銀賞
Society 5.0時代におけるバリューベースヘルスケアを実現するための医療サービスイノベーションに関する研究
~日本の医療サービスにおける価値共創を目指して~

 

 

広瀬 博史

 

1.研究の背景と問題意識

 高齢化社会を迎えた日本の医療は、より一層の質の向上(健康寿命の延伸)と医療費の抑制という二つの課題を同時に解決することが求められている。その中で、国民医療費の約3分の1を占める生活習慣病は、薬剤治療と生活習慣の改善といった行動変容を組み合わせた治療を必要とし、医療に求められる取り組みを予防医療へと変化させた。この変化は、質の向上と医療費の抑制という観点で、サービス(検査や診療行為)のボリュームにより診療報酬が算定されるFee for serviceの概念から、サービスから生み出される効果や質に基づき価値が評価されるバリューベースヘルスケア[1]の概念への転換を必要とする。そして、Society 5.0[2]時代においてはウェアラブルデバイスなどの電子機器の開発により、日常生活における治療効果をリアルタイムにモニタリングすることが可能となった。また、Electric Health Record(EHR)やPersonal Health Record(PHR)による医療情報の連結は、個人のライフコースデータの取得を可能にし、患者の行動変容を促すことで高血圧などの予防治療を行うBeyond the Pillと呼ばれるSoftware as a Medical Device(SaMD)といったデジタル治療も開発された。

 このように、日本の医療サービスに求められる価値評価の概念が示され、予防医療を後押しする技術革新が起こったにもかかわらず、質の向上と医療費の抑制という二つの課題の解決には至っていない。そこには、Fee for serviceに基づく保険点数の算定や患者の低率医療費負担を特徴とする日本の国民皆保険制度が影響していることが考えられた。そこで、日本の医療保険制度というコンテキストにおいて、医療サービスの新たな仕組みを見出すことは、日本の医療が抱える社会問題の解決の一助となるだけではなく、患者の行動変容に対するデジタル治療という新たなビジネスの市場の創出にもつながると考えた。

2.先行研究レビュー・リサーチクエスチョン

 生活習慣病の重症化予防という医療サービスを経営学の視座で捉えると、Vargo & Lusch が提唱したサービス・ドミナント・ロジック[3]のフレームにより説明される。患者はサービスを受容するだけではなく、行動変容という形で価値共創に参画することにより、サービスの価値が創造される。具体的には、患者は時間や費用を負担して重症化予防プログラムに参加し、医療従事者のサポートを受け生活習慣を改善することでQuality of life(生活の質)の向上を実感する(図1)。このように、医療従事者と患者の価値共創関係において、生活習慣病が重症化しないというサービスの結果(価値)が生み出される。このような、医療従事者(医療機関の医師、看護師)と患者のダイアド(dyad:二者関係あるいは相互関係)なアクター間での価値共創では、医療サービスの特性(結果の不確実性、情報の非対称性、便益遅延性など)に対して、医療従事者の患者に対する情報的サポートと感情的サポートが重要であることが先行研究で示されている。しかし、Fee for serviceにより診療報酬が算定される日本の医療保険制度というコンテキストでは、患者一人当たりの診療時間を減らし、患者とサービスのボリュームを増やすことが利益につながるため、医療従事者が患者に対して十分に時間をかけて情報的、感情的サポートを行えないという問題がある(図2)。そこで、日本の医療保険制度下における新たな医療サービスの仕組みにつながる含意を見出すため、以下の二つのリサーチ・クエスチョンについて検討した。

リサーチ・クエスチョン1
日本の医療保険制度下において、生活習慣病に対する医療サービスにおけるアクター間の価値共創を成立させるために必要となる仕組みとは?

リサーチ・クエスチョン2
医療サービスにおける価値共創において、医療情報ネットワーク(EHR / PHR)は、どのような役割を果たすのか?

