第108回 ワークショップ
価値評価研究への誘い
報告
1.M&Aを対象とした価値評価研究
岡本 紀明氏(立教大学経営学部 教授)
2.複数価値の追求と銘刻:マテリアルフローコスト会計を事例に
天王寺谷 達将氏(岡山大学学術研究院社会文化科学学域 准教授)
3.価値評価が形成する婚活市場と婚活戦略のゆくえ
高橋 勅徳氏(東京都立大学大学院経営学研究科 准教授)
4.経営学の価値評価研究における理論的基盤:
金融社会論、アクターネットワーク理論、科学技術人類学を中心として
金 信行氏(東京大学大学院学際情報学府社会情報学コース博士課程)
リプライと質疑
司 会:松嶋 登(神戸大学大学院経営学研究科 教授)
第一報告:M&Aを対象とした価値評価研究

岡本 紀明氏
(立教大学経営学部 教授)
M&Aに関する価値評価研究の視点
私は、「価値評価研究」特集号に掲載された「海外M&Aにおける複数評価原理の探究」を加筆修正し、まとめた形で報告します。
M&Aを価値評価の観点から研究する意義は、大きく挙げると三つあります。一つ目が、M&Aの規模および影響力が増大していること。二つ目は、十分な研究が進んでおらず、まだまだ未開拓な分野であるということ。三つ目が、M&Aは評価の塊としての取引・イベントと考えられるのではないかということです。
世界のM&A取引の件数は、2019~2020年は少し横ばいですが、2021年はアフターコロナの追い風もあり増加しています(図1)。金額ベースで見ると総額は右肩上がりになっていて、2021年には6兆ドル弱まで達しており、M&Aは世界的に増加しています。

日本国内の状況に目を向けると、1985年以降、M&Aの件数は、はっきりと右肩上がりで増加しています(図2)。しかし、金額ベースで見ると、1985年以降、右肩上がりにはなっていますが、金額的には2018年が突出して大きくなっています。特に、日本企業による外国企業へのM&A、外国企業による日本企業へのM&Aが非常に大きく、2010年以降はクロスボーダーのM&Aが非常に増加していることが分かります。なぜ2018年が突出して高いかについては、この年の武田薬品工業によるアイルランドの製薬大手会社のシャイアー買収が大きく寄与しています。わが国におけるM&Aの中でも過去最大規模であり、その分が大きな割合を占めています(図3)。


M&Aが規模・金額・件数ともに増加していますが、政策的にはどうかということで国内に目を向けると、経済産業省が非常に力を入れて取り組んでいます。「我が国企業による海外M&A研究会」を2017年に設置し、M&Aの問題点や改善策を検討し、専門家へのヒアリングを経て報告書の作成およびシンポジウムを実施しています。同時に、中小企業庁が2021年4月に「中小M&A推進計画」を策定し、検討会を立ち上げて議論を進めています。これは主に、中小企業の後継者問題について、M&Aで何とか会社を存続させていくということが背景として考えられます。
このように世界的に増加し、影響力が増大するM&Aですが、先行研究などを見ると、体系的に研究されているとは言い難い状況です。中でも相対的にファイナンス関連の研究が多くなっています。M&Aのアナウンスをイベントとして、その前後でどれだけ株価への反応があったかという研究は、過去30~40年で比較的多く行われてきています。
M&Aの影響力は社会的には増加していますが、どれぐらいアカデミックな注目を集めているかを判断するために、SJR(Scientific Journal Rankings)という世界中のジャーナルを集めてランク付けするサイトで、「management」と「merger」でヒットするジャーナルを検索しました。このサイトに登録されている雑誌はアカデミックなものが多いですが、社会の動きを反映して、それにマッチしたジャーナルが立ち上がっていると想像できます。
検索した結果、「management」で1879件のジャーナルがヒットしました。より限定すべく「business management」がタイトルに含まれているジャーナル数を調べたら100件ヒットし、「merger」「mergers」「M&A」がタイトルに入っているジャーナルはたった2件しかなく、予想以上に少ないという結果になりました。
つまり、M&A研究は経営学領域の各分野で一部見られますが、戦略・会計・ファイナンス・組織などそれぞれの分野に分散して存在しており、M&Aという枠でお互いのM&A研究の成果を情報交換する場は乏しいのではないかと思います。M&Aに特化したジャーナルは、いろいろな分野の論文が出されることが考えられ、各分野の査読者を様々な分野から用意しなければならず、大変な作業となります。そう考えると、M&Aのジャーナルが少ないのは納得がいきます。
先行研究でもその点は指摘されていて、Meglio and Schriberは2020年、「M&Aに関する研究は限られた構成概念(戦略適合度や統合・インテグレーションやパフォーマンス)など、いわゆるアンブレラコンセプトに偏る傾向がある」と言っています。これは興味深く面白い指摘です。アンブレラコンセプトとは、いわゆる包括的でやや抽象的な概念を表しており、この論文で著者たちは「分野ごとにM&Aの特性を理解しているつもりだが、実は共通理解があるわけでもなく、やや特殊な広がりを見せている」と述べており、分野ごとに一部M&A研究が存在する状況になっています。
アンブレラコンセプトはある意味、各分野に傘を差して、その分野だけをカバーしているのではないかという解釈もできます。
本研究は、この十分に開拓されていないM&Aに対して、価値評価研究の視点からアプローチしたいと思います。問題意識としては、M&Aはいかに評価されているのかという観点から研究を進めています。
M&Aのプロセスは、度重なる評価の塊と理解することもできると考えます。例えば、このあたりの企業を買収したいということで買収候補企業を大ざっぱに評価するのが第一段階の評価です。いよいよ本格的にM&Aを行うことになると、実際にターゲットになり得る企業をショートリスト[1]して、様々なシナジーの評価を行います。ショートリストしたら、その中から1社に絞るわけですから、選定して詳細なデューデリジェンス[2]を行います。この場合、例えば簿外債務や遊休資産などの細かいところまで調査を進めていきます。
買収締結後も、統合後の評価(Post Merger Integration:PMI)が重要だとよく指摘されます。PMIは、買収がうまくいっているかという事後的な評価です。会計の専門的なトピックになりますが、買収した場合、買収価額と被買収企業の帳簿価額の差額はのれんとして貸借対照表に計上されますが、特に国際財務報告基準(IFRS)ではのれんは償却されないので、必要なときに減損損失を認識します。将来キャッシュフローが見込めなくなったときには減損損失を計上するのですが、そのときも細かい評価が必要になってきます。そう考えると、M&Aは度重なる評価の塊とも取れると考えられます。
M&Aのパフォーマンスに関するアカデミックな研究の成果
M&Aの研究が進んでいないといっても、M&A自体の規模・量ともに増加しているので、様々な分野で注目されつつあります。学術研究でM&Aのパフォーマンスを捉える場合、いかなる指標が用いられているのかを調べています。例えば、従属変数にM&Aのパフォーマンスの様々な変数を取って、コントロール変数にもいろいろな要因を取って、何が効いているのかという研究はいろいろな分野にまたがって行われています。
主にレビュー研究ですが、先行研究を四つほど取り上げて整理します。
まず一つ目に、Zollo and Meyerの2008年の研究です。長期的なM&A研究を網羅的に振り返り、共通して用いられているM&Aのパフォーマンス指標を探求した研究です。彼らは結論として、一貫した単一の評価軸を得るのは難しいと述べています。
この研究で用いられているパフォーマンス指標を分析レベル(タスク・買収・企業)と時間軸で分けると、タスクレベルでは短期的には統合過程のパフォーマンスと知識移転とシステム転換、長期的には顧客存続率と従業員の維持、買収レベルでは短期的には財務パフォーマンス(株価の反応など)、長期的には買収先の存続など、企業レベルでは短期的には財務パフォーマンス、長期的には会計上のパフォーマンス、イノベーションの成果、市場シェアの変動といったものが用いられています。
二つ目の研究は、Papadakis and Thanosの2010年の研究です。この研究もM&Aのパフォーマンス指標を整理していますが、ギリシャにおける50の買収事例を追跡調査し、経営者にインタビューとサーベイを行っています。結論としては、経営者による買収の評価、「うまくいった」または「ベネフィットがあった」といったサーベイの結果と、より客観的な指標である総資産利益率(ROA)との間には相関が見られましたが、株価の累積異常リターン(CAR)には相関が見られなかったという結論が出ています。
この研究はまずM&Aの評価指標として「会計数値に基づく指標」「株式市場に基づく指標」「経営者の主観的な評価」に区分し、それぞれ長所・短所を挙げています。
まず会計数値をM&Aのパフォーマンスと見た場合、長所としては長期的なシナジーの効果が反映されますが、短所としては全体的な集計値であるため、買収自体の成果として利益が増加したのか、たまたま売り上げが伸びて利益が増加したのかは判別しづらいので、ケース・バイ・ケースで見ていかなければなりません。
次に、株式市場に基づく指標、つまり株価のポジティブな評価、株価への反応ですが、これは市場による数値をベースとしているため客観的である点が長所です。一方、短所としては、買収アナウンス後の株価の反応を見るので、買収そのものの評価というよりは、単に株主の期待を反映しているだけではないかという批判もあります。また、上場企業だけに適用される点も短所です。
最後に、経営者による主観的な評価をパフォーマンス指標として捉えると、KPIなどいろいろな指標、非財務・財務両方の指標を使うことができますが、経営者のバイアスが介入する可能性があります。経営者は、自社が行った買収をポジティブに評価しがちであることが短所として挙げられています。
三つ目は、Schriberの研究です。2020年の最も新しいレビュー研究になります。この研究では「財務的変数」「会計数値」「感覚的指標」に「期間」や「操作的変数」という二つの新たな尺度を加えています。「期間」は、一つの買収が成功したということは次の買収がなかなか行われないという観点に立っています。これもバイアスがかかっている観点ですが、買収がうまくいっていれば次の買収をすぐに行うことはないという仮定に基づきます。企業のM&A戦略をどのような観点で見るのかにもよりますが、このような指標も使われています。
「操作的変数」はKPIの一つかもしれませんが、より具体的なものを用いています。例えば、特許件数に焦点を絞って買収後に特許件数が増加すれば、特許戦略上に立つ買収の成果を反映しているのではないかという観点です。この2020年の研究では、パフォーマンス指標がより増えていることが分かります。
四つ目はGomesほかの研究で、より分野横断的で包括的な文献レビューから、M&Aの成功要因は何なのかをまとめています。成功要因としていろいろな項目が挙がっており、それぞれ買収前と買収後に分かれています。いろいろな観点から評価されている点は望ましいですが、どこに重点を置けばいいのかが分かりづらくなっています。
このように、先行研究でもM&Aのパフォーマンスを評価する指標は多種多様になっています。採用する評価尺度によって異なる結果になると考えられますが、どこにウエートを置くかは企業ごとの判断による面もあり、難しくなっています。先ほど挙げたMeglio and Schriberも、誰にとっての価値評価であるのかを常に意識することが肝要ではないかと述べています。
誰が何を評価するのか:専門家による報告書の分析
M&Aはそもそも誰が、何を評価すべきか明らかになっていません。経営者の評価なのか、従業員の評価なのか、株主なのか、それとも幅広くステークホルダーなのか、このあたりも明らかになっていません。そこで本研究は、個別の買収事例やサンプルを集めて分析するのではなく、これまで様々な企業による買収に携わった、もしくは分析した経験のある専門家の統一見解を調査することも有益ではないかという立場に立っています。
経済産業省が専門家を集めて検討を重ね、場合によっては実務家・企業にもインタビューなどを行って、2018年と2019年に報告書をまとめました。ここで二つの報告書に焦点を当てます。
2018年の報告書は、経産省による海外M&A研究会が中心となって作成したものであり、専門家の意見が集約されていると考えられます。具体的にはデロイト・トーマツ・コンサルティングを委託先として研究会を開催し、個別訪問を通じて多くの企業からヒアリングを実施した上で作成されています。
2019年の報告書は、「日本企業等による海外企業買収の課題等に関する調査・研究等事業」を通じて、PwCアドバイザリー合同会社と三菱UFJフィナンシャルグループを協力パートナーとして、幅広く調査を行い結果をまとめています。この報告書は、PMIの一環で現地に派遣されている日本企業の駐在員や買収先の経営陣を複数名集めた座談会もしくはヒアリングに基づいており、どちらかというと買収後のPMIに焦点が当てられています。この二つの文書を対象に、本研究は「評価」「価値評価」が使われた文書内の箇所を抽出し、誰が何を評価しているのかを文脈から推定して、その頻度をカウントしています。
2018年文書では、「誰が評価するのか」「主語は誰だったのか」を見ていくと、「買収企業」が80件のうち51件を占めています。続いて「コンサルタント、アドバイザー」が7件、「買収される側」が7件、あとは「社外や外部メディア」が4件でした。投資家と監査法人は1件ずつで、投資家による評価はかなり少ない結果でした。「何を評価するのか」では、2018年の文書では「M&A・買収自体の成果等」が20件で最多となっています。「対象企業・ターゲット」は多いと予想していましたが、10件でそれほど多くありませんでした。あとは「各種リスク」が7件、「買収価格」が6件、「その他」が各1~2件で37項目でした。
一方、2019年文書は「誰が評価するのか」については、海外企業にヒアリングを行った後の報告書なので、「経験豊富な海外企業」が20件です。欧州製造業にもヒアリングに行っているので「欧州製造業」と「米国企業」がそれぞれ9件です。この結果からは、特にインプリケーションはないと判断しています。2019年文書は主にPMIを対象としていますが、「何を評価するのか」で多かったのが「人事・人材・人員」で6件でした。あとは、「企業文化・組織文化」が5件、「事業」が4件、「その他」は各1~2件で53項目と最多でした。
