第32回 シンポジウム
俊敏なマーケティング 
ー起業家的行動が、なぜ、今、私たちに必要か

日時/2021年11月14日(日)13:30~17:00
場所/Zoomによるオンライン開催

講演

1.「俊敏な経営」のための四つの条件
   石井 淳蔵(神戸大学 名誉教授)
2.俊敏なマーケティング ー起業家的行動が、なぜ、今、私たちに必要か
   飯野 将人氏(株式会社スケールアウト 共同代表)
3.ビジネスアジリティとは何か ~組織全体をアジャイルに~
   山本 政樹氏(株式会社エル・ティー・エス 執行役員)

パネルディスカッション

<パネリスト>
 飯野 将人氏、山本 政樹氏、石井 淳蔵
<司   会>
 栗木 契(神戸大学大学院経営学研究科 教授)

講演1 「俊敏な経営」のための四つの条件

 

 

石井 淳蔵氏
(神戸大学 名誉教授)

 

俊敏な経営を考えるための二つの条件と二つの理論

 神戸大学名誉教授の石井と申します。よろしくお願いいたします。

 今日は、後のお二方が飯野さんと山本さんという実践の腕利きの方ですので、私は少し理論寄りの形で進めます。今日お話しするのは、「俊敏なマーケティング」をテーマに、それの二つの条件と二つの理論を取り上げたいと思います。

 「滑らかな社会」と「価値共創」という二つの条件と、「オートポイエティックシステム」と「エフェクチュエーション」という二つの理論が、現代のマーケティングを考える上では大事な条件だと思います。そして、この二つの条件と二つの理論の中核に位置する価値は、「自由闊達」ではないでしょうか。これが私の話の本旨になります。

滑らかな社会

 まず、「滑らかな社会」からお話しします。一人ひとりの個人が爆発的な情報処理能力を持つようになりました。私は今、長野県に住んでいますが、あまり情報不足は感じません。何十年か前に出た本が紙版しかなくて、その本を古書でも取り寄せできないときは困りますが、論文はもちろん歴史資料でも今はネットを駆使すれば十分入手可能です。

 学者もそうですが、ビジネスの方でも、事情は変わらないと思います。ビジネスをスタートさせるにしても、思い立てばすぐに始めることができるようになっています。

 マーケティングを学ぶ学生たちが何百人か集まってやっている「Sカレ(Student Innovation College)」という組織があります。そこでは、数十チームに分かれて商品開発の腕を競っています。といっても、今では企画を競うというレベルを大きく越えてきています。半年か1年足らずの間で、実際にメーカーと協力して新商品を開発し、チャネルやEC店舗を開拓し、SNSを通じてインフルエンサーと協力して広報し、そして実際に売上と利益を稼ぐほどになっています。現実にビジネスが立ち上がっているのです。

 実際のビジネス世界でも同じようなこと(=俊敏に事業を立ち上げ成功させる)が起こっていると思います。それが意味していることは、組織が不要だということです。

 ハーバート・A・サイモン[1]というノーベル賞を取った組織論の先生は、「なぜ組織が必要なのか」という問いに答えて、「一人ひとりの個人の情報処理能力が限られているからだ」という理論を組み立てました。だから、組織があって、さらに組織の中に部門や階層ができてそれぞれに権限ができるのは、サイモン流の解釈でいくと、一人ひとりの情報処理能力が限られているがために組織が必要であって、階層や権限が必要だからだという形になります。

 しかし、今はどうでしょうか。ビジネスのアイデアが湧いてきて、これは物になると思ったときに、誰に相談に行くのかということなのです。昔なら上司に「こんな企画を考えたのですが、どうでしょうか」と相談し、会議や稟議で時間をかけて諮って、やるかどうかが決められていました。しかし、今ではお客さんのところへ行って「一緒にやりませんか」と声をかけてスタートできるのではないかという気がします。

 先ほどのSカレの話ではありませんが、ネットを使えば、市場調査もできれば、ベンダーも見つかる。「その商品なら買いたい」と言う人も簡単に見つかりますし、SNSを使えば広告代理店に頼まなくても即座に自分で情報をきちんと伝達できます。通販サイトに持っていけば販売もしてもらえます。30年前の組織の能力を、いわば一瞬のうちにわれわれでもつくれるようになっているのです。

 これをある経済学者は「滑らかな社会」と呼びました。滑らかではない社会は、権限や階層など四角四面の組織の中に一人ひとりが閉じ込められているのですが、今はその壁がなくなって、滑らかな組織になりつつあるという主張です。

価値共創

 次に、「価値共創」です。マーケティングは進化します。私が研究を始めた1970~75年ごろは、会社に利益を保証するのは「市場シェア」でした。会社の目的も、シェアを上げて業界トップなることでした。「競争戦略論」が経営者の人気を博しました。ところが、あるときから、お客さんと共に創る「共創」が焦点になり始めました。

 このことを象徴する事件が、ニューコーク事件ではないでしょうか。1985年に起こった事件で、コカ・コーラ社がオールドコークに替えてニューコークを発売しました。事前の調査で、「ニューコークの方がおいしい」と答えた人が大多数だったので、これはいけると確信していました。しかし、期待通りにいかず、消費者から手ひどい反発を受けました。不平不満の電話が相次ぎ、不買運動も起こりました。それで、コカ・コーラ社は仕方なくニューコークの販売を止めて元のコークに戻したという事件です。

 品質改良を図って、よりおいしい製品に替えたのに、なぜ消費者は不満なのか。あらためて考えても、不思議な話です。それまでの頼りにしていたマーケティングの背骨の部分がポキッと折れたような感じがします。そこからアメリカでも日本でも、マーケティングの世界において感覚がどこか大きく変わってきたように思います。

 この事件に関連して、大事な三つの点が指摘できます。

 一つ目は消費者の愛着を生み出す「ブランドというものの効能」があらためて重要だとわかったことです。よりおいしいコークを提案しているのに、消費者は「よりおいしいコークは私のコークではない」と答えたわけです。消費者はオールドコークに対して強い愛着を持っていました。消費者は自分たちのいろいろな人生の思い出をコークに重ね合わせ、そしてコークは「その人にとって唯一のコーク」になるわけです。製品に愛着がくっついてブランドになり、それが消費者にとって大事な価値になることがあらためて認識されたのです。

 二つ目は、いったん築いたブランドは、企業の資産になるということです。今ではブランドは企業の資産・財産として、経営の重要指標と見なされるようになっていますが、それまでのマーケティングでは、ブランドに対してあまりそういう意識ではなかったのです。

 三つ目は、消費者との共創に関わるものです。わが社にとってブランドは資産ですが、そのブランドは消費者と共有された財産です。会社がより品質の良いものを提供しようとしても、消費者に「それは私のブランドではない」と言われてしまう可能性があります。それまでは、消費者のためにより良いものを作り、より良いコミュニケーションを取れば、大体何とかなっていました。しかし、何ともならないことが起こってしまい、コカ・コーラ社は立ち往生することになったのです。

 ブランドの価値が、会社が創るものではなく、消費者と共に創られていることがわかります。そのような消費者との関係が生まれてきたのです。消費者との価値共創、それを前提にマーケティングを進めざるを得ない時代になっていると思います。

 以上、われわれを取り巻く二つの、いわば歴史的な条件とも言える、「滑らかな社会」と「価値共創」を紹介しました。

オートポイエティックシステム

 続いて二つの理論を紹介したいと思います。

 一つは、「オートポイエティックシステム」です。この名を聞いたことのない人が多いと思いますが、日本語では「自己産出系」といって、「自分で自分を生み出すシステム」のことです。情報処理の考え方がずっと経営学やマーケティング論を支配してきましたが、このオートポイエティックシステムというのは、生命をお手本として展開された理論です。生命がみずからの同一性を保ちつつ成長・進化するように、社会システムも、みずからの同一性を保ちながら変容する側面に着目した理論です。