 
 

3.調査対象と方法

 医療サービスに関与するステークホルダーは、①政策立案者、②保険者[4]、③医療機関、④医療従事者(医師、看護師など)、⑤患者の五つに分類される。先行研究では、医療従事者と患者のダイアドな関係性での価値共創の仕組みが研究されてきた。しかし、日本の医療保険制度では、医療従事者が情報的・感情的サポートに十分な時間を費やすことができない。そこで、加入者の平均年齢が高く医療費水準が高いといった背景より、財政負担軽減に取り組む必要性に迫られる国民健康保険者に着目した。その中で、疾患の重症化予防及び医療費の抑制に成果を創出している広島県呉市及び兵庫県尼崎市に着目した。

 日本の医療制度における患者の医療情報は、フリーアクセス(患者が自由に受診する医療機関を選べる)という特性によって複数の医療機関に情報が分散するため、サービスの効果を適切にモニタリングするために医療情報ネットワークが必要になる。長崎地域医療連携ネットワーク(あじさいネット)は、三次医療圏[5]でのネットワークを構築し、医療の質の向上を実現している。そこで、医療サービスの価値共創における医療情報ネットワーク(EHR / PHR)の役割について、インタビュー調査により検討した。

 本研究は、調査対象におけるインタビュー調査を実施し、記述的推論によりリサーチ・クエスチョンに対する解を導く定性研究として実施した。

4.分析結果と考察

4-1 医療サービスにおけるアクター間の価値共創を成立させる仕組み

 広島県呉市及び兵庫県尼崎市は、保険料の徴収、保険給付といった保険事業の運営に加えて、市の職員又は外注事業者の保健師、看護師が、国民健康保険の被保険者の病気予防や健康づくりなどの保健事業に力を入れている。保健事業において、保健師、看護師は、患者の生活環境や食生活、運動習慣などについて時間をかけて聴取し、主治医が提示した治療方針、目標に従い、個々の患者に応じた行動目標を患者と共に作り上げる(図3)。そのことで、患者自身は、目標を達成することによる自己達成感や自己効力感を感じるようになり、自己管理能力を身につける。また、プログラムの実施結果については、保険者から主治医へ報告され、医療機関の医師、看護師と患者とのコミュニケーションの促進にも活かされる(図3)。医療サービスの特性である公共性を踏まえると、保険者が医療サービスにおける患者との価値共創に深く関与する大義が存在し、保険者が価値共創循環において患者への情報的・感情的サポートの主たる役割を担う仕組みは一般化可能と考える。

4-2 価値共創において、医療情報ネットワーク(EHR / PHR)に役割

 日本におけるかかりつけ医[6]とは、諸外国の制度化[7]されたものとは異なり、普段診てもらっている馴染みの医療機関のことをそのように表現しているに過ぎない。そして、日本のかかりつけ医は、他の国のようにプライマリ・ヘルス・ケア[8]が可能な総合医がかかりつけ医となるような仕組みではなく、専門医が担当することになるため、疾患ごとにかかりつけ医が存在する。そのため、急性期病院(急患や重症な病気の症状に応じて、必要な検査や処置、手術などを24時間体制で行う病院)と診療所の病診連携が必要であり、情報の連携が不可欠となる。しかし、医療情報の電子化が進んでいない日本では、情報の連携は紹介状といった文書(患者の状態の要約を記載した記録)によって行われ、フリーアクセスを特徴とする日本の医療においては分散した医療情報を医師は確認することができない。この問題を解決するため長崎地域医療連携ネットワーク(あじさいネット)は、基幹病院の電子カルテや診療所での外注検査データをVirtual Private Network(VPN)[9]で連結し、すべての医師が患者のライフコースの医療情報を確認できる仕組みを構築した。結果として、紹介先の専門医が医療情報の履歴を把握することが可能となり、共同診療の仕組みが構築された(図4)。これにより、医師は患者への聞き取りだけではなく、過去の診療記録、検査データを基に診断、治療が可能となり、提供する医療サービスの質の向上につながった。