全体的にM&Aを評価する主体は買収企業という結果が示されましたが、「何を評価するのか」に関しては多様性が浮き彫りとなりました。その中からいくつか例を挙げると「技術やブランド・顧客リスト」「事業の可能性」「外部アドバイザーの指摘事項の重要性」「トップラインシナジー」「サステナビリティ」など、いろいろな項目が挙がっています。
価値評価研究の知見に基づくインプリケーション
この調査結果を、価値評価研究の理論的観点からどう捉えるかということで、本研究では特に個人的に重要だと思われる三つの理論的観点から捉えています。
一つ目が「複数評価原理/評価における不協和」という理論的観点です。これは、「組織内に混在する複数の評価基準は不確実な状態をつくり出し、それが行動するきっかけをもたらす」という社会学者のデヴィッド・スタークの理論です。つまり、複数の評価基準が作用する状態を維持し、それによる不協和を徹底的に活用することで、新しい知識を生み出し、複雑な状況を乗り越えることが可能になるということです。このデヴィッド・スタークの主張に依拠すれば、今の複雑な社会的状況に直面する企業は、複数の評価基準の不協和をうまく活用して、起業家的なM&Aを行うことが重要であるといえます。
二つ目の理論的観点が、「評価の遂行性」です。価値評価は表向きには評価対象の状況を正確に反映することを目的としていますが、評価の塊が別の何かを遂行することにならないかというのが遂行性の本質です。例えば、マッケンジーの「オプション理論価格モデルの遂行性」が有名な事例です。
三つ目の理論的観点は、価値評価を行うのは基本的には人的アクター(個々人が行う評価)ですが、より複雑な評価ではマテリアル(物的)な装置もしくは備えが重要になるのではないか、もしくはその配置がより重要であり、それこそが経済的な行為を可能にしているのではないかという観点です。マッケンジーは「備え(equipment)」という用語を使っていますが、装置と似たようなものを指していると判断できると思います。
これら三つの観点から先ほどの文書の調査結果を分析すると、次のようなことがいえるのではないかと思います。
まず、M&Aの評価指標の多様性がかなり浮き彫りになりましたが、それは決して悲観的なものではなく、その多様性の摩擦(不協和)を生かして、より起業家的なM&Aが可能になると理解できるのではないかと思います。
それから、評価の遂行性に関しては、2018年文書で一番件数が多かった、「M&Aや買収自体の評価」に目を向ける方向性が示されました。ただ、M&Aを評価すると言えば言うほど、企業に対してM&Aの重要性を強調し、M&Aの遂行を促すのではないでしょうか。これはあくまでも仮説の段階ですが、このように捉えることもできるのではないかと思います。
評価装置や備えの重要性に関しては、「M&Aや買収自体」の他に「人材」「企業文化」などの評価も文書の分析で挙がっていました。多様な評価原理の存在も含めて、これらを評価していくには、具体的な評価装置、モデルや理論などが必要になるのではないかと思います。
例えば、昨年出版された同僚の中原淳先生の研究グループの著書『M&A後の組織・職場づくり入門』があります。M&Aを行っている企業もしくは関係者にインタビューとサーベイを行って、何が重要だったかを調べています。人と組織にフォーカスしていて、M&Aを成功させるためには「目的」「ビジョン」「理念」「対話」が深まっていかなければならないと述べられています。M&Aを成功に導くには、そういったものを評価する尺度も必要になり、今後、新たな評価装置として台頭してくる可能性もあると考えています。
最後に繰り返して強調したいのは、M&Aに関して複数評価原理の存在が認められますが、これは決して悲観的なものではなく、それをポジティブに捉えて革新的なM&Aを達成することは可能であるという点です。これはデヴィッド・スタークもしくは価値評価研究の理論に基づく洞察です。加えて、評価の遂行性と評価装置にも目を向けることは、さらなるM&Aの理解には重要です。本研究は専門家による文書に着目したものであり、実際のM&Aを直接観察した研究ではありません。かつ、シンプルな文書のコーディングであり、インプリケーションが限られることは本研究の課題だと自覚しています。
それでも、M&A前後のパフォーマンスがいかに評価されているかということに関する詳細な分析はまだ乏しい状況で、さらなる研究が必要だと思います。日本企業を対象としたものでも海外でもいいのですが、またどんな理論的アプローチをとるかにもよりますが、この点に関するエスノグラフィックな研究を行えば、国際的にかなり評価される研究成果になり得るのではないかと思っています。
国際会計基準審議会(IASB)では、今、のれんの会計基準を改定するプロジェクトを立ち上げ、かなり議論が進んでいます。M&Aの成果を経営者自身が開示することは、投資家にとって重要ではないかという方向で議論が進んでいます。IFRSがそれを取り入れれば、IFRSの任意適用企業もしくは海外の強制適用企業はM&Aの成果を評価して、その結果を財務諸表上のどこかに開示するということが今後起こり得るとも考えられます。どこに開示するかも議論されていますが、これは一つの評価指標になり得ると思います。
[1]ショートリスト:M&Aを検討している企業に対して、相手方となる候補先企業をリストアップしたロングリストから、戦略等を考慮し設定した基準によって、さらに絞り込んだリスト。基準としては、事業内容、製品ブランド力・技術力・地域シェアなどの強み、役員構成、財務状況などが挙げられる。この基準に従って上位数社に絞込み、これらの会社に対してより詳細な分析を行う
[2] デューデリジェンス:投資を行うにあたり、投資対象となる企業や投資先の価値やリスクなどを調査すること
第二報告:複数価値の追求と銘刻:マテリアルフローコスト会計を事例に

天王寺谷 達将氏
(岡山大学学術研究院社会文化科学学域 准教授)
私は、会計学の中でも管理会計を専門にしており、特にサステナビリティ、イノベーションに関わる領域をこれまで研究してきました。
本報告では、複数価値の追求を主題とし、複数価値を追求するマテリアルフローコスト会計(Material Flow Cost Accounting:以下、MFCA)を事例にした研究の紹介(東田先生(名城大学)、篠原先生(桜美林大学)との共著論文「複数価値の併存」)と、複数価値を追求する会計計算のあり方について現在考えていることを、関連研究を紹介しながらお話しします。
なぜ複数価値の追求か
なぜ複数価値の追求を主題にするのかについて、まずは射程とする期間の観点から、単一価値を追求することを出発点に考えてみたいと思います。単一価値追求の典型例としては、短期的な経済価値のみを追求することが挙げられますが、これは市場環境等が不変であるという前提を置いて初めて可能になるものです。
市場環境等の変化は、受動的に捉えると、変化した環境へ対応するという問題に、能動的に捉えると、環境を変化させる主体となる(主導権を握る)機会を逃してしまうという問題に対処する必要性を浮き彫りにします。したがって、短期的な経済価値ではマイナスであっても、長期的な将来の経済価値のプラス(もしくはマイナスの回避)を期待して、例えば、研究開発に投資するのです。
「両利きの経営[i]」も、まさに短期的な経済価値のみを追求することの問題に関連する議論であり、短長期とバランスよく価値を追求していく重要性をうたっています。「知財・無形資産の投資・活用戦略の開示及びガバナンスに関するガイドライン」や、統合報告書も同様で、短長期とバランスよく価値を追求していくために、短期的な経済価値ではない他の価値も追求すること、またそれを開示することの重要性を強調しています。
次に、経済価値以外の価値への影響の観点から複数価値の追求の重要性について考えます。経済価値のみの追求は、その影響力が小さいという前提を置けば大きな問題は生じません。しかし、経済活動の影響力が大きい場合、外部不経済の問題が深刻となってしまうこともあります。そのマイナスの部分をフォローするアクターの候補としてまず考えられるのは、政府や国際機関になりますが、その力には限界があり、影響力の大きい企業が、例えば環境価値の増大(もしくは減少の回避)の役割を担う重要性は高まっています。
複数価値を追求するためには、そのためのマネジメントシステムを構築することが重要となります。このようなマネジメントシステムの構築にあたって、本報告では影響力の大きい会計計算の貢献可能性に着目します。会計計算の貢献可能性は、例えば、國部先生(神戸大学)の著書『アカウンタビリティから経営倫理へ』でも着目されており、経済という一元的な世界から、多様な人間の世界を取り戻すための方法として、会計計算を複数評価に転換する重要性が指摘されています。
複数価値を追求するマテリアルフローコスト会計(MFCA)とその問題
MFCAは、複数価値を追求する手法の一つとして位置付けられますが、それはマテリアルロス(廃棄物)の原価(=マテリアルロスコスト)の計算を通じて資源生産性の向上を促すからです。資源生産性の向上が実現すれば、アウトプット単位当たりに必要となるマテリアルの利用量が減少し、購入コストが削減されるため、経済価値が増大します。さらに、マテリアルの移動や消費によって発生する環境負荷が低減されるため、環境価値が増大します。
MFCAは、原価計算の手法です。製造業では、製品の原価計算が必要となります。商品を安く仕入れて高く売る商品売買業では、売れた商品の仕入価格が分かれば、販売価格と比較することで、商品を安く仕入れて高く売ることで得られる利益の計算は簡単にできます。一方、製造業の場合、製品を作るためには、製品を構成する材料だけでなく、人や機械、工場も必要で、多様な経済的資源が消費されています。したがって、製品を安く作って高く売ることで得られる利益を計算するためには、製品を作るために消費される多様な経済的資源を把握する必要があります。多様な経済的資源が各製造工程で消費された結果として産出されたものが製品であり、それを貨幣情報で表現したものが製品原価です。計算した製品原価を販売価格と比較することで、製品を安く作って高く売ることによって得られた利益額を計算することができます。
MFCAでは、資源生産性の実測値を利用して、マテリアルロスの原価を計算し、資源生産性の向上を促します。資源生産性を向上させると、インプットに必要なマテリアルの量が減ります。例えば80kgのアウトプットが欲しいときに、資源生産性が50%であれば半分を捨てることになるので、インプットとして160kgが必要になります。一方、資源生産性を80%に向上させることができれば、80kgのアウトプットに必要なインプットは100kgに抑えられるので、資源生産性が50%の時に比べて、60kgのインプットが必要なくなります。それにより材料の購入価格も減り、環境負荷も低減できるのです。
利益の計算では、製品原価が販売価格よりも安くなっていることを確認できればいいので、マテリアルロスの原価を計算する必要はありません。しかし、マテリアルロスを作るのにも多様な経済的資源が消費されています。マテリアルロスについても製品と同様に原価を計算すると、マテリアルロスにお金をかけていることが分かります。そうすることで資源生産性の向上を促すのがMFCAになります。
資源生産性を向上させることによりマテリアルのインプット量は減り、マテリアルのインプット量が減れば環境価値と経済価値の両方を増大させることができます。環境価値と経済価値の両方の増大を促すMFCAは、複数価値を追求する手法であると言えます。一方、東田先生と國部先生は2014年の論文で、MFCAの実践における環境と経済の離反という問題、すなわち経済価値の増大が環境価値の増大よりも優先される可能性があるという問題を提起されています。
資源生産性を向上させると、コストの削減も環境負荷の低減も実現できますが、限られた選択肢の中でどの案が選択されるのかということを考えたときに、この問題が浮き彫りになります。例えば、環境価値の観点からは、相対的に環境負荷の高いマテリアルの削減が重要となりますが、そのコスト削減額が小さい場合、その代替案は選択されるのかということです。経済価値が優先されるとき、コスト削減額が一番大きい案が優先されます。極端な例では、最も環境価値の増大をもたらさないけれども、最も経済価値の増大をもたらす案が採用されることも考えられます。
天王寺谷・東田・篠原(2020)は、この問題が生じる理由に取り組みました。経済価値の優先という事象は、MFCAを取り巻くアクターの連関の結果であって、実践としては局所的な現象として表れるため、その要因は様々な観点から考えるべきですが、この論文では、その理由の一つとして「銘刻の変換プロセス」に着目して明らかにしようと試みました。
「銘刻」は、紙などに刻まれた情報とイメージしていただければと思います。銘刻は、動かすことができるため、そこに刻まれている対象から離れた場所に蓄積できます。離れた場所で銘刻を蓄積できることは、そこに刻まれている対象を離れた場所から支配することを可能にします。一つの事例として地図が挙げられます。例えば、東京の地図は、出張で泊まる場所はどこがいいかなどを、離れた岡山から考えることを可能にさせます。
会計数値は、銘刻の一つの形として会計研究においても着目されており、本論文のポイントでもあります。会計数値は動かせて、歪みや破壊や腐朽もありませんし、合計・並び替えが可能で、離れた場所から会計数値として刻まれている対象の支配を可能にします。
銘刻は変換すること、別の言い方をすれば、新たな銘刻を作成することができます。そうすることによって、銘刻の蓄積をより促すことができます。質問用紙を例にしましょう。各質問用紙には、問1については何番、問2については何番という形で各人が回答した情報が刻まれています。ここで各人の問1に対する回答を抜き出します。各質問用紙から抜き出された問1の回答は結合可能性が高く合計することが可能で、例えば一枚の用紙の中で平均値といった新たな銘刻を作成し、それを他の設問のものと比較することもできます。このような結合可能性を高める銘刻の変換によって新たに作成された銘刻は、蓄積されやすくなります。銘刻が蓄積されると、そこに刻まれた対象の支配が促進されることになります。
一方、新たな銘刻を作成するプロセスでは、失われるものもあります。この失われるものに着目したのが天王寺谷・東田・篠原(2020)になります。
例えば、土塊の事例がラトゥールの著書の中で紹介されています。「土塊」というのは土の塊ですが、動かすことができなければ、離れた場所から支配することはできません。そこで動員されるのが土壌比較器です。土壌比較器でサンプルを採ることにより可動性が与えられます。さらに土の色味の違いなどの比較を可能にさせます。