 例えば、無印良品は、無印良品でありながらも中身は大きく変えてきています。無印良品は西友ストアのプライベートブランドとして、「わけあって、安い」というコンセプトで立ち上がったビジネスです。今、皆さんが無印良品に行く理由として、「わけあって、安い」という理由はあまりないのではないかと思います。しかし創業当時は「割れたせんべいでも味は変わらない」「ちぎれたシイタケも味は変わらない」「工程で少し不備があったために、体裁は悪いけれども中身は同じなのだ」ということで、「わけあって、安い」をテーマに打ち出しました。

 こんなふうに、無印良品は変わらないけれども、無印良品の中身は変わってきています。「同一性を保ちながら中身は変わる」この仕組みをどう理解したらいいのか。かつては、こうした問題を理解するための理論がありませんでした。ところが、社会学者のニクラス・ルーマン[2]が、オートポイエティックな理論を展開し始めて、先進的な社会学者が注目されるようになりました。

 人間で言うと、「同じ私(無印良品)でも、今日の私(無印良品)は、昨日の私(無印良品)ではない」ということなのですが、そのことが意味しているのは、「連続する繰り返しの中で革新や進化が生まれる」ことにほかなりません。それが生命のありようです。このメカニズムを理解しようというのが、オートポイエティックシステムの理論の原点です。情報系だと「非連続の革新」が前提とされるのですが、オートポイエーシスは「連続するプロセスのなかで生まれる革新」を扱うのです。

 もう少し具体的な例に即して説明します。

 無印良品の社員は、「無印良品らしさ」をいつも意識しています。だから、店頭に花柄の布団が並ぶこともないし、メーキャップの化粧品が並ぶこともないし、人工甘味料が入った食品も並んでいないと思います。あらゆるところで「無印良品らしさ」が生きていて、その「無印良品らしさ」をわれわれは好んで購入します。

 ちょっと仮想的な例ですが、考えてみましょう。

 「わけあって、安い」が出た頃の話に戻ります。「わけあって、安い」商品を作るために、文房具担当の社員が、塗りの工程を省いたら100円の鉛筆が80円にできることに気が付きました。「よし、これでいこう」という話になるのですが、そのままだと貧乏くさい話になるので、「自然」や「天然」というコンセプトをその鉛筆に付けました。塗りの工程を省いたから80円ではなく、自然な鉛筆を強調しながら80円で売ることにしました。それが組織の中で認められ、市場に出したらそれなりの人気を得ることになりました。

 すると、それを見た家具売り場の社員が「うちも『天然』を使って、素木のテーブルを売ろう」、食品の売り場の社員は「自然や天然は『無印良品らしさ』になるのか」と他の売り場も、「無印良品らしさ」を売り物にした商品を作っていきました。

 こうしたプロセスが進んでいくうちに、「無印良品らしさ」は、前とは違う「新しい無印良品らしさ」に変わっていきます。当初の「無印良品らしさ」は「わけあって、安い」でしたが、いくつかの意思決定を経由しながら、「自然」や「天然」といったコンセプトのいろいろな商品が出てきたとしたら、「無印良品らしさ」は、「わけあって、安い」から「自然」・「天然」の方へシフトしたということになります。

 連鎖する意思決定の中で「無印良品らしさ」が変わっているのです。「らしさ」が変わるメカニズムとは、こういう意思決定の連鎖の中でアイデンティティが変容するメカニズムに他なりません。意思決定が連鎖するうちに、意味空間としてのブランドらしさが変化していくということです。

 このオートポイエティックの理論は、伝統的な組織の見方(官僚制や条件適合理論)とは全然違う組織の見方だということがわかるのではないでしょうか。

 伝統的な組織論では、価値は組織の外から与えられます。「組織自体が変化しながら革新していく」というメカニズムは考慮の外にあります。伝統的組織論の言う組織観とは、私たちが日々経験する組織とはずいぶんと違った姿です。

 昔、某官庁の課長と一緒に仕事をしたことがあります。ふとした折に、「課長としての仕事の姿勢は、どういうものですか」と彼に聞いたことがあります。彼は「前任者のなされた仕事を壊すことなく、自分流の新しい展望を開くことだ」と言われました。私は、なるほどと納得しました。

 組織は、連続する意思決定の中で変異し、革新していくのです。その変貌する組織の先駆けとなるのは、この課長さんのような姿勢をもった組織人ではないでしょうか。

 しかし、普通の官僚制理論や条件適合理論の組織には、そのような組織人はいません。「上の人が言ったことはきちんと守る」「前任者のやったことはきちんと守る」「上司の言うことはそのとおりにやる」ことが、伝統的な組織の理論の前提になってきます。

 そのような組織理解では、組織に革新を起こすためには、あらためて革新者を外からもってくるしかありません。イノベーションやリーダーシップという概念が声高で語られるのには、組織の中から自然に革新が起こることが想定されていないからです。

 しかし現実はそうではありません。少なくとも、日本の会社ではそうです。日本のビジネスパーソンなら、この某官庁の課長の方のような気持ちで、「前任者のやったことをつぶしてはいけないけれども、自分として新しい何かを新しい世界を開けないと組織の中では認められない」と思いながら、仕事をしておられるのではないかと思います。そうなのです。革新は、組織の内から生まれるのです。

 そうした組織人の気持ちを組み込み、日々の活動の中から革新が生まれることを理論として定式化したものが、オートポイエティックシステム論なのです。

エフェクチュエーション

 もう一つの理論は、エフェクチュエーションです。サラス・サラスバシー[3]教授が、アメリカのベンチャーを研究する中で、提唱している理論です。

 目標や戦略はあらかじめ与えられるものではなく、実行過程の中でそれらが決まっていくことを強調する理論です。エンジニアリングの論理と比較すれば、わかりやすいと思います。

 エンジニアリングでは、目的を決めて、その目的に沿って進捗管理をしていきます。建物や道路や橋を作るプロセスを考えるといいと思います。目的があり、設計図があり、そしてそれを実行する工程がある、というのが基本の構図です。そこでは、未来は目的という形できちんと予測されています。

 一方、エフェクチュエーションの論理は、全てその逆だと思えばいいでしょう。大事なのは「自分の手の内にある手段(資源)」であり、それをどう活かすかを追求することが大事だと考えます。エフェクチュエーションは手段を活かすことを考える中で目標や戦略を生み出そうとします。だから、どんな未来が生まれるか、当事者にも分からないのがエフェクチュアルなプロセスだと思います。未来とは、あらかじめ予測できるものではなく、創り出されていくものなのです。

 昔、アメリカでデービッド・アーカー[4]の授業に出たことがあります。課題のケースについて考えをまとめて発表する形式の授業でした。学生たちは、グループに分かれてケースについて議論して、発表することになるのですが、学生のグループの1回目の集まりは簡単に終わります。「私は市場の条件を調べます」「私は企業内の資源の条件を調べます」というふうに、それぞれ何をやるか分担を決めるだけです。それが1週間後、調べたことを持ち寄って組み合わせたら、ちゃんとまとまってケースの答えになります。

 アーカーの本も、マイケル・ポーター[5]の本も、そういう仕事の切り貼りがきちんとできる形に章立てがあって、例えば1章を読めば競争分析のやり方が分かるし、2章を読めば内部資源分析のやり方が分かるようになっていました。つまりモジュール型です。さらに言えば、企画と実行が分離している方式がアメリカ流のマーケティングマネジメントです。フィリップ・コトラー[6]が言うところのアメリカ流のマーケティングマネジメントとは、STP[7]を決めてそれに合わせて実行していくスタイルですから、企画と実行が分かれています。

 しかし、エフェクチュエーションは、実行する過程の中で目標や戦略が見えてくるというアプローチです。サラスバシーは、アメリカのベンチャーはこの論理にしたがって事業を立ち上げてきていると言っています。先ほどのSTPのそれとは、ずいぶんやり方は違います。しかし、どちらが俊敏なのかというと、普通に考えれば現場で目標や戦略を生み出していくエフェクチュエーションの方だと思います。 

