客増加、私たちの活動を好意的に評価する既存顧客との関係性の強まり、オフィス環境の新たなカタチを模索する企業へ向けた新規プロジェクトの立ち上げなど、いずれも私たちの事業活動に直接的なインパクトを与えるハプニングです。

 このように、今、小さな私設図書館として地域に開いたオフィスが全ての結節点となって、何かが回り出す兆しを感じています。私はこれを偶然だとは考えません。理念による一本の軸を私たちの全事業活動に通貫したからこそ、全てが連動して新たな価値が生まれようとしているのだと捉えています。

 ここまで、小さなデザインオフィスにおける理念経営の試行錯誤をご紹介させていただきました。ケースとしてはかなり特殊で参考にしにくいと感じられたかもしれません。しかし、理念の設計アプローチや理念を車軸とした相乗的な価値創出も、國部先生の示すコンセプトに従った社員の社会的責任意識の高め方も、本質的には組織の大小種別を問わないシンプルで汎用性のある取り組みです。

 クリエイティブにおいて「制約は創造性を高める」といわれます。ならば理念は「組織の創造性を高めるポジティブな制約」として機能してくれるのではないでしょうか。私たちの理念経営はまだはじまったばかりですが、社員と共に試行錯誤を楽しみながら、創造的で豊かな組織の実現を目指したいと考えています。