一方で、土は腐るので、安定性は低いと言えます。そこでマンセルコードが動員されます。マンセルコードとは、全ての色合いに対して数字と記号を割り当てるものですが、そうすることによって安定性を獲得することができます。さらには可動性も高まります。例えば、このジャングルの土は、マンセルコードでは〇〇というようにコード化されます。そうすることで、離れた場所からその土をイメージできるようになります。一方で、その土は元々いろいろな相互依存関係にあるジャングルの中で存在していたわけですが、コード化されることによって文脈に関する多様な情報が失われるという問題も生じます。
では、MFCAではどのような情報が失われるのでしょうか。MFCAでは、消費される様々なマテリアルの流れをまず物量で把握します。この工程でこれだけ投入されて、これだけ捨てられるということを、物量情報としてマテリアルごとに把握します。その次に、物量情報は貨幣情報に変換されます(図1)。貨幣情報は結合可能性が高い情報で、マテリアルロスとなる各マテリアルの貨幣情報は、最終的にマテリアルロスコストとして合計されることになります。

ここで失われる情報に着目すると、物量情報から貨幣情報に変換されるプロセスでは、各マテリアルの物量情報が失われています。物量情報が失われることで、環境負荷に関連した物量という側面からマテリアルを支配することはできないという問題が生じてしまいます。
さらにマテリアルロスコストを計算するプロセスでは、マテリアルの種類ごとの情報が失われてしまいます。環境負荷は、マテリアルの種類ごとに変わります。したがって、マテリアルの種類ごとの情報は、環境価値の増大という観点から非常に重要になりますが、その情報を失うことで、マテリアルの種類を枠組みに入れたマテリアルの支配はできないという問題が生じてしまいます。
すなわち、MFCAにおいて新たな銘刻が作成されるプロセスでは、環境価値を追求するにあたって重要な情報が失われているのです。最終的に計算されるマテリアルロスコストは貨幣情報であって、経済価値の観点からの判断が促されます。これがMFCAにおいて経済価値の増大が環境価値の増大に優先される理由の一つとなります。MFCAを通じた資源生産性の向上は、環境価値の増大と経済価値の増大を両立させますが、環境価値の増大は経済価値の増大に従属される形で実現するという構造になっているのです。
複数価値を追求する会計計算のあり方
ご紹介した天王寺谷・東田・篠原(2020)は、MFCAを対象とした研究ですが、MFCAに留まらず、複数価値を追求する会計計算のあり方に対して示唆を与えています。それは、銘刻を変換することのメリットとデメリットをしっかり把握することが重要であるということです。
メリットとしては、複数価値の追求を促進している点が挙げられます。貨幣情報に変換することで、結合可能性を高めることができます。各マテリアルの物量情報の結合可能性は、高いとはいえません。例えば、水の物量と化学物質の物量を足してもあまり意味がありません。結合可能性が相対的に低い物量情報を貨幣情報に変換することによって足し引きが可能になり、比較がそれによって可能になります。このように結合可能性を高くすることによって銘刻の蓄積を促せるので、複数価値の追求を促進することができます。
論文では経済価値が環境価値に優先するという側面を強調していますが、たとえそうであったとしても、経済価値に従属してという形にはなりますが、環境価値も増大しています。価値の増大は、MFCAを通じて実現しており、MFCAがなければ実現しなかったかもしれません。MFCAは、物量情報を貨幣情報に変換することで銘刻の蓄積を促しており、それによって環境価値と経済価値という複数価値の追求を促進しています。この貢献は、大前提として強調されるべきであると思います。
一方、デメリットとしては、複数価値を追求する上で重要な情報が喪失している点が挙げられます。計算プロセスにおいてどのような情報が喪失されているのか、情報の喪失による弊害は何かを理解することが重要になります。
実は、「銘刻の変換」は、私の知る限り、天王寺谷・東田・篠原(2020)で初めて採用された概念です。銘刻の変換という表現は、ラトゥールの著書の中でも利用されているのですが、しっかり読み込まないと気付かないこともあって、「銘刻の変換」に焦点を当てた研究の蓄積がありません。
一方で、「銘刻の変換」に近い概念として共約(commensuration)があり、共約に関する研究はある程度蓄積されています。以下では共約に関する研究蓄積の考察を通じて、複数価値を追求する会計計算について理解を深めることを目指したいと思います。
共約とは、異なる質のものを一つの尺度に変換することを意味します。共約で数字に変換することによって、差異の把握・表現・比較を即座にできるようになります。さらに共約は、根本的に異なるものの間に関係性を作り出します。例えば、私の研究室には机やパソコンなど根本的に異なるものがありますが、貨幣情報に共約することができます。そうすることで、金額という観点から机やパソコンの間に新たな関係性を作り出し、その差異の把握・表現・比較ができるようになります。
共約で変換された数字は、構築性を得ます。共約は、情報をシンプル化し、新たな関係性を作り出すために、認識の変化を促すことに寄与します。大学ランキングを例に挙げて説明しましょう。われわれ人間は一度に処理する能力に限界があるので、大学を取り巻く様々な情報を処理することは難しく、シンプル化された数字としてのランキング情報に影響を受けることがあると思います。さらに、そのような影響力を持つ大学ランキングが生み出す新たな序列は、各大学に対する各人の認識の変化を促します。そうなると大学側は大学ランキングで高い評価をしてもらう必要が出てくるので、ランキングを高めるための行動を取り始めます。これら一連の流れは、大学ランキングが生み出したものであると言えるでしょう。
また、共約は、より機械化した意思決定を可能にさせます。共約は一様のルールを通じて異種の情報を数字に変換しますが、一様のルールは、機械化した意思決定を促します。さらに、数字は、その監視と標準化を通じて、人の振る舞いの規律となります。数字が人の振る舞いの規律となることによって、より機械化した意思決定が促されます。数字の構築性は、意思決定の機械化が進むとより高まると考えられます。
一方で、共約の弊害に関連する議論もあります。まず、共約前の古い分類の型や質的差異・類似点が重要ではなくなってしまうという問題です。この点は、シューマッハーが非常に分かりやすく述べていて、石油や石炭、薪、水力などいろいろなエネルギー源をコストという経済価値に変換すると、採用の判断にあたって、各エネルギー源の質的差異や類似点は重要ではなくなり、コストという単一の基準のみが重要になるという問題が生じることを指摘しています。
次に、脱判断の問題です。セオドア・M・ポーターは、数字と定量的操作への依存は、詳細な知識と個人の信頼の必要性を最小化してしまうと述べています。詳細な知識の必要性を最小化する点は、共約前の重要な情報が必要なくなるという議論で一つ目の弊害と同様のものとなります。個人の信頼の必要性を最小化する点は、先ほどの機械化した意思決定の議論に関連します。数字と定量的操作に依存している場合、信頼の基礎は、人ではなく手続きの客観性となります。データから計算に至る厳格で脱個人的な手続きがしっかりなされていれば良いということは、人の自由裁量を減じてしまい、自分たちの判断の余地がなくなってしまうことに繋がります。
このような弊害に鑑みると、共約不能という概念を取り入れる必要性がありそうです。共約不能とは、比較することの否定です。それを共約不能なものとして残す、共約をしないという選択もできるということです。
ここでまとめとして、共約の視点から複数価値の追求を捉えてみます。まずメリットとして、共約を通じて数字に変換させることで得られる構築性は価値創造を促進するという点が挙げられます。
一方で、デメリットとしては、まず脱コンテキストの問題が挙げられます。これは、共約を通じて重要かもしれない情報が喪失してしまうという問題です。また、脱判断の問題も挙げられます。共約で重要な情報が失われている中で、機械的な意思決定に依拠してしまうと、気付かないままに大きな問題を引き起こしてしまうリスクが高まります。
共約のデメリットに鑑みて、共約しないという選択を取ると、テンションが生じます。このテンションをしっかり捉えることが重要ではないかというのが、最もお伝えしたいポイントとなります。テンションを把握して、それをどうマネジメントするかという議論は、パラドックスの研究群でなされていますが、まだまだ知見が足りません。ここでは、二つの関連研究をご紹介します。
まず、天王寺谷・諸藤・中嶌・鈴木・木村(2022)です。これは、三菱ケミカルホールディングスの事業会社である三菱ケミカル株式会社の実践を捉えた研究となります。三菱ケミカルホールディングスは、「経済」と「イノベーション」、「サステナビリティ」という価値を別軸に捉えた企業理念を提示しています。ここで、サステナビリティの価値と経済の価値は共約不能になっています。このモデルを作られた小林喜光氏は、「企業として一つの活動が収益を上げると同時に、サステナビリティにも大きく貢献している場合、私は『両方を一度に実現している』とは言わず、わざわざこの事業は収益もきちんと上げているし、MOS(サステナビリティ)面での評価も高いという捉え方をする」と説明されています。
経済とイノベーション、サステナビリティを別軸で捉えた企業理念は、三菱ケミカルの研究開発のマネジメントにも活かされています。まず、経済とイノベーションとサステナビリティでは、価値実現のタイミングが短期・中期・長期と異なりますが、事業領域ごとに短期・中期・長期のバランスが取れたポートフォリオを作ることによって、サステナビリティに関連する研究開発テーマがポートフォリオに組み込まれる構造になっています。また、三菱ケミカルの研究開発マネジメントでは、ステージゲート法が利用されていますが、サステナビリティに配慮したテーマは、特に初期のステージゲートにおいてより優位に評価される傾向にあります。三菱ケミカルでは、このようにサステナビリティを別軸で捉えることによって、サステナビリティに関する価値創造を促す仕組みができています。
また、複数価値を追求する銘刻に関する研究を現在進めており、そこから二つの事例を紹介します。まずはSai Gon Beerで利用されている銘刻です。Sai Gon Beerは、瓶詰ビールと生ビールを評価するにあたって、環境価値を示すCO2換算量、水、総エネルギーの情報が物量情報として、経済価値を示す貨幣情報としてのコスト情報と併記された表を活用しています。この表では、物量情報の貨幣情報への変換が行われておらず、経済的な一元評価を回避し、銘刻に示された環境に関する各価値の側面と経済価値の側面からの判断を可能とさせています。
次に、國部先生とコンサルタントの下垣氏の論文で提示された、MFCAの値をX軸に、環境影響評価指標であるLIMEの値をY軸にとったグラフです(図2)。LIMEでは環境影響を貨幣情報で表現しますが、その額が小さい場合、環境価値が経済価値にのみ込まれて過小評価されてしまうという問題がありました。このグラフ(図2)は、その解決策として位置付けることができます。それぞれの数値を別軸に捉えることによって、環境価値と経済価値の両面からの判断を可能にさせています。

最後に、複数価値を追求する会計計算の研究可能性について、Miller and Power(2013)が提示している会計の四つの役割の視点から共約に関連させて考察します。ぜひ、この論文を読んでいただければと思いますが、この論文を基盤にしたミラー先生の講演も論文化されており、立正大学の阿部先生が翻訳されているので、こちらも参考にしていただけたらと思います。
四つの役割は、「領域化する(計算可能な空間を再帰的に構築する)」「媒介する(様々なアクターを繋げる)」「裁定する(業績の良し悪しなどを決める)」「主体化する(個人を従属させる)」になります。中でも一番のキーワードになるのは、「領域化する」です。領域化するというのは、計算不能であったものを計算可能にすることですが、共約の観点から捉えると、何を共約し、何を共約しないのかを決める役割になります。複数価値を追求する会計計算を構築するためには、まずはこの点をきちんと考えることが重要になります。さらに、「媒介する」では、共約するか否かによって周りの関係性がどのように変わるのかという研究を、「裁定する」では、共約するか否かによってどのような判断が可能になり不能になるのかという研究を、「主体化する」では、共約するか否かによって導かれる個人の判断はどのように変わるのかという研究を進めることで複数価値を追求する会計計算についての理解を深めることができるのではないかと思います。
共約は、具体的な事象として現れます。かつ、その影響力は大きいので、共約を中心概念とした研究を進めること、特に、何を共約して何を共約しないのかの決定に関する議論が非常に重要になると考えています。共約不能なものは共約しないという選択肢もあるのです。重要な問題の解決にあたっては、主観的な判断が重要であるという主張を受け入れれば、複数価値を追求する会計計算のあり方は、全てを共約して機械化した意思決定を導くのではなく、主観的な判断の余地をしっかり残す構造にすべきでしょう。
[i] 両利きの経営:知の「深化」と「探索」という2つの異なるモードを両立させ、組織が変化し続ける状態を生み出す、イノベーションの経営理論。第一人者であるオライリーとタッシュマンの著書『両利きの経営』の翻訳版が2019年に発行された
第三報告:価値評価が形成する婚活市場と婚活戦略のゆくえ

高橋 勅徳氏
(東京都立大学大学院経営学研究科 准教授)
価値評価が婚活市場を作り、結婚を難しくしていく
私は、そもそもの専門が企業家研究やイノベーション研究なのですが、イノベーションを仕掛けるのが価値評価であるとしたら、その価値評価に影響を受けて行動する人々が消費者であり、この関係の中で新興市場が生まれていくのだろうと考えたときに、自分が経験してきた婚活はいい対象になるのではないのかということで、「価値評価研究」の特集号に投稿させていただき、それを著書として出版できました。
今回は、日本情報経営学会(JSIM)の特集号に掲載されている論文「増大するあなたの価値,無力化される私:婚活パーティーにおけるフィールドワークを通じて」を基調にして、著書『婚活戦略』の内容とそれを踏まえた上で現在作業中の内容にも触れる形で、われわれの日常生活までしみ込んでいる価値評価が、どのように行われているのかをお話しします。