 「滑らかな社会」と「消費者との価値共創的関係」という現代の社会が置かれた条件と、「オートポイエーシス」と「エフェクチュエーション」という理論が、「俊敏なマーケティング」の鍵になりそうだと、私は思います。

おわりに

 最後に強調点を述べて終わります。

 組織人が日々活動する中で革新が生まれます。組織が俊敏に活動していこうとするなら、このメカニズムを利用しない手はありません。日々の活動の中で革新が生まれるとしたら、これほど俊敏な組織はありません。

 つまり、組織には、生命がそうであるように、そもそもみずから革新する契機を秘めています。その意味では、英雄的なリーダーの存在を前提として描かれた組織の理論は、私には「組織の神話」を創り出す理論にしか見えません。官僚制の組織理論も条件適合の組織理論も、「組織の価値は何か」、そして「誰がその価値を決めるのか」については、議論はありません。誰か、英雄的な、カリスマ的な人を待っているのだと思います。

 ただ、組織の人々のルーティンワークのような意思決定の連鎖の中で革新が生まれるために、一つ条件があります。

 それは、組織のメンバーの「自由闊達な活動」です。それが保証されていることです。組織の中に妙な権威や権力が生まれていて、自然の意思決定の連鎖を押しとどめることがあったとしたら、生まれるはずの革新も生まれません。その意味で、あらためて「自由闊達」の意義を強調しておきたいと思います。


[1] ハーバート・A・サイモン(Herbert Alexander Simon):アメリカの政治学者・認知心理学者・経営学者・情報科学者で、心理学、人工知能、経営学、組織論、言語学、社会学、政治学、経済学、システム科学などに影響を与えた。大組織の経営行動と意思決定に関する生涯にわたる研究で、1978年にノーベル経済学賞を受賞。

[2] ニクラス・ルーマン(Niklas Luhmann):ドイツの社会学者。1984年に主著『社会システム理論』(Soziale Systeme=社会の諸システム)を発表。社会システム理論にオートポイエーシス概念(生命システムの固有性を記述するために提唱された概念)を導入。

[3]サラス・サラスバシー(Saras Sarasvathy):ハーバート・サイモン教授の最晩年の弟子。バージニア大学ビジネススクール教授(戦略・倫理・アントレプレナーシップ部門)。バージニア大学以外にも、デンマーク、インド、クロアチア、南アフリカでも指導。

[4] デービッド・アーカー(David Aaker):アメリカの経営学者、マーケティング理論家、コンサルタント。専攻はブランド戦略。カリフォルニア大学バークレー校ハース・ビジネススクール名誉教授。ブランド・アイデンティティの概念の提唱者。

[5] マイケル・ポーター(Michael Porter):アメリカの経営学者。ハーバード大学経営大学院教授。ファイブフォース分析やバリュー・チェーンなど数多くの競争戦略手法を提唱。

[6] フィリップ・コトラー(Philip Kotler):アメリカの経営学者(マーケティング論)。ノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院SCジョンソン特別教授。STP理論や、マーケティングの4Pにpublic opinion(世論)・political power(政治力)を加えた6P理論、または4Pにpeople(人)・processes(プロセス)・physical evidence(物的証拠)を加えた7P理論など提唱。

[7] STP:事業戦略やマーケティング戦略を策定する際に活用されるフレームワークで、フィリップ・コトラーが提唱した概念。。S=「市場の細分化(Segmentation・セグメンテーション)」、T=「ターゲット層の抽出(Targeting・ターゲティング)」、P=「競合との差別化(Positioning・ポジショニング)」

 

講演2 俊敏なマーケティング
ー起業家的行動が、なぜ、今、私たちに必要か

 

 

飯野 将人氏
(株式会社スケールアウト 共同代表)

 

「失われた30年」を生きた世代

 この場でお話しする機会を頂戴して大変光栄に感じております。スケールアウトという独立系のコンサルティング会社および投資会社を経営している飯野将人と申します。今日ご参加いただいている方々は企業関係者の方も大変多いと伺っていますので、なるべく実践に寄せたお話ができればと思っています。よろしくお願いします。

 私は57歳で、職業人人生が35年です。私が社会人として就職したのは1988年、いわゆるバブルの最後の年です。平成になる直前に社会人になった後、日本経済の成長力はがくんと落ちて、振り返ってみれば「失われた30年」といわれているのが私の社会人人生です。

 「失われた30年」という話をするたびに、それは私の世代の責任なのだなと痛感しつつ、国民人口の縮小などのように抗えないことはあるものの、私たちの世代がもう少しいろいろなことをできなかったのかという反省があります。こうした機会を頂戴するたびに、今の若い世代がイノベーションを起こして新しい経済を立ち上げていく一助になればと思っています。

 私の元々の振り出しは、今はなき日本興業銀行、現在はみずほ銀行の一部ですが、そこで専ら市場の取引、デリバティブのトレーディングをやっていました。この銀行に在籍した時代に、ハーバード大学にも社費で留学させていただきました。実は三品先生もそうですが、当時既に評判が高かったマイケル・ポーター先生の授業を受講するという貴重な経験もしました。その後、ついこの間コングロマリット・ディスカウント[1]で解体するという話が出ていましたけれども、アメリカのゼネラル・エレクトリック(GE)でしばらく働いていました。

 ちょうど20世紀から21世紀にまたぐタイミングでGEで働いていたのですが、20世紀のGEはジャック・ウェルチのGEでした。昨年(2020年)亡くなりましたが、私はジャック・ウェルチの直属の立場で、日本で仕事をしていました。ジャックは偉大な経営者でしたが、彼が言っていたことを一言で集約すると「人と同じことを、人より上手にやれ」ということでした。彼はそれをやりきりましたので、20世紀的な文脈における最も偉大な経営者といえる人だったと思います。それが21世紀になって、ジャック自身が指名した後継者であるジェフリー・イメルトがCEOになり、彼は「人と違うことができないやつは去れ」という全く正反対のことを言いました。イノベーションがイメルトのキーワードであり、私は全く別のGEを経験することになりました。

 その後、私自身は日本で3社、アメリカで1社の起業を経験しました。アメリカでは、シリコンバレーではなくロサンゼルスで起業した会社をGoogleに売却し、そこでは創業起業家として多少成功するイグジットを経験しました。ですが、それ以外には、倒産したり債権者に迷惑をかけたりしたことはありません。しかし、プロジェクトを閉じたり、私が集めた従業員たちをアウトプレイスしたりすることは少なからず経験しており、決して順風満帆な起業家人生というわけではありません。

 その経験を自分でも活かせると信じて、その後ベンチャーキャピタリストをしています。現在、私が経営している会社もベンチャーキャピタルです。イノベーションの誤訳で「技術的な革新」のようなことを今でも日本経済新聞あたりが書いたりしますが、私もそうした技術的な革新性や斬新性があるものに投資したがっていて、それでたまたま当たったものももちろんありますが、多くの場合、必ずしもうまくいかないという経験をする中で、自分は普通の人に比べたら、その種の経験が豊富ではあってもイノベーションに熟達、上達していないのだなというのが常々の悩みでした。

リーンスタートアップに出会う

 そんなときに、十数年前にリーンスタートアップというものに出会いました。スティーブ・ブランク氏は、今はスタンフォード大学のアソシエイトプロフェッサーとして教鞭も執っていますが、実はアカデミックな人ではなく、生涯で8回創業をして、4社を株式公開させた人です。シリコンバレーでも「伝説のウィザード」と呼ばれています。彼がたたき上げの自身の経験を積み上げて理論化したものがリーンスタートアップなのです。

 リーンスタートアップは、彼の弟子でもあるエリック・リース[2]氏が有名ですが、実はその原案はスティーブ・ブランク氏のものです。私の会社にもスティーブ・ブランク氏は出資してくださっていて、私は日本におけるこの概念の伝道者として認めていただいています。

