プロフェッショナルの仕事術
経営に活きた理論
<略歴>
1985年 大阪工業大学工学部卒業
同 年 株式会社図研入社
1994年 同社 新規事業準備室長
2001年 同社 取締役事業部長
2011年 同社 常務取締役
2014年 神戸大学MBA修了
2016年 株式会社図研プリサイト 代表取締役
2020年 株式会社図研 専務取締役
筆者が勤務する図研は、設立45年の製造業向け総合IT企業です。元々欧米発祥であるCAD(Computer-Aided Design)の国産化に成功し、その後世界に逆上陸してトップクラスのシェアを獲得しました。私は現在、当社の専務取締役として、国内営業の責任者を務めています。
神戸大学MBAに入学したのは50歳、当時は常務取締役でしたが、その年齢とその立場で、なぜ経営の勉強をしようと思ったのか、そこに至るまでの経緯とその後を、MBAでの経験とともに紹介いたします。
◆社長からの指名
1985年に大学卒業後、設立10年目のベンチャー企業であった当社に営業職で入社、その後大阪支社に転勤して、営業チームの立ち上げに勤しんでおりました。人生最大の転機は入社10年目の1994年、新規事業立ち上げの命を受けたことです。今の会社の枠組みをもっと大きくしたいという思いを、社長から伺いました。当時は東証一部への指定替えが完了し、海外競合へのM&Aにも成功していた絶好期でしたが、すでに次のステージを想定し、かつそれを30歳そこそこの若者にやらせてみようとする、そこに経営者としての凄みを感じました。金も人も看板も、自由に使っていいから、好きなことをやってみろと言われて、内なるものが強く突き動かされ、何が何でも成功するぞと、心に誓いました。
◆コーポレートベンチャリング始動
営業時代に温めていたアイデアをもとに、モックアップを持って客先巡業した結果、半年で2社から億単位の内示をいただきました。ソフトだけでなく、コンサルティングも合わせたシステム提案が、問題解決にマッチし、その後も順調に受注が続くのですが、今までとは違う売り方や組織体制などは、同じお客様を持つ既存事業との間で、少なからず摩擦を生みました。今思えば、新規事業は既存の資産や技術を新しい機会に向けて再編成するダイナミック・ケイパビリティの発揮であるのに対し、既存事業に求められるのは、利益を最大化する管理手法や効率化であり、両者が相反するのは当然の成り行きでした。そもそも、既存事業の成功とイノベーション創出の関係はパラドクス的であることも当時はわかっておらず、馬力だけで前進していました。これを側面からバックアップしていただいたのが、当時の専務(現社長)です。リソースの調整や、制度の変更などは、事業家だけでできません。格上のインキュベータが必要であることを、身をもって理解しました。事業は海外にも展開して成功を納め、38歳の時に取締役に選任されました。私もそれに倣って、能力があって目的を共有できる若いメンバーをどんどん引き上げていきました。

会議室の一室で始まった「明日にかける橋」プロジェクト
◆MBA挑戦
次の転機となったのは、技術提携先担当者の神戸大学MBA OBの高乗正行氏(三品ゼミ2004年卒業)との出会いです。私より年下のビジネスマンでしたが、物知りで物怖じもせず、海外事業についてもいろいろと教えてもらいました。
この頃、高乗氏に連れられて小島ゼミにゲスト参加する機会があり、理論的に経営を知りたいという思いを強くしました。当時、すぐさま挑戦するには至りませんでしたが、その後いくつかの新事業を手がけはじめたころに、一念発起してMBA受験を決めました。この時すでに50歳、KKD(勘・経験・度胸)頼みでやってきた経営を、理論的、体系的に理解する最後のチャンスでした。初老の私にとって、MBAの授業と膨大な宿題は過酷でしたが、ケーススタディやフレームワーク、セオリーを学び議論するのは、現実をなぞるゾクゾクした体験でした。
経営学は自然科学と違って、答えは一つとならず、また時代のcontextにも大きく影響を受けます。ただ事実として、会社や事業が今置かれている状況は、経営者が下した膨大なoptionの集大成であって、時代や環境のせいにはできるものではありません。その時々でより優れた選択を行うには、先人の考えた理論やフレームワークを参考にした方が良いと、私は思っています。MBAはこの実戦に出るための訓練所であり、そこには個々の知識だけでなく、相互の関連を体系的に学ぶカリキュラムが用意されています。そして研究内容は日々アップデートされており、時折そこに触れることで、実戦の振り返りが促されます。