「婚活」はそもそも何なのかというと、この概念の生みの親は『「婚活」時代』を書かれた家族社会学者の山田昌弘先生です。同書ではわが国が抱えている少子高齢化の原因が、団塊ジュニア世代の未婚化・晩婚化にあると指摘しています。その上でこの本が出版された2008年に「婚活」という概念を提唱することで、結婚に積極的に前向きになってもらおうと、戦略的に社会への介入を目指されていました。
山田先生は、とりわけ女性が結婚後に求める生活のイメージがバブル時代に高止まりしているのに対し、男性の平均年収が「失われた20年」で右肩下がりになった結果、男性の経済力と女性が求める男性の経済力のニーズの不一致が起こって、団塊ジュニア世代は未婚化・晩婚化しているのだろうと捉えています。だとしたら、そのような理想的な結婚を実現してくれる男性はほとんどいないという現実を女性が受け入れ、共働きを覚悟して、「結婚後でも、経済的にそこそこ生活できる」世帯収入の実現を目指すという、現実的結婚を提示することが、この『「婚活」時代』に込めた最大のメッセージだとおっしゃっています。
実はこの婚活戦略の背景として、山田先生が2010年の論文で述べているのが、ベッカーが1973年と1974年に発表した結婚の経済学的なモデルです。ベッカーは、結婚して家庭を構築することで得られる効用と、独身でいる場合に得られる効用の比較を経て、独身から得られる効用を上回った場合に結婚への意思決定が行われるとしています。山田先生は婚活概念について、このベッカーの経済学的モデルの影響のもとで提示したことを、論文の中で指摘しておられます。今のままの理想的結婚といわれる、バブル時代に高止まりした家庭イメージを求める効用に置いたら未婚化は解消しないけれども、理想的ではなく現実的結婚で、そのための基準として世帯収入を置けば、結婚の効用の方が高くなるだろうと考えたのが、「婚活」という概念に込められたそもそもの意味合いだと思います。その点で婚活は、概念そのものが提示された時点で、男性も女性も経済力を可視化した上で、家族を構成する結婚をしたときに得られる効用を、明示化する作用があったと思います。
その結果、山田先生は2010年に発表された『婚活現象の社会学』で、「婚活」という概念そのものが暴走してしまい、未婚化がこのまま加速するかもしれないと、極めて反省的に述べています。
山田先生は『「婚活」時代』と『婚活現象の社会学』の中で、年収400万以上の男性は全体の19%しかおらず、女性がその現実を受け入れて共働きを覚悟し、結婚後も経済的にそこそこ生活できる世帯収入と配偶者選びをライフデザインとして考えようという提案をしたはずだったと指摘しています。その提案の中で、結婚相手を選ぶためには経済的な指標が非常に重要になるという通念が生まれてきたのだと思われます。
それでは、実際に実現した婚活はどうなったのかというと、婚活ビジネスは以前からありました。結婚相談所で行われているお見合いがそれに当たります。山田先生が婚活を提唱する前は市場規模が500億円でしたが、2016年は2000億円となりました。現時点での正確な数字はまだ出ていませんが、2500億~3000億円規模にまで伸びています。婚活が提唱されてから日本では結婚相談所だけでなく、マッチングアプリや婚活パーティーなどのサービスを提供する企業が増加して、それに伴って市場規模も拡大し、利用者も増えています。
また、婚活の概念が提唱された2年後の2009年では、マッチングアプリや婚活パーティーを利用して出会い、結婚相手が決まった人は2.9%でしたが、2020年では16.5%まで上がり、とりわけ20代の年齢層では主要な方法の一つとして成り立つ規模になっています。
しかし、肝心の団塊ジュニア世代の結婚はどうなったのかというと、未婚化・晩婚化が解消しなかっただけでなく、その下の世代まで続いているのが現状です。実際に1993年ごろにピークを迎えた婚姻率、成婚数はずっと右肩下がりで、ようやく少しだけ上がったのが2020年でした。これはコロナ禍による社会不安で、条件を下げて結婚する人が増加したからではないかと分析されています。もちろんそれは一時的なことで、全体としては右肩下がりになっています。
2020年に私が『婚活戦略』を出した前後に、婚活を支援している現場の方や調査をしているジャーナリストの方からも相次いで本が出版されました。ジャーナリストの荒川和久氏の『結婚滅亡』や、婚活カウンセラーの三島光世氏の『「普通」の結婚が、なぜできないの?』でともに指摘しているのは、女性が選り好みし過ぎている点です。例えば、平均的な女性が男性に求める平均年収ラインは年収500万円ですが、年収500万円以上の層は多くなく、普通の結婚にそれを求めたため、結婚できなくなっていると問題提起されています。
この問題提起は2010年に山田先生の研究グループが指摘し、関口先生の論文によれば、婚活という言葉は元々現実的な結婚を目指そうという概念であったはずなのに、女性にとっては高収入の男性を配偶者として獲得する手段になって独り歩きしてしまい、それが暴走してしまっているのが現状です。
なぜこんなことになったのか、婚活市場が価値評価という観点からどのように形成されていったのかという論点から説明させていただきます。
婚活支援サービス業者が婚活市場を形成するに当たっての設計思想について、多くの当事者の方々は「価値観マッチング」と言っているのですが、まず、年齢、年収、職業、学歴、家族構成、趣味、容姿といった指標を用意して、それに基づいて年収は何百万円台、学歴は大卒まで、などという形で結婚希望者をデータ化します。データ化することにより、男性側も女性側も結婚相手に求める条件や結婚に求める将来の生活のあり方といった価値観が明確化されます。明確化したらマッチングしやすくなり、条件が一致している者同士が会うから結婚もしやすいだろうと考えたのが基本的な発想です。
彼らが提供するサービスの特徴にどのようなことがあるかというと、まずコンテクストフリーの出会いの場が提供されています。マッチングアプリや婚活パーティー、結婚相談所では、今まで自分が獲得してきた人脈の延長線上では出会うことができない人と交際もしくは結婚を前提として出会うことができます。婚活支援サービス業の方々は、そうした空間をアプリ上や婚活パーティー、結婚相談所のお見合いという形で提供します。
特徴として挙げられるのは、これらに入会あるいは婚活パーティーに参加するに当たって必ず明示しなければいけないのが、年齢や学歴、職業、年収、趣味といった指標であり、婚活に臨む男女のスペックが可視化されるということです。マッチングアプリなどの場合はデータベース化されて、検索可能な状態になります。婚活パーティーであれば、ある一定のスペックを持っている人を集めて出会いの場をセッティングします。結婚相談所のお見合いサービスでも、データベースからピッキングして条件が合う人をマッチングさせるサービスを提供しています。その結果、出会いの多頻度化が可能になります。婚活市場は、本人が望み、会費を支払い続ける限りは何度でも出会いの機会が獲得できるという特徴を有しています。
こうした設計思想から得られる効果は何かというと、可視化されたスペックを前提に理想の配偶者を求めて、心行くまで異性の比較考量が可能になることです。前もってスペックが明示されているので、安全・安心に異性を吟味するだけでなく、恋愛関係の構築に集中できると考えられていました。日常生活における出会いのパターンでは、恋愛感情が成立して付き合い始めてから、結婚に至るまでいろいろな不安や障害がある場合がありますが、婚活市場ではそれがないということです。お互いにこの人は間違いないという状態で出会えるので、安心して恋愛に集中できるはずであり、比較考量と安全な恋愛で成婚率が上昇していくはずだと考えられていました。
2010年に婚活という言葉が普及して以降、婚活支援サービス業者はこうした設計思想の下で婚活男性と婚活女性をデータ化し、検索可能なデータベース化して、ピッキングして出会える状況を構築してきました。それは、この業界の努力であると思います。
私が2018~2019年にかけて月3~4回にわたって婚活パーティーに参加した際に、自己紹介カードを毎回必ず書いていました。その中にも、私が結婚する価値があるかどうかを判断してもらうために提供する指標の項目があります。年齢や身長(容姿)、学歴、職業、年収、もう一つは婚姻歴です。再婚者市場もありますので、婚姻歴の有無も重要な指標です。結婚相談所でも同じように、先ほどの指標に基づいてプロフィールを書いています。違うのは自己PRや推薦コメントが書かれている点ですが、それ以外はほぼ同じです。婚活パーティーと結婚相談所の大きな違いを挙げるとすると、年齢も年収も職業も家族構成も全て公的な証明書の提出が求められ、確実なデータであることが保証されている点です。このデータも会員だけがアクセス可能で、仕組みはマッチングアプリとほぼ同じです。ウェブ上で自分の条件に合っている人を探し、交際の申し込みをすることが可能です。
婚活市場でまずなされたことは、自分のスペックを可視化していくことで、自分自身を商品として婚活市場の中で検索可能な状態にすることでした(図表1)。

こうして私のスペックを見てみると、国立大学院修了、職業は公立大学教員、年収は1000万円、結婚歴はなし(アピールポイントとして正確に言うと離婚歴なし)、長男でも母親は妹夫婦と同居しているので、親との同居予定なしです。年齢(当時44歳)が高いこと以外、条件は悪くありません。婚活を始める時点で『「婚活」時代』を読了していたので、女性が高収入の男性を配偶者として獲得する手段として独り歩きしているのであれば、私は一応高収入男性のカテゴリーに入り、贅沢を言わなければ良い結婚相手が見つかるのではないかという計算をしていました。
それでは、実際に婚活パーティーに行ったときに何が起こったかというと、印象的なエピソードとして「行列現象」がありました。
その現象が起きたのは、男性の参加条件として年収1000万円以上のハイスペックな婚活パーティーでした。婚活パーティーでは、普通はラウンド形式といって、椅子に座った女性の前に男性が順番に座り、持ち時間5分でアピールする時間を2回設けて、その後マッチングの申し込みをして、成立したら連絡先を交換するのですが、この婚活パーティーは、立食パーティー形式で、移動は自由、その場で連絡先交換が可能でした。参加していたメンバーに若くて男前の大手広告代理店勤務の男性がいたのですが、開始5分でその男性の前に女性の行列ができました。女性は順番に自己アピールをして連絡先交換をします。この行列に並んでいる間は、他者が横から割り込んで話をすることはできないので、私を含めた男性たちは隅に固まって様子を見ていました。
30分ほど経過して、連絡先を交換し終えた女性に会話を試みようとして挨拶に行きましたが、会話を始めたタイミングで、適当な理由で離れて戻ってきませんでした。これは私だけではなく、同じようなことがあちこちで起こっていました。何とか会話が成立した女性は、「この場では年収が高い人だけが参加しているので、その中で選ぶべき人は一番若くて男前の人で、収入がものすごく高い人がいたとしても、同じようなパーティーは他にもあるし、他のパーティーで出会えるから話す必要はない」と言っていました。
価値評価の中で価値が一般的に高いといわれている人を集めることによって、その価値そのものが無力化されるのが、この「行列現象」といえます。
これが進むと、対面でのシャットダウン現象が起こります。婚活パーティーにもいろいろなパターンがあって、単純に年収や年齢だけでなく趣味が合う人同士の婚活パーティーがあります。一番多いのがアウトドアとスポーツで、私の趣味にも合致するので、そういった婚活パーティーにも参加しました。指標で評価されているので、スポーツ好きという点は合致しても、ただのスポーツ好きではその指標の中で価値が生まれません。さらに細かいマッチングをしないと価値が発生しないということは、例えば、同じスポーツ好きのカテゴリーで集まっても、テニスならテニス好きの人同士でないと駄目だということです。
私は釣りが好きなので、アウトドア好きのパーティーに参加したとき、釣りが好きな女性と出会いましたが、その女性はブラックバスの釣りを好んでいました。私はフライフィッシングと船釣りをやっていますが、同じ釣り好きと言っても価値観レベルで合いません。指標の中では合っていますが、このパーティーの場では指標で合っていることそのものが価値ではなく、マイクロなマッチングが成立して初めてこの人と付き合う価値が生まれるという判断をします。つまり、同じ対象魚を同じ釣り方で釣っている人でなければ、マッチングする価値がないとお互いに判断しているので、マッチングの申し込みは、お互いにしないという現象が起こります。
同様に、結婚相談所でのお見合いの席では、プロフィールに基づいて仕事内容や資産状況、家族構成、結婚歴や子どもの有無など、女性側からの質問に一通り答えた後、私から質問をしても話題を振っても、会話を拒否されたり、同じ回答を繰り返されるだけで、自分の情報は出さないという対応をされました。これは、この人は付き合う価値があるかもしれないと思った人とのお見合いをセッティングしてもらい、お見合いの場で質問して事実確認をしたうえで、付き合う価値がないと判断した後は、会話を一切拒否するという現象です。お見合いで何とか頑張って会話が弾んで仲良くなり、帰りにLINEを交換させてもらえるところまでたどり着いたとします。結婚相談所のカウンセラーから、別れた後30分以内にお礼のLINEを相手に送るようアドバイスをいただいていたので、送信すると未読スルーされたり、LINE交換をした30分後にブロックされることもありました。結婚相談所に登録して2年目ともなると、出会った瞬間にシャッターが閉められるような拒否感を察するようになってしまいました。
さらに、仮にマッチングしたとしても婚活市場の中では、男性も同じようなことが起こると思いますが、婚活のソルジャー(戦士)として主体化した女性は、欲望のエスカレーションという現象が起こります。
私は、婚活パーティーで出会って交際したある女性に、家族を紹介すると話した一週間後に、結婚を迷いはじめたので付き合いをやめると交際を見送られました。さらにその直後、その女性から、以前見せてもらった写真に写っていた人を紹介してほしいと言われました。「その人と付き合いたいので紹介してください」と臆面もなく言えるような主体化が、この婚活市場の中で行われているわけです。