 リーンスタートアップは、天才性やセンスでイノベーションを起こすのではなく、地道で愚直な試行錯誤をきちんとやりきればイノベーションは起こせるというのが彼の考えです。

 一方、昔ながらの新規事業というのは、時々のバズワードや未来予測に振り回されて、多くは予測に自分の会社を合わせていこうとするものです。ビットコイン、ブロックチェーン、AI、5G、DX、RPMなど何でもあります。こういうものが経営会議の中でかなり浮薄な感じで次々と出てきます。今年はやったものが次の年には人の口に上がらないものもたくさんあります。これらをどうチューニングして、予測してそこに合わせていくという発想が、戦略計画的なアプローチです。

 それに対して、特にシリコンバレーなどでもてはやされている今のやり方は、システマティックな試行錯誤です。試行錯誤を、無手勝で、のべつ幕なしにやるのではなく、システマティックにやろうというものです。このシステマティックな試行錯誤に対して、いろいろな流儀が編み上げられています。不確実性や変化があるという前提の中で、イノベーションを起こす能力を後天的に獲得できるところが私にとっては新しく、ややもするとイーロン・マスクと自分はセンスが違うのだと言う人が多い中で、後天的にイノベーションの能力を獲得できるという主張が私にはとても新鮮でした。

システマティックな試行錯誤

 そういった出会いがあって、自分でベンチャー投資もしますし、事業をやっていますが、その傍らでいろいろな大企業の新規事業の立ち上げをお手伝いする機会が2014年ごろから増えてきました。20社以上の大企業で新規事業立ち上げの制度設計や、そこから出てきた個別案件の現場の伴走をしています。ソニーは今でもお手伝いしています。

 振り返ると、ソニーのお手伝いを始めた2014年はどん底のときでした。吉田現社長の前任である平井社長の時代には、本当につぶれるのではないか、サムスンに食われてしまうのではないかといわれていました。そのときに、ソニーは不退転の決意で何か新しいことをしないと駄目だと考えました。平井さん以前に社長だった人たちは「ソニーらしさとは何か」という、先ほどのオートポイエーシスにも関係があるかもしれませんけれども、私から見ると不毛な議論をしていた中、平井さんは「常に自分の殻を破って脱皮し続けられることがソニーなのだ」という定義をされて、私もそのお手伝いをする機会がありました。

 イノベーションを学んで起こせることの良さは、ある個別の天才的な起業家に張るという話ではないところです。早稲田大学ではイノベーションは学んで起こせるものだということを前提に教育プログラムを充実させています。私もその教員の一員ですが、そこでいろいろなカリキュラムを編んでいて、いろいろな大学でイノベーション教育を行ってきました。その中からいろいろな起業家が出たり、大きな資金調達をしたりもしました。実はまだ株式公開をしたという企業やいわゆるユニコーンは出ていませんが、時価総額が数百億円になった企業は幾つかお手伝いしました。

 新しいビジネスをするときに「綿密に計画しそれを計画通りに実行すればうまくいく」というのは古い考え方です。実際には千鳥足であちこちうろうろして、成功せずに終わるプロジェクトもたくさんあります。リーンスタートアップに関してこれだけ覚えておけばいいという標語が「Fail FAST,  Fail CHEAP,  Fail SMART」です。failは「試行錯誤」と訳して、うまくいかないことが大前提であり、それを想定したattitudeで臨もうと言っています。

顧客の欲しがるものは分からないことが前提

 リーンスタートアップは、言うまでもなく、Lean Manufacturing(トヨタ生産方式)を語源としています。トヨタの生産方式の場合、原材料や部品というインプットに対して製品を歩留まり良く、不良品を出さないようにすることを目指しますが、リーンスタートアップの場合はアイデアという原材料、部品を使って、質の良いビジネスモデルを生み出すことを目指します。トヨタ生産方式では、結果的に売れないものを作ることで浪費される時間やコストを、排除すべきムリ・ムダ・ムラと定義して、それを最小化しようという考え方がリーンスタートアップです。

 これは従来型のリニアモデルと製品開発の現場でいわれるものですが、企画して、開発して、テストして、販売するという一連の流れを、厳密な納期管理・コスト管理をして、プロジェクトマネジメントをしていくという発想が以前はありました。この前提にあるのは、お客さんが欲しがるものは自分には分かっていて、そこから逆算して予算や納期を管理していく発想です。

 一方で、顧客開発ないしリーンスタートアップの発想は、顧客の欲しがるものは分からないのが前提です。いろいろなことを分かると思うのは妄想であり、とにかく先が見えない暗闇の中、不確実性の霧の中を進んでいくことなので、お金と時間がかかるステップを極力後倒しすることができないかを考えていきます。

 かみ砕いて言うと、昔ながらのやり方では開発や販売にもお金がかかります。そこまで来てから売れないということが分かると、投資が全部無駄になってしまいます。例えば、数年前に3Dのゴーグルをかけるとテレビ映像が立体に見える商品など、こういうステップではないやり方で市場投入された揚げ句に、小さな失敗ではなく大失敗してしまったことが身近にいくらでもありました。一方で、リーンスタートアップや顧客開発的な発想では、お金がかかるステップは省いて、いきなり企画したら売ってしまいます。売るといっても売るものがないので、仮発売にすぎないのですが、売ってみたら誰も買わないことが分かったとしても、時間もコストもほとんど使っていないのでやり直しがききます。

 そうしてやり直すと少し賢くなっていくので、そこで仮販売をして、ニーズがある状態をつかんだら、作りだします。そのときもいきなりフルスペックを一生懸命作るのではなくて、なるべく小さいスペックで小分けにして作っていくのですが、欲しいとは言ったけれども買うとは言っていないというお客さんがやはりたくさん出てきます。私も以前、自分がベンチャーをやっているときには、「面白いね」と言ってくれたお客さんに、その気になって飛び込んでいったら、「面白いとは言ったけど買うとは言っていないよ」と空振りして会社がなくなってしまうことも何度か経験しました。

 ですので、ニーズがあってもここでフルスイングしないで、小刻みに開発しながらやっていけば、最後に売れることもあるということです。予算を一気に投じるような勇ましい勝負を懸けるのではなく、何度もやり直しや手戻りができるように予算と時間を小さく区切ってやっていくのがリーンスタートアップです。これを賢く行うためには、とにかく試行錯誤1回にかかる予算と時間を切り詰めるだけ切り詰めます。でも、有用な実験はしなければいけないので、切り詰めてはいけないものはもちろん行います。そのときに、どうしたら切り詰められるかというと、万人に受ける万能品を作ることを放棄して、お客さんの対象を絞り、製品のスペックも絞っていくのです。

アーリーアダプターに絞る

 この一番小さく絞ったときのお客さんのことを、リーンスタートアップ用語でアーリーアダプターと呼び、それに対応する製品のスペックのことをミニマム・バイアブル・プロダクトといいます。アーリーアダプターとミニマム・バイアブル・プロダクトの絞り込みは口で言ってもなかなか分からなくて、だんだん習熟していく必要があるのですが、コンセプチュアルにはなるべく小さなお客さんのセグメントに小さい製品を当てていくことで、試行錯誤1回にかかる時間やコストを削るということです。

 アーリーアダプターではないものは何かというと、メインストリームといわれるものがそうです。パイは大きいけれどもニーズが切実ではありません。そこに聞いていくと、買わない割には、あれもあったらいい、これもあったらいいというふうにいろいろ注文を付けてきます。ベンチャーにとっても大企業にとっても、買わないのに、ないものねだりというのが非常に毒なのです。私も投資をしていく中で、「お客さんがみつかりました!こういう人です」と言われて、一緒に話を聞きにいくと、あれこれ注文を付けてきたり、最初から値切る話をしてきたりするので「この人は最初のお客ではないかもしれない」と言います。「最初のお客でない場合は棚上げにして、アーリーアダプターという、もっと選択的に絞り込んだセグメントの人と話をしないといけない」と言います。この人たちは別に勘がいいとかセンスがいいということではなく、単にニーズが切実だから、無印良品の「わけあり」ではないですけれども、多少見た目に問題があっても飛びついてきます。要するに、喉が渇いているので、この水はミネラル分が何パーセントかというのを気にしないで多少水が濁っていたとしても、ゴクゴク飲むということです。