 医療情報ネットワークは、広島県呉市及び兵庫県尼崎市の取り組みの中で保険者の保健師や看護師も患者のライフコースのデータを行動計画の作成に活かすことができると考えられる。そして、PHRにより患者が自身の状態をタイムリーに把握することは、自己効力感の向上にもつながる。したがって、医療情報ネットワークは、価値共創循環の仕組みにおいて、保険者と患者のダイアドな関係における情報的・感情的サポートがより効果的に行える環境を生み出し、加えて医師・看護師における医療の質の向上により、最終的には価値共創循環から創造される価値(便益・効果など)を向上させると考える(図5)。

 

 

5.結論と実践的インプリケーション

 サービス・ドミナント・ロジックのフレームにより説明される医療サービスにおける価値共創は、日本の医療制度が招く負の効果により、先行研究で示されている医療従事者と患者のダイアドな関係性では機能しない。しかし、保険者が「保険機関」から「保健機関」へ役割を変化させ、医療従事者、患者とのトライアド(三者関係)での価値共創に参画することが、日本の医療制度下において医療サービスの価値共創を機能させるために必要な仕組みであると考える。そして、その新たな仕組みにおいて、医療情報ネットワークは、保険者と患者のダイアドな関係における情報的・感情的サポートがより効果的に行える環境を生み出し、加えて医師・看護師における医療の質の向上により、最終的には価値共創循環から創造される価値をより高いものにする。このことにより、医療の質の向上とコスト抑制の両立が可能となり、日本の医療が抱える問題の解決につながると考える。

 


[1] バリューベースヘルスケア:医療の効果を最大化し、コストを適正化するために、提供されるモノやサービスによりもたらされる効果に着目するという概念

[2] Society 5.0:日本が提唱する未来社会のコンセプト。仮想空間と現実空間を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する新たな未来社会。5年ごとに改定されている科学技術基本計画の第5期(2016年度から2020年度の範囲)でキャッチフレーズとして登場

[3] サービス・ドミナント・ロジック:顧客が製品やサービスを使う過程において企業が行う活動や顧客が取る行動が価値を生み続けるという前提で、企業のみでは価値の最大化を実現することができず、企業と顧客が一緒になって価値を共創する世界観

[4] 保険者:健康保険事業の運営・実施主体。保険料の徴収、保険給付、病気の予防や健康づくりなどの事業を実施

[5] 三次医療圏:都道府県が医療政策を立案するために、医療圏を設定。三次医療圏は、重度のやけどの治療や臓器移植など特殊な医療や先進医療を提供する単位。北海道を除いて各都府県がひとつの区域。一次医療圏は外来を中心とした日常的な医療を提供する地域区分で、原則は市区町村が中心。二次医療圏は、救急医療を含む一般的な入院治療が完結するよう設定した区域。複数の市区町村で構成

[6] かかりつけ医:患者が健康相談できるうえ、必要に応じて専門医、専門医療機関を紹介する医師であり、ライフコースにわたる患者の医療情報を把握する

[7] 諸外国の制度化:プライマリ・ヘルス・ケアを専門とする医師がかかりつけ医となり、患者の医療アクセスのゲートキーパーとしての役割を果たす。患者は、医療にフリーアクセスすることはできず、必要に応じてかかりつけ医が他の専門医などに紹介を行う

[8] プライマリ・ヘルス・ケア(Primary Health Care):普段から何でも診てくれ、相談に乗ってくれる身近な医師(主に開業医)による医療であり、特定の病気だけを診る専門医療とは違って、急に体の調子が悪くなったような緊急の場合の対応から健康診断の結果についての相談までを行う医療のことを指す

[9] Virtual Private Network(VPN):公衆回線を用いてデータを暗号化し、通信の内容が漏れることを防ぐ接続方法