これを価値評価という観点から改めて問い直していくと、婚活市場で女性が求めているものは、婚活支援サービス業が想定する価値観マッチングとは似て非なるものになってしまっているのではないかと考えられます。婚活市場で女性が男性に求めているのは「剰余価値」です。価値評価研究の中でよく引用されるVatinの論文によると、「価値が労働者の剰余労働に対する資本家の賃金の不払いから生じるのでも、労働力から生み出す価値より安い賃金を出すから価値が生じるのでもなく、市場においてその労働にいくらの値段を付けるのかという値段の評価から生じる」と指摘しています。つまり、剰余価値とはどの労働にどの程度の使用価値を認めるのかという評価から生じるのです。同じことが婚活市場における女性から男性への評価にもいえます。スペックで評価されているもの自体が価値ではなくて、そこからさらに生まれる剰余価値が見いだされないと、結婚にふさわしい人間ではないと判断されるのです。
行列現象の場合、女性側から年齢、学歴、職業、年収といった尺度に基づいて条件が一致していることは価値ではなく、それは求めている条件にマッチングしているだけで、結婚するとしたら、さらにプラスの付加価値、効用を求めなければなりません。婚活パーティーの現場は参加条件が全員一致しているので、そこから誰を選ぶのかを考えていくと、プラスアルファの価値を感じさせてくれる人になります。評価によって生じる剰余価値、その場で測定されていない価値、あるいはその場で設定されていない評価基準に基づく価値が結婚相手に求める価値になります。高収入者で婚活パーティーの参加者を集められたら、その中で一番若くて男前の人に価値が生じてしまうし、若くて男前だけを集めた婚活パーティーでは、その中で一番稼いでいる人に行列ができると思います。
エスカレーション現象も、婚活市場では女性自身の価値を見直して、より有利な取引を求める戦略として捉え直されます。より有利な取引とは、結婚からより大きな効用を獲得しようとすることです。これはLamontが言っていますが、経済学において捨象されてきた文化や倫理を含んだ評価の基盤となる指標のセットの下で、人々は合意形成や交渉、批評、正統化、対立、闘争といったあらゆる実践が可能になります。私が婚約直前で交際を見送られ、その直後に知り合いの先生の紹介を迫られたという経験も、取引の現れといえるでしょう。
会話のシャットダウン現象がなぜ起こるかというと、剰余価値を持っていない男性とコミュニケーションを取ること自体がリスクになり得るし、コストになるので、自己開示を徹底的に避けて、嫌われても構わないという交渉であると捉え直されているのだと思います。婚活市場での交際、すなわち取引の交渉を通じて自分の価値がより高いものだと気付いたときに、相手に求める条件をさらに上方修正して、目の前の人を振ります。目の前の人を振っても、婚活パーティーでは自分の気力と財力が続く限り、より良い人に出会える可能性が常に担保されているからだと思います。
最後に「婚活戦略のゆくえ」について深掘りしたいと思います。この点については「裏婚活戦略への転換」として『婚活戦略』で触れたエピソードです。私は婚活パーティーでマッチングした後、その女性に高級レストランに連れて行かれました。マッチングのときにイニシャルしか伝えられていなかったので、自己紹介の後に彼女に名前を聞くと、名前も言いません。いろいろな話をこちらから振っても一切答えず、おそらくSNSにアップすると思われる食べ物の写真を撮ることしかしません。
食事が終わった後、高級ブランドのお店に連れて行かれて、高額のバッグを買わされそうになり、その場から逃げ出しました。婚活を経験した人には多かれ少なかれ、これと同じようなことを経験した人がいると思います。
これは、婚活市場の価値評価において、いろいろな人に出会って、女性の中で独自のポートフォリオが作られていった結果だといえます(図表2)。

「男前」と「不細工」、そして「金払いが良い」か「ケチ」かというマトリックスを作ったときに、理想なのは「男前」で「金払いが良い」人であり、対象外は「ケチ」で「不細工」な人です。通常は「男前」で「金払いの良い人」を目指して積極的に婚活をして、対象外の人はシャットダウンしていきます。
ただ、この行動だけしかしないかというと、実は違います。価値評価に基づいて作られた婚活市場という社会空間の中で、別の実践として二つの裏婚活戦略が生まれてきました。一つ目が婚活女性が「金払いが良い」けど「不細工」な男性を、おごってもらう対象としてみなすことです。一回でもおごらせればそれでいいので、丁寧に付き合う必要はなく、その場限りで別れてもよい。必要なものを貢がせることができるという、現代的には「パパ活」といわれているものを、婚活を利用して実践しているのです。
もう一つは、「男前」だけど「ケチ」な男性への注目です。彼らは「娯楽としての恋愛」、あるいは交際をすすめるうちに自分にお金を払ってくれるようになったら理想的なので「将来への投資」として恋愛ゲームを楽しみ、より理想的な結婚につなげていくという行動が生まれているのではないのかと考えられます。
このような婚活戦略のゆくえとして考えなければならないことは、評価指標に基づいて比較考量から配偶者を探索していくのが当然の社会になってしまったことです。人間関係に左右されず、条件に基づいた値札が付き商品化された異性を、納得いくまで探索できる空間が婚活市場になります。現代では、恋愛結婚が主流の結婚スタイルといわれていますが、もはや恋愛結婚は条件面の完璧なマッチングを前提とした上での剰余価値に変化したのだろうと考えられます。山田先生は、経済での不一致(ミスマッチ)を恋愛感情で突破するのが重要なのだと述べていますが、現実は違います。今後は、完璧なマッチングの上で、恋愛結婚をしたということがより重要視される社会になっていくと思います。
今後は、婚活市場でも年収や職業、容姿の価値が並べられ、さらされ、比較されて、逓減していく中で、恐らく恋愛を生じさせるスキルが重要になるだろうといわれています。政府でも現在そうした教育の提言がされていますが、恐らくこうした教育の提言も婚活市場が持っている力学にのみ込まれていく形で、条件に基づいたパーフェクト・ラブ・アンド・マリッジ、つまり恋愛結婚まで剰余価値化した婚活が、今後エスカレートするのではないかと考えています。
他方で、不可避に生じる裏婚活戦略をどう捉えるのかという問題が、この先の社会問題として出てくると思います。価値評価がまさにこの裏婚活戦略を生んだといえます。女性だけでなく男性も裏婚活戦略をしているではないかと考えられます。例えば、不倫相手探しの既婚男性が婚活パーティーやアプリによく紛れ込んでいるそうですし、マルチ勧誘で金銭的利益を獲得しようと婚活市場を想定外利用する人たちです。
これについて女性は、真剣に婚活をしようとしている人ほど、マッチングアプリから婚活パーティー、婚活パーティーから結婚相談所へ移行していく現象が一方で起こりながら、他方で「パパ活」の場として婚活市場を利用されており、婚活をめぐる現実はわれわれの想定以上に変わりつつあります。事業者側は、多様な利害とその防止策を考えなければいけませんし、実際にマルチや既婚男性については強く目を光らせていますが、女性側のパパ活への営業については緩いどころか、それとは思わせない形で推奨するマッチング・アプリが出てきています。このように価値評価に基づいて作られた婚活市場によって生み出された新たな社会が、ある種の社会の進化と捉えるか、退化と捉えるかというのは今後の話になると思いますが、こういう時代になりつつあると考えられます。
第四報告:経営学の価値評価研究における理論的基盤:金融社会論、アクターネットワーク理論、科学技術人類学を中心として

金 信行氏
(東京大学大学院学際情報学府社会情報コース博士課程3年)
価値評価研究の理論的基盤としてのアクターネットワーク理論と金融社会論
まず、価値評価研究の文脈を確認して、この報告で扱うものがどう関わるかというのを最初にお話しします。そして、私がこれまで実際に研究してきたアクターネットワーク理論と金融社会論の二つについての内容がどういうものなのか、どんな概念を持った理論でそれが経験的な事例研究の中でどのように使われてきたのかをお話しします。その上で、これらの理論がどういう意義を持つのかを、経験的研究の検討から考える研究を行っているので、その内容をご紹介します。最後に、今回の先生方の報告に関して、それぞれ問題提起をさせていただきます。
まず、価値評価研究の理論的基盤についてお話しします。価値評価研究の文脈がどういうものなのか、まとめて言うならば、経済価値にとどまらない社会的価値を含めた価値の複数性を踏まえて経済現象を形成していく価値評価実践を、学際的に分析するアプローチだと理解しています。
そして、企業組織や経済社会は、計算ツールや測定機器などいろいろな測定・評価に関わる物質を用いた価値評価実践を通じて形成された社会文化的な制度として捉えられます。制度としての組織・社会を理解する上で価値評価実践が不可避的にも検討の範疇に入ってきます。その意味でも、経営学や組織論の中で価値評価実践を見るということの重要性が分かると思います。
その文脈を踏まえた上で、アクターネットワーク理論(ANT)や金融社会論がどう関わるかということをお話しします。まず、ANT自体が価値評価研究の中での基礎理論として数えられています。ANTとは、社会現象が人間と非人間という二つの異なる種類のアクターの異種混交な作用の総体だと考える理論です。企業や企業組織、経済社会を一つの現象として捉えるとき、そういった現象は、それを構成する人間と、評価装置として、価値評価に使えるツールとの相互作用によって成立すると考えることができます。基礎理論としての価値評価研究を理解する上で、ANTは重要であることが分かります。
そして、金融社会論は、金融関連の評価装置が実践を通じて経済現象を形成していくことを明らかにしてきました。具体的な金融取引に使われる装置や金融商品を計算するための経済的な知識が実践に関わり、それが経済現象を作っていくことを金融領域において明らかにしました。価値評価研究の文脈の中で、とりわけ金融において価値評価実践が現象を作り上げることを明らかにしたという点では、金融社会論の研究は重要性を帯びているといえます。こうした形で価値評価研究の文脈とひもづけた上で、ANTについてお話ししたいと思います。
アクターネットワーク理論の事例研究と理論的可能性の検討:生命科学ラボ、炭疽菌ワクチン、自動運転地下鉄
ANTとは何かというと、Actor Network Theoryの英語の頭文字を取って表現しているのですが、具体的に言うならば、事例(現象や事象)を、人間と非人間(モノや知識、技術)という異種混交の「アクター」が、取り結ぶ関係である「ネットワーク」の過程や結果として捉える理論的な立場になります。ANTの説明を聞いたときにいろいろ素朴な疑問が浮かんでくるので、ANTのQ&Aを考えてみました。
まず、ANTの「アクター」に含まれる非人間とは、一体どういう存在を想定しているのかという疑問が考えられます。その答えとして、「アクター」には、ありとあらゆる非人間が含まれます。大ざっぱに言えば、モノ(生物や自然環境、人工物など)や知識(科学的理論や疑似科学、デマなど)が一例として挙げられます。原理的に非人間というのは、あらゆる人間ではないものを「アクター」として扱います。
それから、ANTは人間だけでなく非人間も事例の「アクター」として扱いますが、非人間を擬人化する意味で人間と非人間を等価な存在として見なしているのかという疑問が出てきます。これはそうではなくて、「アクター」において人間と非人間は、心や主体性を備えた存在ではありません。人間に心があるということは、一般的な理解としてありますが、非人間、例えば動物に関してはいろいろな研究が進んで、特定の動物に関しては心があるのではないかといわれたりしますが、とりわけコップや電子辞書といった道具やモノに心があるというのは想定し難いです。心がある存在として人間と非人間が一緒だと言っているわけではなくて、あくまで現象や事例をつくり上げる要因という水準で、人間と非人間は等価だという形で扱われています。
「ネットワーク」に関しては、ANTは複雑な事例を「ネットワーク」という特定の関係にシンプルに還元していく議論なのではないかという疑問があります。これもそうではなくて、「ネットワーク」という言葉が意味する関係とは、権力関係や社会関係や協力関係といった多様な関係全てのことを指します。つまり、特定の関係から事例が生じているという形で理論ができているわけではありません。既存の理論や概念が限定的に注目する、特定の関係以外の様々な関係に目を向けるための道具です。
では、ANTに関する理解を深めていくために、いろいろな議論を見ていきます。問題の所在としてANT理論は、モノや知識や技術といった非人間の積極的な役割を記述するための理論として注目を集めてきましたが、経験的研究(事例研究)には適さない哲学的な議論なのではないかという評価もなされてきました。
また、事例研究自体は、ラトゥールを含むANT論者にとってANTを支える大事な基盤です。しかし、ANT論者の事例研究は、ANTに関する理論研究では主題的に取り上げられることが少なく、ラトゥールの理論的な議論が扱われることが非常に多いです。それで、ラトゥールの事例研究を概観してみることで、ANTがどのように使えるものなのかを再解釈していくことが、私がこのANTに関してやってきた研究です。
まず、ラトゥールなどのANT論者自身のANTに関する説明を見ていきます。ラトゥールの文章は、かなり独特なところがあって、簡単に理解するのが難しい書き手だと思います。「アクター」に関してラトゥールはいろいろな説明をしていますが、「個別的/集合的、具象/非具象を問わない自立した存在者」「実践において存在者へ働きかけるもの全て」「無数の存在者が大挙して群がる動的なターゲット」など、全く要領を得ない説明が多いです。
同様に、「ネットワーク」に関しても、「翻訳や変換といった一連の置き換え」「リソースが少数の場所(結節点)に集中しており、それらが互いに網のように結び付いていること」「自然のように実体的で、言説のように語られるものであり、社会のように集合的なもの」「それぞれの参与項が一人前の媒介項として扱われる作用の連鎖」など難解です。
ANTとはどういう理論なのかについても、「ANTは人/モノをはじめとするアプリオリな区別を取り払うという狙いの下で意図的にその概念内容を弱めた理論、すなわちインフラ言語やインフラ理論だ」「分析者が構築した分析言語ではなく、『アクター』自身の世界構築をたどるためのインフラ言語だ」など、どういうことなのだろうと思うような説明ばかりしています。
この「アクター」や「ネットワーク」、「理論」に関しては、それぞれいろいろな批判や解釈がされてきました。例えば「アクター」に関しては、ラトゥールの議論は人間と非人間の間に本来存在するはずの区別を捨象して、非人間に人間と同様の志向性とか主体性を付与する形で、人間と非人間の等価性を主張する議論なのではないかという解釈がされてきました。他方でラトゥールの議論は、別に人間と非人間の素朴な等価性などとは言っていないといわれて、ここで解釈が分かれています。