 リーンスタートアップを進めていったときの大きなボトルネックは、リーンスタートアップと聞くと何かニッチで、リーンという言葉を「小さい」と誤訳して理解している人が多いことです。「ベンチャーがやるにはいいけれども、うちのように大きな会社にはなじまない」というふうに、大きな誤解に基づいたことを言う人も少なからずいます。リーンスタートアップの起点をなぜリーンにやるかというと、クリステンセンが言うところの足掛かり市場を作るためです。できるだけ小さくセグメントを絞って、そこで高速に実験をたくさん行い、最初の足掛かりを作り、それを起点にして大きく育てようと言っているだけで、別に小さなマーケットで満足しようと言っているわけではありません。このようなミニマム・バイアブル・プロダクトを足掛かりにして、だんだん製品のスペックを上げたり、値段を下げたり、いろいろな工夫をすることで、徐々に小さなニッチセグメントから万人受けするものに育てていくのがリーンスタートアップです。

 よく例に挙げられるのが、GoProという高性能小型カメラです。創業者がプロサーファーなのですが、自分のニーズに応える製品が世の中にありませんでした。サーファーは、チューブライディング[3]といわれるような幻想的な体験をします。しかし、ワイプアウト(ボードから落ちる)するともみくちゃになるし、ああいう映像は普通の大きなカメラでは撮れず、防水性が高くなければなかなか撮れません。

 そんな映像が撮れる耐環境性能が強くて小さいカメラが欲しいと彼は考え、日本の家電メーカーも含めていろいろなところに企画を売り込みました。しかし、プロサーファーは全世界で5000人ぐらいしかいないこともあってか、そんな製品は作らないとそっぽを向かれてしまい、仕方がないので自分で作ったらどんどん広がっていきました。しかも、そうした過酷環境に耐える手軽な録画装置はプロサーファーだけのものではなくて、いろいろなエクストリームスポーツ[4]などに発展して、今はドローンや気球、あるいはペットや鳥などいろいろなものに付いています。そうしたことにも使われるようになって、今では年商1500億円を超える事業になりました。

 日本の家電メーカーの多くも、アクションカメラというセグメントができた後に慌ててマーケットに参入しようとしたのですが、結局そのセグメントではGoProが王者になっていました。無名のベンチャーが、日本の高機能で資本力も豊かな家電メーカーに勝っているのです。

ダイナミックな環境に求められる組織能力

 リーンスタートアップについてご紹介したところで、今日の経営を巡る事業環境の話をしていきたいと思います。デザイン思考にはいろいろな流儀のものがあり、日本で最も有名なのはスタンフォード大学のデザインスクールで紹介されているステップだと思います。これは、アイデアを多産多死させて、ラピッドプロトタイピングを行いながら、製品のスペックを固めていくものです。それから、今ご紹介したリーンスタートアップがあります。これも仮説検証のサイクルを高速に回そうという考え方です。仮説検証は裏返せば試行錯誤です。それから、今日のお題にも出ているアジャイルがあります。私もいろいろなベンチャーをやる中で、ソフトウェアの設計・開発で元々使われてきたアジャイル開発といわれるコンセプトもあります。これらはどれも、試行錯誤を前提にしています。

 これらを統一的なコンセプトにすることで、リーンスタートアップ、デザイン思考、アジャイル、グロースハッキングといった、経営的にもてはやされている一連のものが一つにまとめられています。普通に使っているものですが、これを貫いているのが試行錯誤を重んじる思想です。

 結局これがなぜ必要になってきたのかというと、先ほどから何度も話が出てきているVolatility、Uncertainty、Complexity、Ambiguity(VUCA)です。これがあるために、若干古くなってきた感じはありますが、リタ・マクグラス[5]というコロンビア大学の先生が、「競争優位は死んだ」と言っています。マイケル・ポーターがずっと言っていた、競争優位をいかに作るか、その賞味期限を延ばすためにいかにいろいろな戦略的な手を打っていくかというフレームワークが長らくあったところ、マクグラスは「競争優位など長続きしないので、どんどん競争優位の山を投入していって、次々と入れ替わる一連の事業のピークをつなげていくことで企業は成長していくという頭の使い方をしないと駄目だ」と言いました。

 それを可能にする道具立てとして、私はSaaS(Software as a Service)がもたらしたインパクトはとても大きいと思っています。また、昨今いわれてきているAIもそうです。AIも、今はAIのアルゴリズムだけで差別化を図るというよりは、いろいろなオープンライブラリが出ていく中で、どのアルゴリズムをどう組み合わせて、どういうTPOに合わせて使うかというゲームに移ってきています。私が投資しているベンチャーも、AIを開発する会社ももちろんありますが、AIを使う会社にごく普通に投資するようになっています。

 私にとってSaaSは、事業環境が目まぐるしく無秩序に変わっていくようなダイナミックな環境に求められる組織能力があり、それができるようなツール立てとして、特にデジタルの分野でいろいろな試行錯誤にかかるコストを革命的に下げました。AIも、シリコンの中でシミュレーションが非常に簡単にできるようになったので、お金や手間をかけなければできなかったものがいろいろ実験できるようになりました。いずれも試行錯誤を極力安く、短期間に済ませることができる道具立てだと私は見ています。

失敗を愛でる文化

 特に海外のスタートアップ界隈には失敗を愛でる文化があります。どこかの戦略コンサルタント上がりで、ピカピカの肩書の人が、昔ながらの投資銀行から大きなお金を調達してどーんと行くストーリーは今もありますが、私は乗りません。いろいろな現場に出て試行錯誤を繰り返すことが大事ですし、日本でも2回目、3回目、4回目、5回目の試行錯誤やプロジェクトにトライしている若い起業家は出てきています。そういう人に好んで投資する私のような投資家も少なからず出てきています。

 それだけでなく、起業家の間で秘中の秘伝書を作るのではなく、自分がやってうまくいかなかった試行錯誤を共有する仕組みも出てきています。私はいろいろな大学や若い起業家と付き合うときに、「私が4回も起業したのだから、君たちは最低20回はしなければ駄目だ」とハッパを掛けています。

 私は、ベンチャーキャピタルをやっていく中で、そういった野良の起業家たちと付き合うことも多いのですが、彼らは大変フットワーク軽く動きます。私は、ソニーなどの新規事業のサポートもしていますし、リコーのデジタルトランスフォーメーション(DX)にも関与しています。

 そんな中で、特に大企業の文脈でいわれるキーワードとして、2019年ぐらいから「両利きの経営」という言葉を使って日本では冨山和彦[6]さんや入山章栄[7]先生が盛んに話をされていますし、当然DXもあちこちでいわれています。先ほど申し上げたようなツール群が充実してきたことと併せて何が起こっているかというと、「ノウハウ頭でっかち問題」が私を悩ませています。石井先生も「計画より実践に軸足を置いたものの考え方に最近なっている」とおっしゃっていましたが、まさに実践が大事です。

 実践が大事ですが、いろいろなリーンスタートアップやデザイン思考などは、読めば分かり、左脳で理解することはできます。しかし、口が達者な評論家のような人が会社の経営企画部を中心に増えています。私もコンサルタントとしてお手伝いをしたり、いろいろなところで仮説検証をしたりしていますが、肝心の経営企画の人たちはみんな「リーンだよね」と言いながら、本人たちは全然手を汚さないことが起こっています。これはサッカーでいえば、ルールブックとトレーニングメソッドの本だけを読んで、サッカーをやったことがない人がコーチをしているようなもので、非常に良くありません。この問題が私を最近悩ませています。