◆新会社立ち上げ
先述した、MBA入学前に立ち上げていた新事業は、盤石な地盤がある電機業界ではなく、機械業界に向けた新たなチャレンジでした。後発ゆえにひたすら先進的な仮説を練り、その実現のために資本・業務提携も行いました。知名度を補うために初の間接販売を採り、開発は機動力を上げるために、自前主義からパートナーへの委託に切り替える最中でした。動き出したこの事業パラダイムは、今までのどれとも異なり、成功を加速させるには本体の慣性から切り離す、分社しかないと判断しました。私自身は、本社に残って子会社を兼務するという選択肢もありましたが、子会社へ転籍する社員に本気になってもらい、また市場に対して強いメッセージを出すためにも、本社役員を辞任し、新会社の社長に専任することに決めました。
これまで私は事業部長として、新市場の獲得にのみ執念を燃やしていました。しかし、会社経営に求められるのは、永続的な利益であり、BSやPLのコントロールと事業を支える組織を考えなければなりません。
まずBSについては、本社時代に肥大化させた開発ソフトウェア資産に着目しました。固定資産の償却費は、業績を見ながら上げ下げできる費目ではないため、一定の抑制が必要です。そこで以降の開発計画においては、実験的な製品開発は研究開発費として費用処理し、償却費以上の資産計上を行わない基準を設けました。単年度での費用計上は当初きつかったですが、固定資産を4年で70%以下まで圧縮した結果、益出しは格段に楽になりました。
一方、PLに関しては、各々の案件に対して、作業工数と受注・売上の管理を厳密に行うことにしました。どこで外部に委託発注するか、仕掛かり作業を原価に切り替えるかは、受注・売上とのタイミングによります。その精度を上げるために営業と技術、管理の3部門が集まって、週次で予測を立てることにしたところ、予測精度があがっただけでなく、結果として部門の生産性も高まりました。社内で経営数値の開示と所有を行うことで、部門間が良い意味で相互干渉するようになったことが奏功したのでしょう。まさにMBAで学んだ管理会計そのものです。
もう一つ、「人」に関する取り組みについてご紹介します。IT業界は人材の流動性が高く、人員に余裕がない子会社では、定着の仕組みが必須でした。長く良く働いてもらうためには、金銭的なインセンティブと、内発的動機の両方が重要です。そこで、優秀な人材には積極的に上位ポジションを提示し、一段上の仕事をしてもらうかわりに、それに見合う報酬が得られるようにしました。採用に関しても、各部門のマネージャに、自らがほしい人材を探して、口説いて、入社にこぎつけるよう指示しました。その定着率は高く、採用も順調で、会社と社員の間で確かなエンゲージメントが生まれつつあります。
いずれにせよ、経営学におけるさまざまな理論やケースを、単独で振り回す場面は実際のビジネスにはありません。会社を動かしていく上で必要な戦略やオペレーション、会計、組織は複雑に絡み合っていて、それらを統合した最適解の実行が、経営者に求められているのだと思います。
◆ビジネスマンの最終コーナー
全ての解が最適だったとはとても言えませんが、社員とお客様に恵まれ、設立から4年連続で黒字を達成し、3億円の資本金で始まった会社は総資産10億円、純資産6.5億円、流動資産8億円にまで成長しました。経営の面白さと同時に、その難しさを経験したこの4年は、私の社会人生活の中で、かけがえのないものとなりました。そして分社のもう一つの目的であった、ゼネラルマネージャ育成については、会社を培養器にして、幹部社員が自律的に成長を遂げていました。彼らに経営を譲れる状況になったところで、図研の現社長からもう一度本社で仕事をしないかという打診を受けたのが、2019年の暮れです。
2020年4月より、営業責任者として本社に戻りました。当時苦楽を共にしたメンバーが幹部職の多くを占めて、25年前につくった新規事業は、見事に既存の事業ポートフォリオの一部となり総合事業として拡大していました。新規事業は、売上の増大に留まらず、既存事業にも刺激を与え、企業全体をリフレッシュする存在であることを確認できたのは、うれしかったです。
最初の新規事業立ち上げから、あっという間の25年でした。私は来年で還暦となりますが、引き続き既存事業の「深化」を後ろから支え、それを梃子にした新規事業機会の「探索」については、先頭に立って指揮を執り、営業部門から「両利きの経営」をリードしていきたいと思っています。