「ネットワーク」に関しては、ラトゥールの議論やANTは、社会現象の複雑性を関係概念に還元していく議論だといわれています。例えば、社会学者のマイケル・リンチは、エスノメソドロジー[1]という社会学の一分野で大変有名な方ですが、ラトゥールらの「ネットワーク」は経験的世界、事例の複雑性をアプリオリに措定された単一の存在論に回収してしまう還元論的な概念だからよくないと言っています。こういう形で関係概念に現象を回収していく関係概念という原因があって、それが現象を起こすという理論的な示唆を提示しているのではないかとリンチは言っています。
理論に対する批判や解釈として、ANTは規範性を欠いた現状追認型の議論なのではないかといわれています。ANTを関係還元論だと批判した人たちは、ネットワーク概念に基づく記述的な方針を掲げるANTの難点は、現実に対する批判や代替案を提出できないことにあると述べています。
次に、ANTは形而上学的理論だといわれています。例えば、科学社会学者の松本三和夫先生によれば「ANTは、アクター間で発生する翻訳の連鎖というダイナミックで一般性の高い構造を示していると述べた上で、ANTの実質的な問題点は、社会学的な説明にとっての認識利得がほぼゼロに等しいことだ」と指摘されています。松本先生の解釈では、ANTはこういった一般性の高い説明図式を、万物が万物と関わって社会現象が成立するという乏しい認識利得と引き換えに得ているとしています。そして、どのような場合に状態の変転が生じるか、あるいは生じないのかを特定する条件設定がANTには欠けているが故に、ANTは万物が翻訳を通じて万物と関わるモナド論(ライプニッツの哲学の議論)的な世界観を基にした形而上学的、哲学的な理論だと結論づけています。
それから、ANTは事例を説明する理論ではなく、研究を組織するための方法論だという解釈があります。例えば、医療人類学者のアネマリー・モルは、「ANTとは変数間の因果的な説明を与える形の従来的な社会科学理論ではなく、複雑さに満ちた世界を記述するための理論的道具であり、図式やシステムではなくて絶えず変化するものだ」と述べています。
では、ANTの実際の経験的研究、ラトゥールたちが行ってきた事例研究を見ることで、ANTの解釈や定義を見直していくことをお話しします。
まず一つ目に紹介するのは、ラトゥールが生命科学ラボでフィールドワークをしたときのエスノグラフィーの内容です。私が翻訳に関わった『ラボラトリー・ライフ』では、観察対象のラボがモノや装置に満ちあふれているということがいわれています。
ラトゥールが観察したロジェ・ギルマン(ノーベル医学・生理学賞受賞)のラボでは、ラットや注射器、試験管、ピペット、データシートなど様々なモノや装置が使われていました。ラボのメンバーは、ラットへの注射を通じて液体を採取し、採取された液体ごとに試験管を用意して、そのサンプルを冷蔵庫に保管します。そして、このサンプルを実験機関に入れることで物質の数値を示す出力紙を手に入れます。さらにこの出力紙はコンピューターの入力情報となって1枚のデータシートへと変換され、資料室にファイリングされます。最後に、資料室にファイリングされた数枚のデータシートを参照して、ラボのテクニシャンがグラフ上に1本の曲線を描き出します。これがラボの発表する論文の図表になります。
このようにラットから採取されたサンプルから、グラフ上の1本の曲線に至るまでの過程には、様々なモノや装置が関わっていて、ラトゥールは物質の動きを文書へと出力することを「描出」と呼んでいます。これは、英語ではinscriptionといって、これまでは天王寺谷先生の報告で紹介していただいた「銘刻」という言葉に訳されていました。「銘刻」という言葉は、そもそも日本語に存在しない言葉です。ラトゥールの概念のニュアンスを残すために、先達の先生方が新しく作った言葉ですが、『ラボラトリー・ライフ』では日本語としてよりイメージができ、理解可能性が高い言葉をあてたいという方針があったので、「描出」という訳をあてることになりました。ラトゥールの分析ではこの概念のことを重要な存在として扱っています。
そして、ラボのメンバーは、神経内分泌学に関する文献の優れた書き手と読み手でした。ギルマンのラボのメンバーが、部外者に自身の科学活動を説明するときには、放出因子と呼ばれる物質を単離し、特性を解析して合成し、その活動の様態を理解するものとして表現していました。しかし、この部外者向けの説明には、より重要な仮説が抜けています。それは「神経内分泌学での当時最先端の研究を踏まえて、脳による制御は個別の化学物質によって媒介されており、そのような物質は放出因子と呼ばれ、ペプチド性である」というものでした。当時の最新の研究を参照しているこの仮説では、放出因子の研究活動において、ギルマンのラボが脳の中の一部、視床下部という物体に着目していることが示されています。ラボの科学活動を理解する上で、文献が極めて重要な存在なのだということが分かります。
それから、ギルマンのラボの科学者による言明の事実らしさの変換が行われています。例えば、ギルマンのラボのメンバーであるジョンが書いた論文の抜粋を見てみると、それが分かります。「ソマトスタチンによるTSH分泌への影響に関しては、われわれの観察参照が最初のものであるが、その後、別のラボでも観察されている」という部分があります。ジョンの論文では、「ソマトスタチンによるTSH分泌への影響は、まだ確固とした事実として確認できているわけではなく示唆的なものだ」という言明がなされていますが、この抜粋では、参考文献を参照して「確認されている」という表現を用いることで、ソマトスタチンによるTSH分泌への影響の事実らしさが強められています。
つまり、ギルマンのラボの科学者は、ラボのモノや描出装置との連関によって科学的主張の根拠を用意し、論文において自身の主張の根拠となる図表に根拠付け、あるいは反駁相手となる文献を関連付けることで、科学的事実をそのプロセスによって産出していることが分かります。
一つ目の事例研究をまとめると、ラトゥールたちは、TRF(ギルマンたちが発見したホルモン)という化学物質の立証を主張する科学的事実の分析過程を分析していました。そして、科学的技術の立証を支える実験装置や実験器具やデータシートといった、非人間に着目していました。TRFの立証は、実験結果の図表や実験装置、実験器具、実験試料、先行研究といった要素の参照関係から成り立つものだと言っています。
『ラボラトリー・ライフ』は、私が他の訳者さんにお声がけして、3年ほど大変な思いをして出した生命科学ラボのエスノグラフィーの翻訳本で、ANTの理解に関して重要な文献となっています。科学活動を描出の秩序として描いています。
それ以外にも、科学者のキャリア形成を、科学者がどういう学校に行ったか、どういう研究機関で修業したか、どういう先生に指導を受けたかによって蓄積した信頼資本と、その投資によって得られた職などのリターンのサイクルとして理論的に捉えています。実際のギルマンのラボのメンバーたちが、どんなキャリアパスを描いていったのか、どんなキャリア形成をしていったのか、事例を基に理論化しています。描かれているのは、理系研究者のキャリアパスなのですが、文系研究者にとっても自分事として面白く読める内容です。
二つ目に紹介するのは、化学者のルイ・パストゥールが「炭疽」という家畜の伝染病に対してワクチンを開発した事例です。この研究でラトゥールは、まず、ラボにおける炭疽菌の発見と微生物学の発展によるパストゥールの発言力の強化を見ています。炭疽の被害を受けるヨーロッパの家畜の生理に詳しい獣医や、地域ごとに炭疽に関係する変数となるデータを収集する統計家が炭疽の専門家と見なされていましたが、パストゥールがラボで炭疽の病原菌である炭疽菌を発見し、伝染病を解明する微生物学を発展させたことで、家畜への炭疽の被害が解決したり、畜産農家や動物伝染病の発生メカニズムの解明という利害関心を持つ獣医との協力関係を構築していました。
また、関係アクターの協力による、ラボ外へのラボ環境の拡張をラトゥールは描いています。炭疽ワクチンを何回接種するべきなのか、それはどのタイミングで行われるべきなのか、炭疽ワクチンの接種に際してどのような環境が望ましいのかなど、様々な条件に関してラボ外でも機能するようにラボで試行錯誤して、調整した条件をクリアした農場を畜産農家が用意し、パストゥールの炭疽ワクチンの宣伝を獣医が積極的に行いました。
二つ目の事例研究をまとめると、炭疽菌の発見という科学的事実と炭疽撲滅の功績をパストゥールに帰属するという社会的認知が、いかにして発生したのかをラトゥールは分析していたことになります。そして、専門雑誌において表れるパストゥールとラボ外の関係者との流動的な利害関係にラトゥールは着目していました。炭疽に関わるパストゥールの業績は、パストゥール、獣医、農家などの「アクター」が、利害関心を調節する「翻訳」を通じて形成される利害関心の包含関係という「ネットワーク」によって可能となったことが分かります。
続いて三つ目の研究の紹介です。この研究は、パリで開発されていた自動運転地下鉄の敷設プロジェクトが、どう立ち上げられて、いかにして失敗に至ったのかという過程分析の話です。
まず1点目に、ラトゥールは異なる利害関心を持つ人間「アクター」の参加に着目していました。これは「アラミス」という名前のプロジェクトなのですが、パリの市長が、アラミスプロジェクトに関心を持ったのは、アラミスがかつて運行していた地下鉄の車両と廃線を活用してくれるからでした。しかし、各車両の乗客の行き先に柔軟に対応できるように、任意の地点で連結車両を自由に切り離す技術は、通常の鉄道線路と相性が悪かったので、パリ市長が狙っていることは、実現しない可能性がありました。そうなるとプロジェクトを応援してもらえなくなります。
一方、地下鉄運転手組合がアラミスに関心を持った理由は、アラミスが地下鉄とは違いすごくハイテクなものだという認識を持っていたからです。しかし、パリ市長は、かつて使われていた車両と廃線を使ってほしいと思っていたので、それを活用する場合、普通の地下鉄と同じものと見なされてしまいます。地下鉄運転手組合は、自動運転地下鉄なので運転手が不要、アラミスを地下鉄運転手の雇用を脅かす、長期的脅威として見なしてしまいます。
そして、技術開発事業のエンジニアがアラミスに抱いていた利害関心としては、アラミスは、今まで開発されてきた自動運転地下鉄とは全く異なる革新的技術を開発・搭載していて、自分たちはその開発に携われるという思いがありました。
2点目に、技術仕様との調整の失敗があります。アラミスのプロジェクトリーダーは、いろいろな利害関心を持った人たちをアラミス推進プロジェクトにとどめるために、まずアラミスを廃線となった地下鉄に似せようとして、車両の乗客許容量と乗客の流動性を当初の試算から大幅に増加させ、アラミスが地下鉄に似過ぎないようにするために、任意の地点で車両を切り離す技術を車両に搭載しました。すると、出来上がったアラミスのプロトタイプは、その技術仕様を満たすための設備で乗客が入るスペースを確保できなくなってしまい、お客さんが入らない意味のないものになってしまいました。開発コストの急騰もあって、エンジニアはアラミスの技術仕様を今までの自動運転地下鉄と同じようなレベルまで緩めようとするのですが、地下鉄運転手組合からの反発を防ぎたい発注元は、技術仕様の縮小を承認しなかったため、アラミスプロジェクトは、結果的にそれで失敗したといわれています。
三つ目の研究をまとめると、自動運転地下鉄敷設プロジェクトであるVALとアラミスという技術的人工物が、どのように推進されたかという分析です。技術仕様書やインタビュー記録に登場する関係者と、技術仕様をはじめとする非人間の流動的な協力関係にラトゥールは着目していました。アラミスは、パリ市長、地下鉄運転手組合、エンジニアなどの人間の「アクター」と、技術仕様やエンジニアのスキル、開発コストといった非人間の「アクター」が「翻訳」を通じて形成する協力関係「ネットワーク」で推進されていました。
今までのラトゥールの事例研究の内容を踏まえて、「アクター」や「ネットワーク」、「理論」について再解釈を行います。
「アクター」に関して存在していた解釈は、ラトゥールの主張は人間と非人間にある区別を捨象し、非人間に人間と同様の志向性や主体性を付与する、人間と非人間の等価性を主張する理論、あるいはしない理論だといわれています。「アクター」は、あくまで現象の要因という水準で等価だということが、ラトゥールの事例研究から分かります。そして、「アクター」は、「人間/非人間を問わず調査資料で言及される事例の要因」として再解釈することができます。
「ネットワーク」については、これまでの解釈では、ラトゥールの議論やANTは社会現象の複雑性を関係概念に還元するものだといわれています。しかし、ラトゥールの事例研究を見ると、「ネットワーク」とは、現象の成立に寄与する要因間の様々なつながりや関係の総体だといえます。再定義すると、「事例において、要因間の作用で生じるあらゆる結び付き」として考えられます。
「理論」に関しては、今までの解釈では、ANTは、「規範性を欠いた現状追認型の議論」「形而上学的な理論」「研究を組織するための方法論」といわれていましたが、ラトゥールの事例研究を見る限り、ラトゥールの科学観は、規範的言明を行う科学観とそもそも異なっています。そして、形而上学的理論こそ、ラトゥールが最も避けようとしてきたものだといえます。「理論」を捉え直すと、ANTとは、社会現象の成立過程で登場する様々な要因やその関係を、それらに関する先入見を一度保留して、記述に含めるための一般概念からなる理論だと考えられます。
ANTの可能性については、ラトゥールの事例研究を見ると、ANTは事例の要因や要因間の関係について分析者の先入見を保留することで、事例の成立に寄与する隠れた要因や要因間の影響関係を記述に含めることができるのではないかと思います。これを踏まえてANTを捉え直してみると、「事例が成立する過程で、いかなる要因がどのように関係を構築しているのかを、新たに発見して記述に含めるための理論」と再解釈できるのではないかと考えています。
ラトゥールたちは、科学技術の社会学的分析で活躍してきましたが、彼ら自身、そこでキャリアを形成した後、経済や政治など他の様々な分野に関してもANTの知見を応用していきました。そして、ANTによる議論自体が、いろいろな分野で受容されるようになりました。分担執筆しているANT入門書『アクターネットワーク理論入門』は、経営や経済、政治といった広範な分野でのANTの展開を解説しています。
金融社会論の事例研究と理論的可能性の検討:オプション取引、ポートフォリオインシュアランス、不正会計