イノベーションへの心理的ハードルを下げる

 私にとってのエフェクチュエーションはそこのギャップを埋めるものであり、やはり「ノウハウ頭でっかち」にならないで、行動がなければならないということで、サラスバシー先生が出てきます。不確実性を嫌うのではなく歓迎し、「手持ちのフダ」をフル活用して「できること」に集中するという、ごくシンプルな行動原理だと思います。これを私の定義で、起業家のマインドセット的な文脈で表現すると、自分のことを組織人としてのサラリーマンだと思っている人を仮に「凡人」と呼ぶとしたら、エフェクチュエーションには凡人がイノベーションに取り組む心理的ハードルを下げる効果があるように、私の目からは見えます。

 これを模式的に表現して、エフェクチュアルな思考が土台にあって、その上にデザイン思考やリーンスタートアップ、アジャイルなどのいろいろな道具立てが乗っているさまを見ていくと、コンピューターにおけるOSがエフェクチュアルな思考であって、その上に個別のアプリが乗るような関係で、アプリだけあってもOSがないという、先ほどの「頭でっかち問題」が起きます。みんな口ではいろいろ言いますが、「本当に自分の社運を懸けてもいいようなアイデアは出ましたか」と聞くと出ていなかったり、リーンスタートアップで盛んに議論している人に、「あなたは仮説検証のために飛び込みでお客さんのところにインタビューに行ったことがありますか」と聞くと、「ありません」と言う人が本当に多いのです。別に彼らを責めているのではなくて、やはりエフェクチュアルな思考がまだ足りていないと感じるのです。

 これがちゃんと大企業において身に付くことで、「深化」の方ではコーザル[8]な思考、先ほどの戦略計画的な発想の思考がこれからも役に立つでしょうし、「探索」といわれるような分野ではエフェクチュアルな発想が求められると思っています。

 これは2019年ぐらいから話し始めていますが、私はNECのお手伝いをする中で、2021年度からは全新入社員約600人にエフェクチュアルなトレーニングを行っています。アカデミックな分析もしていて、エフェクチュアルな人材(先輩や上司から言われたことをただ忠実に実行する行動様式ではない人材)を育てるための、OSとしてのエフェクチュエーション教育に取り組んでいます。私のコンサルティング会社でやるだけでは広がりがないので、それをもっと高度化して、日本エフェクチュエーション協会を栗木先生たちと一緒に立ち上げて、皆さんで切磋琢磨しながら普及啓蒙していく活動を最近始めました。

 今日お話ししたかったことをまとめると、変化が激しい時代なので、やはり起業家的なマインドセットが大事だと思います。それを補うような、暗黙知が可視化されたツール群がそろってきているし、SaaSでもAIでも、そうしたデジタルのツールも充実してきています。どれもproprietaryではなくてオープンなライブラリでいろいろなものがそろってきているので、やらない理由はありません。

 にもかかわらず、ツールはたくさんそろっても、勉強しても、組織がそういうダイナミックなケイパビリティを獲得するまでにはギャップがあります。組織の構成員一人ひとりが、エフェクチュアルなマインド、試行錯誤に自ら取り組んで、自分で手足を動かすマインドセットが大事だという問題意識を常々持っています。


[1] コングロマリット・ディスカウント:複合企業(コングロマリット)の企業価値が、事業ごとの企業価値の合計よりも小さい状態のこと。多角化は業績変動を減らすなどの利点がある一方、事業の全体像や相乗効果が見えにくい場合は市場評価を下げやすい。

[2] エリック・リース:アメリカの起業家。『リーンスタートアップ』(井口耕二(訳)、伊藤穣一(解説)、2012年、日経BP)の著者。

[3] チューブライディング:サーファーが細かい形の砕波のカーブまたはバレル(筒状の波の空洞)を作り出す波の内側をよくライディングすることを表す用語。

[4] エクストリームスポーツ:速さや高さ、危険さや華麗さなどの「過激な」要素を持ち、離れ業を売りとするスポーツの総称。アクションスポーツとも呼ばれ、Xスポーツ と略されることもある。

[5] リタ・マクグラス(Rita McGrath):アメリカの戦略的経営学者であり、コロンビアビジネススクールの経営学教授。発見主導型計画の開発を含む、戦略、イノベーション、および起業家精神に関する仕事で知られる。

[6] 冨山和彦:経営コンサルタント、経営者。株式会社経営共創基盤代表取締役CEO。

[7] 入山章栄:経済学者。早稲田大学大学院経営管理研究科教授。

[8] コーザル:意思決定の前に目標が決定されている考え方であり、MBA的に将来目標を設定してそれと現状を比較してギャップを埋めるべくどんなアクションをとるべきかを逆算的に決めるやり方のこと。ほとんどの経営の現場で用いられる考え方であり20世紀的なMBAの考え方。

 

講演3 ビジネスアジリティとは何か
~組織全体をアジャイルに~

 

 

山本 政樹氏
(株式会社エル・ティー・エス 執行役員)

増している経営のスピード感

 株式会社エル・ティー・エスの山本と申します。ビジネスアジリティというテーマでお話ししますが、根底にあるテーマはお二人がお話しくださったことと全く同じです。内容的にかぶるところが出てくると思うのですが、一つのまとめとしてぜひ聴いていただければと思います。

 私は株式会社エル・ティー・エスという会社に所属しております。連結で450人ぐらいのコンサルティング会社で、さまざまなサービスを提供していますが、ビジネスプロセスの理解を基にした、昨今でいうデジタルトランスフォーメーション、デジタルソリューションをうまく使うところが、取り組みとしては多くの割合を占めています。

 私は、専門用語でいえば要求工学[1]やエンタープライズアーキテクチャー[2]、ビジネスアナリシスといわれるような、主に企業の戦略やビジネスモデルの大きなコンセプトを受け取って、企業のビジネスの構造に落とし込んでいく方法論を専門的に20年以上追いかけてきました。そこの問題意識から発して、ビジネスアジリティという、環境変化が激しい時代における経営全体の在り方についてもここ数年研究しているのですが、本日はそのあたりのお話をさせていただきます。

 まず、ビジネスアジリティという言葉を振り返るところからお話しします。現在の経営環境はとても厳しくなっています。複雑化と迅速化が同時並行で進む時代といえると思います。

 私が子どもの頃、家にある電話は黒電話でした。この黒電話は、AT&T[3]が元々開発したもので、戦前から使われていたそうです。ところが、1980年代ぐらいから留守電機能が付いた多機能電話、コンセントが必要な電話が登場し、そこからあれよあれよという間に今はもうスマートフォンとなりました。すさまじい数の機能が小さなデバイスの中に埋め込まれ、料金体系なども非常に複雑な世界になっています。

 自動車も、T型フォードが作られた時代は、1人のエンジニアが自動車1台を開発することが可能な時代でしたが、今は無理です。機械、特殊素材、電子制御、さまざまな要素の塊です。自動車1台に埋め込まれているコードの総数は軽く1億行を超えるそうです。これは、戦闘機などに埋め込まれているプログラムのコード総数より多いそうです。そのぐらいわれわれが乗っている自動車は、ユーザー支援機能の塊だということです。これがたかだか1年や数年でモデルチェンジしてしまうし、電子機器に至っては半年ごとに新しいモデルが出てくるので、すさまじい時代だと思います。

 経営のスピード感もどんどん増しています。昔は良くも悪くも経営は紙で行われていました。物理的に紙が行ったり来たりする時間が必要でしたし、情報を集計するのも人手でした。これが今、世界中の情報が瞬時に集計されて、今この瞬間の世界中の売り上げがダッシュボードで見られる時代になっています。当然、経営判断のスピードはどんどん上がっていきます。世界中のあらゆる人とネットを通じてつながることができます。それだけパートナーシップやエコシステムの広がりも、瞬時にすごい勢いで広がっていく時代にあります。これらの根底には当然、技術の進化があります。インターネットに限らず、ありとあらゆるテクノロジーの進化がこういった世界の変化を後押ししました。私たちは、こうしたものを指していわゆるデジタルトランスフォーメーション(DX)などと呼んでいます。

