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書籍紹介
矢萩美智(著)
『さくらんぼ社長の経営革命』
栗木 契(神戸大学大学院経営学研究科 教授)

2023年 中央経済グループパブリッシング
ビジネス・インサイトの「トップ・インタビュー」(第30巻第1号 No.117、2022年)にも登場いただいた矢萩美智氏(株式会社やまがたさくらんぼファーム 代表取締役)の著書『さくらんぼ社長の経営革命』が、2023年6月に出版された。本書では、農業というフィールドでの矢萩氏の経営者としての歩みが語られる。そしてそこには、農業や食の分野に限らない多くのビジネスパーソンが学ぶべき、経営の本質が示されている。
今の日本の社会には、決壊寸前のダムがそこかしこにあるという、悩ましい状況が広がっている。国内農業もそのひとつである。食糧自給率の低下は止まらず、農業従事者の高齢化が進む。しかし、だからこそ、本誌の読者のなかには「ピンチこそがチャンス」と考え、農業に注目している方が少なからずいるのではないかと思う。
わが国では、第一次産業の農業には規制が多く、営利企業がストレートに参入することは難しい分野だった。しかし、これまでの農業のあり方を維持していては、未来がないことは、誰の目にも明らかであり、どこからどのように改革のメスを入れていくか、政治の争点なども移行している。
15年ほど前の話になるが、ライフネット生命株式会社の創業者の出口治明氏と岩瀬大輔氏は、起業にあたって生命保険という分野を選んだ理由として、以下の3つの条件を挙げている。
①市場が大きいこと
②市場に大きな非効率が存在すること
③技術のブレイクスルーや規制緩和などの環境変化があること
生命保険の市場は巨大である。出口氏と岩瀬氏がライフネット生命を開業した2008年ごろには、日本の生命保険の市場規模は、保険料収入ベースで40兆円を超えていた。起業や新規事業に挑む際には、そもそもの市場の規模が小さいと、先々の成長の余地も小さくなってしまう。逆に、市場の全体が大きければ、ニッチを押さえるだけで、かなり大きな事業規模が獲得できる。
そして、ライフネット生命が参入する以前には、わが国の生命保険産業の生命保険料水準は、諸外国に比べて高止まりしており、対面の営業職員による訪問販売が主流だった。一方で金融サービスの規制緩和により、保険料水準などについて保険会社の裁量に委ねられる余地が広がっていた。また、ブロードバンドが普及し、インターネット上での金融取引はさらに拡大するものと見られていた。
起業や新規事業に挑む際には、新しい技術が活かせたり、規制緩和などが見込まれたりする市場を狙うべきである。こうした変化を活用して、規模の大きな市場の不効率を解消すれば、高収益と高成長が両立する事業が展開できる。出口氏と岩瀬氏は、この可能性をとらえてネット専業の生命保険事業を立ち上げたのである。
今の日本の農業は、この当時の生命保険の市場とよく似た状況が続いている。日本の農林漁業の市場規模は国内生産額ベースで12兆円ほどである。そしてさらに、関連する食品製造、流通、外食などの市場を加えると、100兆円を超える。この巨大な市場には、少なくない非効率が存在し、技術革新と規制緩和などによる新しい可能性が広がっている。
そこで重要となるのが、アントレプレナーの働きだ。出口氏と岩瀬氏の場合もそうだったが、誰かが主体的に行動しなければ、こうした条件のもとに潜在している可能性が顕在化することはない。こうした市場のメカニズムについては、一次産業であろうと、二次産業であろうと、三次産業であろうと違いはない。
矢萩氏が経営する株式会社やまがたさくらんぼファームは、山形県天童市にあって、果樹の栽培を祖業とする農業法人である。そして現在のやまがたさくらんぼファームは、果実の生産にとどまらず、販売、観光、加工、飲食へと事業の幅を広げている。家族経営を脱し、スマート農業、6次産業化、そしてSDGsなどの要素を取り入れながら、事業を拡大している。
本書には、そのなかにあって、一人の農家の跡取りが、農業において企業性を発揮することから生まれる可能性と、いかに取っ組み合ってきたかの軌跡が、生き生きと示される。たしかに、そこには、ライフネット生命のような大きな事業が実現しているわけではない。しかし、いずれにあっても、アントレプレナーシップが、人と組織の未来を開くことに変わりはないと思わされる。
本書のフィナーレは、コロナ禍の大逆風のなかで、やまがたさくらんぼファームが過去最大の売上げを実現していくストーリーである。ピンチはチャンスとなるのである。こうした可能性をたぐり寄せるためにも、農業においても経営が欠かせない。そしてそこで直面する「どうする!」の連続から、私たちは生きた経営を学ぶことができる。多くのビジネス・インサイトの読者の皆さまに、手に取っていただきたい一冊である。