続いて金融社会論についてお話しします。経済社会学における新たな展開として、金融市場の事例を社会学・文化人類学的に分析する学際的な研究動向が、2000年代初頭に登場しました。それが金融社会論です。その代表的な論者として、ANTをブルーノ・ラトゥールと共に推進してきたミシェル・カロン、そしてドナルド・マッケンジーがいます。ここでは、ドナルド・マッケンジーが行ってきた事例研究についてお話しします。マッケンジーは、金融社会論の研究において、様々な重要概念を出しています。その重要概念を事例研究と一緒に見て、有効性を考えていきます。
まず、「遂行性」という重要な概念を提起しています。マッケンジーは、経済現象における遂行性を考える上で、四つの類型を出しています。ここでは、その四類型のうち「バーンズ的遂行性」と「反遂行性」という二つの概念を取り上げます。
マッケンジーが提示している遂行性概念の包含関係を再整理していますが、ここで一般的遂行性という、最も一般的なレベルの遂行性の中から徐々にスケールダウンしていって、バーンズ的遂行性、反遂行性となっていきます。
まず「バーンズ的遂行性」についてです。この概念は、「経済学的知識の活用によって、経済プロセスが経営学的記述に近づくこと」と定義されています。マッケンジーはこの概念を用いて、オプション取引市場の成立史を分析しています。これはオプション取引という金融の話なのですが、オプション取引とは、約束の日時に任意の商品を約束価格で取引するような権利の取引のことです。この権利の値段が、オプション価格とされています。卑近な例としては、不動産取引の手付金のように何か物を買うときに払う手付金や一時金も、一つのオプションとして考えられます。
これがもっと複雑化したものが金融商品としてのオプションで、例えば日経225オプションなどがあります。例えば、1か月後に日経平均株価指数2万円で買う権利を500円で購入するオプションがあったときに、1か月後に日経平均株価指数が約束価格以上になった場合、このオプションを行使して差分の利益を獲得します。もし日経平均株価指数が2万円を切っていた場合は、このオプション自体を放棄して、損失はこのオプションに払ったオプション価格のみになります。
このオプションに関する内容紹介としては、まずオプション価格を算出する方程式が、オプション市場がアメリカで整備されたときに発表されて、大ブレイクしました。それがブラック・ショールズ・マートンモデルという方程式で、一物一価と効率的市場仮説という経済学の理論に立脚したオプション価格の方程式になります。世界初のオプション取引所である、シカゴオプション取引所の開設と同時期の1973年に発表されていました。
このモデルにのっとって、コンピューター処理で算出した各銘柄のボラティリティ、オプション価格を載せたブラックのシートが、トレーダーの間で大きく出回りました。
そして、ブラック・ショールズ・マートン(BSM)モデルの理論値を受けたオプション取引の競争状態が成立しました。このモデルは予測精度が大変高い理論ですが、実際のオプション価格と比べてやや低めの価格を算出する傾向にありました。このずれに直面したトレーダーの中で、BSMモデルの理論値こそがオプションが持つ本来の経済的価値を反映していると信じた者は、本来の価値より過大評価されているオプションを売却して、オプションの現物を購入する対等取引を行います。
このオプションの売却が一定程度行われると、実際のオプション価格の値下がりが起きます。たとえBSMモデルの信頼性に疑問を抱いた者でも、オプションの値下げ競争が一度始まってしまうと、自らが持つ当該オプションの価格を値下げせざるを得なくなって、結果的に実際のオプション価格がモデルの出した理論値の価格に近づいていく現象が起きました。これがバーンズ的遂行性でマッケンジーが言いたかったことです。
まとめると、BSMモデルを用いたオプション価格の理論値の計算があり、この理論値を載せたシートの配信などによる、モデル使用結果の認知がトレーダーによって行われ、BSMモデルの信頼にかかわらないトレーダーによる利益最大化の取引が行われて、実際のオプション価格のBSMモデルの理論値への接近が生じました。
続いて、反遂行性です。この反遂行性は「経済学的知識の活用によって、経済プロセスが経済学的記述から遠のくこと」と定義されています。これを、ポートフォリオインシュアランス(PI)という事例を基に、マッケンジーが分析しています。PIは、株式を保有している際に資産が一定額以下にならないようにするための取引手法になります。株価が上昇基調にある際には、株式指数の先物売りを少なく行い、株価が下降基調にある場合は、株式指数の先物売りを多く行うという取引手法が、PIの考え方に基づいてコンピュータープログラムとして自動化され、これが取引手法として大ブレイクしました。
どうなったのかというと、まずPI開発者を中心とした株式指数の先物売りの流行が発生しました。1987年のアメリカでは、貿易赤字の拡大や政府債務の失敗によるレーガノミクスへの不信から、株価の下降基調が常態化していました。株価の急落を受けたPIに基づく大量の株式指数の先物売りと、それに対する金融市場参加者の恐怖が発生し、1987年10月19日の朝から株価の急落が始まり、これを受けて、PIにのっとった株式指数の先物売りが大量に行われました。
これは、一定の損失を回避するためにPIが行う機械的な取引ですが、当時の投資家はこの取引の発生を非常事態として捉えました。つまり、金融市場のトレーダーや投資家はこの株式指数の大量の先物売りを、まだ公開されていないマイナス材料の情報を手にした投資家によるリスク回避行動として捉えたのです。これによって、株式市場先物の現物である株式がまた売られて株価が下がり、再び株式指数の先物売りが機械的に行われました。以上のループが繰り返されることで、株式取引の損失を一定額以下に抑え、株式の安定した売買を保つはずのPIの取引を通じて、かえって金融市場に破滅的な事態が生じることになりました。これによって株価の下落と株式指数の先物売りのループが成立し、1987年10月19日のブラックマンデーが起こりました。
この事例研究のまとめとしては、PIの構想に基づいて、株価の変動に合わせて株式指数の先物の売買を調整するプログラムを、コンピューターに実装して取引させる理論の使用が行われ、投資家はこの取引を株式指数の先物価格の大幅な下落の形で認知しました。投資家は、株式に関するさらなるマイナス材料の存在を仮定して損切りを行い、現実の金融市場がPIの想定する安定した株式売買とは全く逆のカオス(破滅的な事態)に突入したというものでした。
最後にご紹介するのが、有限主義概念とそれを用いた研究です。外延的意味論と対称化する形で、有限主義という概念がマッケンジーによって提唱されています。まず外延的意味論とは、ある用語の意味内容は実例への適用以前に既に与えられているために、閉じたものなのだとする考え方です。これとは対照的に有限主義とは何かというと、用語の意味内容は開かれていて、行為者の判断に依存している立場になります。
マッケンジーは、この有限主義でアメリカの通信大手会社のワールドコムの不正会計事件を見て分析を行いました。当時のワールドコムは、大型M&Aの失敗とITバブルの崩壊が重なり、2000年から業績不振とこれに伴う株価の下落に悩まされることになります。当時のワールドコムCFOのスコット・サリヴァンは、他社に対して支払うネットワーク回線容量のリース料のうち未使用分を「その他長期固定資産」と「建設仮勘定」の勘定項目に仕分けしました。この仕分け操作の繰り返しによって、2002年には39億ドルにも及ぶ巨額の会計不正が公表され、ワールドコムは経営破綻することになります。
まず、未使用分のリース料を資産として分類することに会計上の正当性があるのだというサリヴァンの認識がありました。アメリカ会計基準では、資産は過去の取引や事象の結果、将来発生する可能性の高い、ある特定の実体の経済的便益として定義されています。サリヴァンはこの定義を参照して、他社のネットワーク回線をリースするコストは、資産として分類できる会計的正当性があると主張していました。つまり、大規模な通信容量のリースは顧客を獲得する手段なのだから、このリースのコストは資産として扱われる会計上の正当性があるということです。
サリヴァンの認識に関する会計専門家との論争において、サリヴァンが行った仕分け操作の問題を社内で提起したのは、内部監査部長のシンシア・クーパーでした。クーパーと部下による調査の結果、仕分けに関する不正疑惑が提起され、監査委員会で議論がなされました。この議論では、会計を専門としないワールドコムの取締役員は、サリヴァンの主張を支持した一方、監査法人などの会計関係者は、サリヴァンの仕分けを不正と見なしました。会計に関しては全く素人のワールドコムの執行役員は、サリヴァンの解釈が通信ビジネス上、全く違和感のないものだと考えたのに対して、エンロン事件で証拠隠滅を図ったアーサー・アンダーセンから監査業務を引き継いだKPMGの会計士やワールドコムの監査役は、会計原則上サリヴァンの分類行為は不適切だと判断しました。
また、会計監査委員会の会議の直前に、アーサー・アンダーセンは証拠破棄の罪を問われて倒産する見通しが濃厚でした。不正会計の隠蔽によって刑事訴追と経営破綻を即刻もたらす状況が生じたため、こうしたリスクを重く見た会議の参加者は、サリヴァンの主張を結果的に支持しなかったのです。それでサリヴァンの解雇と粉飾決算の公開が行われました。
マッケンジーの研究を概観すると、評価装置と意思決定との関係が一貫して記述の対象となっていたように思われます。これを踏まえて金融社会論を考え直してみると、マッケンジーの概念は評価装置に関して、それが実際の実践における意思決定に結び付くまでの過程を記述することができるという道具立てとして理解できます。
他講演内容に関する問題提起
最後に、他の登壇者の方々の報告内容に関する問題提起を行います。
まず、岡本先生の報告についての問題提起です。一つ目は、複数評価原理、評価における不協和が起業家的なM&Aにつながるとは具体的にどういうことなのかを伺いたいです。二つ目に、M&Aでスタンダードとなっている評価指標は存在するのかということについてお聞きします。三つ目に、M&Aの評価指標の遂行的性質と実践の関係について、どのようなプロセスが考えられるのかということについてお伺いできればと思います。
次に、天王寺谷先生の報告についての問題提起です。一つ目に、銘刻(描出)概念の会計研究の応用について、銘刻(描出)とは何らかの実体を文書に表現したものだと考えていますが、会計指標や計算手法を銘刻(描出)として捉えると、その銘刻においていかなる実体が想定されているのかをお伺いしたいです。二つ目に、銘刻(描出)概念と共約概念について、これらの概念は天王寺谷先生の認識でどのような関係にあるのか、つまり銘刻概念と共約概念のどちらがより概念として優れているかという意味での関係です。会計実践を記述・分析する上で、どのような利得があるものと考えていらっしゃるのかをお聞きしたいです。三つ目に、環境価値を残した銘刻(描出)について、MFCA以外に類似の指標があるとすれば、それとの比較でどのような利点があると考えられているのかお聞きしたいと思います。
最後に、高橋先生の報告についての問題提起です。まず価値評価研究の文脈において、結婚情報サービスの利用による無力化という論点は、大きく触れられていないと思いますが、高橋先生が寄稿されていた論文の内容のベースになります。この論点が価値評価研究の文脈に、どのような知見をもたらしているのかについてお伺いしたいと思います。二つ目に、オートエスノグラフィという方法論について、この方法論で婚活現象の記述を行うと、婚活参加者の女性が婚活市場や婚活参加者の男性をどのように捉えているかという意味論的理解が困難になると思ったのですが、この点について高橋先生はどのようにお考えなのかお伺いします。
[1] エスノメソドロジー:1960年代に米国のガーフィンケルらが提唱した、社会秩序の自明性や基盤が、日常生活の常識的な合理性によることを、事例研究や会話分析などの手法で究明しようとする、現代社会学の方法論
リプライと質疑

<司会>松嶋 登
(神戸大学大学院経営学研究科 教授)
松嶋 金先生に各報告に対する質問をいただきましたので、各報告者の先生方に回答いただきつつ、参加者の方からチャットでいただいた質問にも併せてお答えいただければと思います。
岡本 金先生からの三つのご質問について回答します。一つ目の質問が特に重要だと思います。複数評価基準の不協和が、より起業家的なM&Aにどうつながっていくかということですが、これは、Starkも述べていましたが、企業がM&Aに直面する状況自体が不確実なもので、M&A自体も同じ買収契約取引は二つとありません。買収ターゲット企業の選定時は、買手企業はかなり複雑な情況に直面するため、単一の評価指標で物事を測るよりも複数の評価指標で物事を測った方がいいという観点に立てると思います。
Starkの著書の中でも個人的に現在興味を持っているのが、ヒエラルキーとへテラルキーという対概念です。ヒエラルキーは、既存の出来上がった評価指標であり、数字を使ってランク付けしていくような縦に評価していく指標です。へテラルキーはそれに納得しない、現状をそれでは全て評価できないというときに、一部のグループや集団がこういう評価をしてみたらどうかと新たな評価指標を作っていくような動きです。このようなヘテラルキー的な見方から、M&A自体の中身をより理解できるようになるのではないかという視点を持っています。
二つ目のご質問であるM&Aに関するスタンダードな評価指標については、先行研究でもかなりばらつきのある結論が出ています。企業の中でどんなスタンダード指標が用いられているかに関する統一的な研究はあまりないという印象です。アカデミックな観点からも、この変数が効いているという十分なコンセンサスも得られていないというのが個人的見解です。
三つ目のご質問である評価指標の遂行性については、特にPMI(Post Merger Integration:M&A後の統合プロセス)において、例えば、「企業文化」や「人的資本」のような評価を買収後に行うことの重要性が高まっていると思います。そういう指標が確立されていくと、M&Aに関係なく組織を評価する枠組みが出来上がっていくのではないかということは、ある程度想定できると思います。以上、三つのご質問について回答させていただきました。
チャット欄に頂いていた質問ですが、まず國部先生からプライシングとバリューの関係で、M&Aに関するバリュエーションを取り上げた研究が少ないのは、プライシングがあるからではないかというご質問をいただきました。私も全く同じ意見で、特定のプライシングである程度買収が完了して、それに勝るものがないという前提があると、事後的にあれこれ評価してもしょうがないという判断になるのではという見方もできます。