状況に対していかに素早く方向を変えられるか

 そういう時代だからこそ、この速い変化に適応していかないと、企業がどうなってしまうのか、2000年代のアメリカで最大のDVDレンタルサービス会社のブロックバスターの事例を紹介します。最盛期に売り上げが60億ドル、日本円で六千数百億円というかなりの大企業でした。2008年、当時のCEOは「今の競争環境については全く心配していない。なぜならブロックバスターのブランドは十分に認知されているからだ」と言ったわけですが、2年後に倒産しました。いわゆるチャプター11[4]です。この背景に何があったかというと、オンライン配信が映画など映像配信において主流になったことだったのです。

 そういう環境の中で、ビジネスアジリティという言葉が注目されるようになりました。さまざまな人がさまざまな定義をしていますが、最大公約数でいえば、事業構造を外部の環境変化に対して素早く適応させると同時に、時に自ら変化を生み出していくことを可能にする組織能力です。環境変化に適応しつつ、自分からも変化を作り出していく組織能力のことを指してビジネスアジリティと呼んでいます。このアジリティがまさに今日の一連のテーマです。日本語では「俊敏な」という言葉によく訳され、「機動力」という意味もあります。

 よく誤解されるのですが、アジリティというのは、状況に対していかに素早く進む方向を変えられるかという意味を含んでいます。その意味で「スピーディ」とは若干、意味合いが異なります。もちろんアジリティの中にスピードの要素がないわけではないのですが、ただがむしゃらに速いのではありません。機動力を持っている、状況に対して素早く適応する力を持っている要素を含んでいるのが大切な部分です。この言葉が現在、世界中の経営でさまざまに語られるようになりつつあります。

 この言葉は元々、アジャイル開発やリーン・シックス・シグマのコミュニティがその概念を拡張する中で生まれた言葉です。アジャイル開発が主流になるに従って、アジャイル開発の考え方はソフトウェア開発だけに限らず、さまざまなビジネスシーンに適用されるようになりました。これが真っ先に適用されたのが、製品開発や新事業の創造、それからマーケティングの分野です。今はここに限らず、さまざまなところでアジャイル方法論が使われるようになりました。その中で生まれてきたのがビジネスアジリティという言葉です。

 現在、北米を中心に、ヨーロッパなどを含めて、Agile Business ConsortiumやBusiness Agility Instituteと呼ばれる、これまでのソフトウェアの世界の団体を飛び出してビジネス全般でアジャイルを語ろうという団体が増えています。定期的なカンファレンスなども行われるようになっています。概念としては一般化した言葉で、誰か特定の人や組織がビジネスアジリティという言葉を提唱したというより、こういったコミュニティから自然発生的に出てきた言葉です。

 私がアジリティという言葉をビジネスとして意識するようになったきっかけは、飯野さんのお話にもあったリタ・マクグレイスさんの『競争優位の終焉[5]』という本です。その中にアジリティという言葉が出てきます。変化にいかに適応していくかという概念であり、これからの企業にはアジリティが必要になるということが触れられていました。海外のカンファレンスなどでもあの本を引き合いに出してビジネスアジリティを語っている講演を何度か聞いたことがあるので、そのあたりがビジネスアジリティという言葉が一般化したターニングポイントの一つだったのではないかと思っています。

ソフトウェア開発から生まれたアジリティの方法論

 このビジネスアジリティには、狭義と広義の二つのアジリティの世界があります。まず狭義の世界は、ソフトウェア開発の世界で使われてきたアジャイル方法論を、いかにソフトウェア開発以外の領域に適用していくかということを中心に議論しているビジネスアジリティです。今のビジネスアジリティの主流、例えば事例紹介や議論では、このあたりの発信が数としては多いです。

 ただ、変化に適応するための能力全般を本来ビジネスアジリティというのであれば、既にここまで出てきたキーワード、例えばダイナミックケイパビリティ[6]や、石井先生の言葉に少し表れてきたようなさまざまな組織論、昨今ではティール組織やホラクラシー[7]といわれるような複雑系の考え方、それから20年ぐらい前に提唱されてヒューレットパッカード(HP)あたりが一時期、採用していたアダプティブエンタープライズ(Adaptive Enterprise)のような考え方、これら全てが実はビジネスアジリティと呼べる部分があります。ちょっとイメージを作るために、まず狭義のビジネスアジリティを解説した上で、広義のビジネスアジリティを説明していこうと思います。

 まず、狭義のビジネスアジリティ、つまりアジャイル開発の方法論のビジネスへの適用です。飯野さんの講演でアジャイル開発の概要を説明していただいたので、ここでは軽くおさらいをすると、それまでのウォーターフォール開発は一つひとつのソフトウェアの開発工程を厳密にその作業特性ごとに区切って、ある作業が完全に終了するまでは次の工程に行かないという考え方でした。まず分析をして、全てのソフトウェアスコープの全体の分析を終えた後、初めて設計に移ります。そして、ソフトウェア全体の設計が終わってはじめて開発に移ります。確実な方法ではあるのですが、問題は特に大規模なソフトウェアになってくると、ソフトウェアの分析をしている間にどんどん要求が変わっていくし、設計をしている間にも要求が変わっていきます。開発が終わってテストが終わった頃には、もうソフトウェアが時代遅れになっています。

 そもそも過去のウォーターフォールプロジェクトでは、分析・設計・開発という工程を全て文書でやりとりすることが当たり前でした。文書に書き起こすことで、とても厳密で正確な情報のやりとりをしていますが、エンジニアからすればそんなことは言われなくても分かるという世界もあるし、それをやっている時間も労力も無駄です。結果的にデスマーチのプロジェクトがたくさん生まれます。

 そうであるなら、ソフトウェア全体の構造のごく一部分、優先順位が高い部分から順番に開発していけばいいだろうという考え方がアジャイル開発です。アーキテクチャーを分割して、優先順位が高い、かつその機能を成り立たせる最小要素、いわゆるミニマム・バイアブル・プロダクト(MVP)をまず作ります。作ってみて、世に出してみて、もしくは使ってみて、良ければその後続の機能をどんどん作っていくし、使ってみた機能が何かイメージが違えば直すし、当初考えていたものよりも優先順位の高い機能があることに気づいたら、そちらの機能を先に作るといったことが可能になります。

ソフトウェア開発以外に広がる適用

 このように小さな要素を先に作ることで、取り組み全体から複雑さを取り除いて、まず初めに開発した部分の成果をすぐに獲得し、かつ後続の計画を柔軟に見直すことができます。さらにいえば、メンバーがある一時期に集中すべき対象物を明確にすることで、コミュニケーションを円滑にする効果もあります。この考え方が、特にソフトウェア開発では主流になりつつあります。そして、この考え方は、ソフトウェアでなくても使えるのではないかといろいろな人が考えるようになりました。その例を幾つかご紹介します。

 例えば営業の世界です。ロシアの住宅建材会社では、アジャイル開発方法論の「ある機能をチームみんなで開発する」という考え方を、「ある成果をチームみんなで何か創出する」と読み替えて、これを営業に適用しました。アジャイル開発のソフトウェアの開発期間にスプリントという言葉があって、一つの機能を開発する目安になる期間を指します。このスプリントを、営業チームの成果達成の目安として置きます。例えば1週間のスプリントが置かれると、月曜日にはその週に行わなければならない目標にチームみんなが合意します。そして、合意した活動をそれぞれが行い、金曜日には振り返りを行います。アジャイル開発に携わったことがある人は、スクラムのスプリントの考え方そのものだと気付かれると思います。