ただし、買収価格がM&Aの成否全てを表しているかというとそうではなくて、単なる交渉事、もしくはこれに関してはM&Aアドバイザリーが中に入ります。大型のM&A取引ではコンサルタントなどが中に入りますが、私が数年前に公認会計士と会話した際に、事実かどうかはわからないがと前置きしたうえで、セルサイドにつくM&Aアドバイザリーは、価格を引き上げるインセンティブがあるという話をオフレコで聞いたことがあります。要するに、セルサイドはある企業を買い手に売っていくことを、コンサルタントとしてアドバイスしますが、高めに設定した方が、後々コンサルタントフィーを大きく得ることができるので、そのような傾向があるのではないかということです。そうなると、そこで成立した買収価格は果たして正しいのかという疑問が生じます。
次にM&Aの規模や対象企業の地域などが買収後の業績評価や、従業員のモチベーションに効いているのかというご質問です。関連する先行研究で用いられた個別の変数を列挙し検証している先行研究が一つあります。M&Aの規模、つまり買い手の規模が大企業か中小企業かということが、ROA (Return on assets:総資産利益率)にプラスに作用しているという先行研究の結果が出ています。他の研究でも逆の結果を示すものは少なく、規模は多少変数としては効いている傾向があると思います。
途上国がマーケットリターンに影響があるかというのは、私が見たところでは相関関係は一切出ていません。
ただ面白いのは、長期的なROAが、カントリーリスクと正の相関があるという結果も出ています。要するに、カントリーリスクが高いところにいる企業を買収した方が、ROAが上がるという興味深い結果です。ただし、クロスボーダー全体で見ると、株式リターンはマイナスという結果も出ています。自国外でのM&Aは、やはり成功は難しいという結果も出ていますが、先行研究の一部を概観した結果ですので、それが研究者間の統一的な見解かについては、さらに検証が必要だと思います。
天王寺谷 金先生の三つのご質問から回答していきます。
一つ目は、銘刻(描出)概念の会計研究への応用について、銘刻(描出)とは何らかの実体を文書へと表現したものですが、会計指標や計算手法を銘刻(描出)として捉えるといかなる実体が想定されているのかというご質問です。銘刻は、会計数値や数字をイメージしています。計算手法は銘刻ではなくて、銘刻を作り出す装置として働きます。会計指標というのは、計算手法によって作り出された結果で、銘刻となります。さらに銘刻が新しく作成されて指標が変わっていくとすれば、それは新たに作られた銘刻として捉えられると考えています。
二つ目は、銘刻(描出)概念と共約概念は、どのような関係にあり、会計実践を記述・分析する上でどのような利得があるものなのかというご質問です。基本的に共約というのはダイナミクス、動的な部分を捉えているということで、新たに銘刻が作られるダイナミックな部分を捉える概念として利用しています。
会計実践を記述する上での利得に関しては、まさに共約に焦点を当てる一つの利得の観点から説明できると思います。「共約」の概念を提示しているEspeland and Stevensは「『共約』は当然のものとして受け入れられ、『共約』が求める作業や『共約』にかかる前提は忘れられがちである」と述べています。そのために「共約」というプロセスをしっかり捉えることが重要であると主張していますが、それと同じように、会計計算手法が作り出す会計数値も当然の如く扱われているので、共約にかかる前提などを捉えて問題を提示していくところに、利得があるのではないかと思います。
三つ目は、環境価値を残した銘刻(描出)について、MFCA以外に類似の指標があるとすれば、それとの比較でどのような利得があるものなのかというご質問です。具体例を出すことは難しいのですが、銘刻の蓄積という観点から可動性、安定性、結合可能性がキーワードになると思います。文字化・数字化されているということは、可動性や安定性が確保されているので、特に結合可能性がポイントになってくると思います。指標の結合可能性の高さが、一つの考えるべき論点だと思います。
それから、チャットでご質問いただいた、企業組織における環境部門の発言力の弱さに関するご指摘についてです。発言力を高めるためには基本的には、環境価値に対するトップマネジメントの理解が必要だと思います。一方で、環境部門の業務がサステナビリティ評価機関などの要求に対して受動的に対応することが大半となるような場合、他の部署からすると、本業以外の業務が環境部門から降ってくるので、何なの?という感じになってしまい、さらに発言力が弱くなってしまうと思います。そうではなくて、環境部門自体が環境価値に関するより能動的な価値創造を創出する仕事ができるようになると社内での発言力は高まるでしょうし、そこで複数価値を追求するための銘刻を活用することができればよいと思います。
高橋 金先生からご質問いただいた内容にまずお答えしてから、チャットにいただいた内容にコメントいたします。
無力化の概念が、価値評価研究にもたらす知見は何であるかについては、Vatinが述べているように、価値評価によって価値が生じて価値が増大していくことが非常に重視されてきて、いかに価値を生み出すかという実践を、その中に実装するかという考え方につながっていくと思います。それに対して、よかれと思って作ったものが実践の中で無力化されていくという意味では、私の婚活に関する報告は、そこに大きな価値評価研究に対するサゼスチョンがあるのではないかと考えています。私からすると無力化ですが、女性の側からすると、自身の価値を再確認する(自身が内容のある人的資源でもあると捉える)ことができることになります。
それから、制度派組織論とinstitutional void(制度的空白)とか、institutional inequality(制度的不公平)という形で、そういうある種の装置によって形成される制度的空間の中で生じる穴に落ちている人たちを浮き彫りにする概念が提起されていることを考えたら、価値評価研究はそこに一つ無力化という概念を入れると、新しい知見がもう一つ出てくると思います。それは単純にポジティブとか、いかに社会を良くするのか、という視点の価値を増やす以外の面を同時に持たなければならないという意味で、無力化という概念が必要になるのではないかと考えています。
他方でオートエスノグラフィのある種の功罪の部分になると思いますが、あくまで私の経験に基づく、私にとっての女性理解でもあります。実はその女性理解であり男性理解で書かれた論文にしても本にしても、真剣に見ているのは年頃の女子大生や女子高校生です。私の研究成果が、彼女たちの男性理解に、実は介入する実践にもなっているということを強く感じています。実際、私が指導した学部の女子学生が、「婚活してみたら」というテーマで、学士卒業論文を書きました。そこで捉えられている男性像は、私が想定して描いたものと真逆だったりします。そうだとすると、その中でまた理解が進んでいく関係が出来上がっていくことそのものが、オートエスノグラフィが社会に対して影響のある方法論であるとか、一般化可能性の特異な考え方があるという一つの方法論的な特徴なのではないかと思います。これを見たら男性も女性も何か言いたくなるところが、一つ大きなポイントだと思います。
國部先生からのコメントで、ドゥルーズの「本能と制度」の観点から見ると婚活の価値評価はまさに「制度」であり、価値は文脈で評価されているものだけれども、結婚は本能であり、抵抗できない時代になっているのではないかということについては、まさにそのとおりだと思います。同時に、本能を外部化しているという考え方もできると思います。婚活の価値評価の仕組みは、人間が本来持っている「なるようになる」という配偶者の選び方が外部化されているだけではないかと考えることができる部分もあります。
婚活女子やパパ活女子のコンテクスト分析をしたら、そのペルソナの差が分かるのではないかという質問ですが、それは確かに一理あるかもしれません。ただし、場面やシチュエーションなど置かれている空間の中でそのペルソナをどう切り替えるのかというところについても、私は興味があります。
チャットにいただいたご質問について、イベントや小旅行、運動会をメインとするなど、参加方法を曖昧にして比較考量を少なく設定するようなシチュエーションを置くことで、婚活は想定どおりうまくいくのではないかという質問ですが、これはまさに、現在、婚活支援サービス業者が提供サービスにおいて注力している方法です。
条件マッチングではなく、まず、この人を「愛せる人」として評価していく関係を築いた後に結婚があるというやり方は、この先トレンドになるのではないかと思うのですが、私はこれについては全く否定的な見方をしています。それは、婚活の価値評価のやり方が、婚活市場だけではなくて日常生活にも侵食していると捉えることができるからです。著書の中では、論理展開とストーリー展開上書けなかったのですが、入稿したタイミングに、ある友人から紹介されて私自身がお見合いをしました。ハイコンテクストな状態の出会いでしたが、出会って30分で相手から言われたのが「もったいない」という言葉でした。
大学教員で年収1000万円、年齢的にも彼女の条件にマッチングしていました。しかし、顔も体型も気に入らなかった。そう考えていくと、婚活市場的な判断基準の下で行動して、日常生活の延長線上での出会いにもその行動を適用する。彼女としては、それでいいと思っているのです。
私はそれで婚活を諦めましたが、「これは婚活のイベントです」「婚活会社がやっています」「出会いや結婚を考えましょう」というように、イベントをやればやるほど日常に婚活の価値評価の指標とエージェンシーの侵食を促していくだけだと思います。ではどうすればいいのか?ということになりますが、現状は、八方塞がりだと思います。
婚活市場経由の婚活は、全体的な潮流としてハイリスク・ハイリターンといえるのか?というご質問に関しては、女性からすると、女性の属性、価値評価の指標の中での彼女たちのポジショニングによって、ハイリスク・ハイリターンからローリスク・ハイリターン、ローリスク・ローリターンからノーリスク・ハイリターンまで、いろいろなパターンがあり得るというのが私の現時点での考察です。男性からすると、ハイリスク・ローリターンだと今、考えています。
今、政府主導で婚活を支援し、何とかして成婚率を上げて少子化問題を解決していこうという試みの中で、学校教育において、告白の仕方や恋人の作り方をプログラムに入れようという試みや、政府主導でAIを使ったマッチングサービスもしくはアプリの開発をやろうとしていて、婚活支援サービス業者が下請けの形で入って実験を始めています。
その状況で起こり得るのが、同じ仕組みで欲望のエスカレーションが起こってくる中で、婚活のブラックマンデーが意外と早いタイミングで来てしまうのではないかと思います。
私は、金先生のアクターネットワークの金融の話と婚活の話が、取引装置と評価と個々人の戦略という意味で非常につながったと感じました。この点についていかがでしょうか。
金 詳細を検討すると、金融というある種高度に数理的な手法を用いた数理的な知識による遂行性が非常に強い分野なので、そこで表れる非人間の遂行性に関してはかなり違う部分があるのかもしれないのですが、構図としては同じです。非人間に託された意図が基本的に非常にポジティブなものであったのに、それとは真逆のことが生じてしまいます。Counter Performativity(反遂行性)の話だから面白いのですが、そういう意味での同様の事態が婚活で起きるとなると本当に構図としては似たようなものが生じると思います。概念をそのまま使って分析するのは、概念適用が本当に正しいのかどうかという論点が生じるかもしれませんが、構図としてはすごく面白くて、近似したものがあるのは興味深いです。
高橋 ある出版社の方とお話ししているときに、マッチングアプリの原型になったのが出会い系アプリですが、出会いのない時代に出会いを作るという善意で作られたものだったのが、今は実際どうなってしまっているかというと、ブラックマンデーが来て裏市場に荒らされて出会いがない状態になってしまったと聞きました。
それはどういうことかというと、出会い系アプリは風俗や麻薬の取引に利用されるような市場になってしまい、健全な出会いの場は縮小されていきました。婚活の今の仕組みが破綻し始めることになったときに、次のCounter Performativityが起こると思います。あとはCounter Performativityを起こさないようにするのか、むしろ加速させて一回壊してしまった方がいいのかは分かりませんし、社会に対するインプリケーションとして、学者の責任として何を言うべきか分からないのです。
松嶋 シュンペーターは経済発展が行き着くまで行った後に、政治的な変革が起こると言いましたが、そうであれば行きつくところまで行くべきなのではないかというメッセージもありうると思うのですが。
高橋 私は、根っこのところでシュンペータリアンなので、加速させるような何かを書いた方がいいし、AI婚活はそうなるのが見えていて放置した方がいいと思いますが、破綻そのものは苦しいのは確かなので、婚活のブラックマンデーを起こすべきかどうかは分かりません。ただ、価値評価の仕組みまで見ると、行き着くところまで行くエスカレーションの仕組みがあらゆるところで起こって分かるというのが、価値評価研究が必要とされている根拠なのではないかと思います。それは単純に、企業でとりわけよく起こるのですが、日常生活の中でも婚活という遠い分野でも起こります。それをどこまで経営学的テーマとして分析できるかというのが、今後の価値評価研究として期待されているところだと思います。
松嶋 価値評価、つまり対象を計算可能にすることによって組織や社会がかたち作られているという考え方それ自体は、経営学では目新しいものではなくこれまでも企業組織においても実践されてきました。日本情報経営学会誌「価値評価研究」特集号(Vol. 40, 1-2, 2020年)では、総数16本の経験的研究が掲載されております。紙幅上すべてはお伝えできませんが、例えば、自動車の燃費不正を分析対象とした論文、原発会計の非科学性について踏み込んだ分析を行った論文、政策的影響を受けた企業のコーポレートガバナンスにおけるROE数値目標に関する分析、大型放射光施設のサイエンスイノベーションに関する分析、昨今の企業における重要なテーマである、働き方改革や採用革新をとり上げた分析論文など、極めて多様な側面で価値評価の実践を捉えることができます。経営学の各専門領域の第一人者達が研究しており、非常に読み応えがありますので、ぜひ、価値評価研究への第一歩としてご賢察いただければ幸いです。