 営業の世界は、個人の営業成績に重きが置かれて、目標だけ割り当てられたらその達成は個人に任されるということが当たり前でした。この会社では、ある決められた期間内にみんなで協力しながら、あくまでも大切なのは個人目標の達成ではなくチームの目標の達成だという考え方で、目標をきちんと決めて物事を進めていきます。ちなみに、この住宅建材会社は約1年間の活動で、この考え方を徐々に全営業チームに適用していった結果、全社の売り上げが3倍にもなったそうです。

 次の例は調達業務です。皆さんは調達というと、調達要求を誰か担当者が取りまとめて、いわゆるRFP(提案依頼書)を書いて、それをベンダーに渡して文書で回答をもらって、契約交渉のやりとりがあってというイメージを持つと思います。今回紹介するのはリーン・アジャイル・プロキュアメントと言われている手法ですが、それとは全く違うやり方をとります。

 まず、発注者側が関係者全員を会議室に集めます。今回の発注においてどういう要求があるのかを、全部議論して決めていきます。関係者は、例えばITだったらユーザーやエンジニアだけではなくて、契約担当者や購買担当者も含まれます。そこに参加していない人には発言権がないという世界です。それで要求を決めた後、次はその会議の場にベンダーを呼んできます。ベンダーも提案に関係する人が契約の担当者も含めて全員集められます。

 2日間会議室にみんなで集まって缶詰になって、提案内容をベンダーからただ受けるわけではなく、一緒に議論しながら作っていって、2日間の中で一定の方向性に関して合意します。このケースはCKWというスイスの会社の例なのですが、3社のベンダーがいたので、2日間のセッションを3回行います。3回やるので、三つ分の合意ができます。その合意内容から、最後にどのベンダーを選ぶかを決めるというやり方です。

 その議論を活性化するために、Lean Procurement Canvasといわれるボードが活用されています。文書を何度もやりとりさせる現状の一般的な調達方法と違って、とにかくその場にみんなを集めて対話をして、その内容をどんどんボードに書いていきます。ですから、会議室にホワイトボードがあって、付箋紙が山のようにあります。短時間に集中した議論で合意まで持っていくので、リードタイムが短い。通常のRFP作成は文書を中心に作業を行います。文書を書き起こしてやりとりをするのでものすごく時間がかかるし、煩雑です。文書は意外と言いたいことを全て書き表せなかったり、些末なところで表現の議論になってしまい、本質的なところから外れたりします。しかし、その場で議論することによって、お互いに伝えたいこと、聞きたいことを短時間でスムーズに聞き取ることができます。

 このセッションを行った結果、ユーザー側もベンダー側もすごく評判が良かったそうです。選定されなかったベンダーも、自分たちが言いたいことを全部伝えることができた、もしくは聞きたかったことを全部聞くことができたということで、とても評判が良かったそうです。これなどは、アジャイル開発でいうところの、文書よりも対話を重視したコミュニケーションを行うという原則に沿ったやり方です。

 さらに次の例として、予算管理の領域にアジャイルの考え方を適用する考え方を紹介します。これは結構古い論点で、20年以上前から議論されています。多くの会社では、予算管理は1年単位で行われます。1年の中で決めた予算は、ある種すごく硬直的で、「本当はこういうことをやりたい」と言っても予算修正の手続きが非常に面倒だったり、逆に予算を決めたから、予算の使い切りのような無駄な行動に出たり、決めた予算に行動が制約されます。

 そうなるなら、そもそも予算策定のサイクルを、例えば四半期とか、せめて半期というふうに短くしてしまえばいいのではないかということです。これは予算の見通しを置く期間を短くするということではありません。見通し自体は5四半期先、6四半期先までアイテムを置いておくのですが、近くなった予算のアイテムからきちんと議論して、次の四半期で行うことをしっかり決めます。この四半期でやらなくてもいい、次の四半期でいいものは次に回したり、以前置いたけれども、もうやらなくていいものは消したりして、機動的に予算を修正していくやり方です。これに関しては、ヨーロッパ中心に活動しているBeyond Budget Instituteという、ヨーロッパの大企業が集ったサークルでずっとこういった議論がされています。

上から下りてくる戦略計画の危うさ

 ここまでアジャイル開発方法論の非ソフトウェア分野への適用の例を紹介しました。続いてこれにとどまらない広義のビジネスアジリティの考え方を紹介します。今の時代においては、かつてのように経営者や経営企画部門が戦略をしっかり立案して、あとは現場によろしくというやり方は通用しにくくなっています。企業の経営や事業戦略の運営においても、小さな取り組みをまず起案して、とにかくやってみて、その結果上がってくるデータや反応を見ながら、戦略を機動的に修正していくアプローチが広がっています。

 こうなると、頭でっかちでは駄目です。考えることと実行することが一体化されていて、さらに実行されたものを素早く反省して見直すことも含めて全部戦略運営なのです。これが今の事業創造の現場なので、かつてのように上位者からプランが降ってきて現場が実行するというやり方は、特に今のデジタルの時代にはなかなか成り立ち得なくなっています。だとすれば、いかにこういうことを実現する組織を作り上げるかということが、企業にとってものすごく大きなテーマとなっています。

 この時、つまり新しいサービスのアイデアが生まれたり、実験的な取り組みを経て大きく育ちそうなサービスや製品が生まれたりしたときに、特に大企業では大きな組織の内部構造をどうやって素早く変化させていくかが非常に問題になります。

 例えば、これまで製品を売り切りでしか売っていなかった企業が、サブスクリプションモデルでお客様が自社のさまざまな製品を取り換えながら使えるようなビジネスモデルを実現したいと思ったとしましょう。ビジネスモデルの設計が終わって、次に問題になるのは、今動いている現場のオペレーションをさまざまなところで変化させなければいけないということです。

 例えば、生産工程は今のままでいいかもしれませんが、物流は大きく変わるし、コンタクトセンターも大きく変わります。それから、管理会計の考え方も変えなくてはいけません。変わるところもあれば変わらないところもあるときに、皆さんの会社は自社にどういった機能やプロセスの領域があって、その中でどのポイントにどんな変化を加えたらその戦略が実現できるのかということを素早く立案する能力はあるでしょうか。このあたりがいわゆる要求工学、エンタープライズアーキテクチャーやビジネスアナリシスと呼ばれる学問領域になります。

 今の企業構造はとても複雑です。そこで動いているシステムもすごくたくさんあって、データ構造もすごく複雑になっています。そのどこかを変化させなければならないのですが、実はオペレーションの現場ではそういった企業のエンタープライズアーキテクチャーが見えなくなってしまっているのです。

 30年前は全て人が業務を実行していて、かつコミュニケーションもフェイス・トゥ・フェイスだったので、誰が何を知っているかというのがよく分かっていたし、例えば、業務の論理、さまざまなルールや手順も担当者に聞けば分かりました。ところが、今は業務の担当者が自分の業務を説明できません。

 ボタンを押せば、よく分からないけれどもシステムが情報を集めてきて帳票を吐き出してくれます。帳票を出すことはできますが、その帳票がどう作られているかは、その帳票を作っている担当者ですら分かりません。分かるとすれば、その情報システムを設計した人です。でも、その設計した人はベンダーの人で、そのベンダーにはもういないといった話が、冗談ではなくさまざまな会社で起きています。いかに新事業を創造していくかの足元で、実は自分たちの会社のオペレーションをきちんと説明する能力自体が失われつつあるような状況が起きているのです。

 これに対する回答としては、例えば要求管理をしっかり行ったり、プロセスマイニングでシステム内のデータの流れをしっかり可視化したり、いろいろな議論はされていますが、残念ながら問題意識として高まっているかというとあまりそうなっていません。自分の担当業務を説明できるのは当たり前のことだと思うかもしれませんが、今は全く当たり前ではないのです。私はビジネス・プロセス・マネジメントなどの研修講師をやっていますが、参加者の方に「業務フローを書くなど、自分の仕事を理解するためのテクニックを会社の教育として何か受けた方はどのぐらいいますか」と聞くと、30人ぐらい参加者がいたとしても、下手をすると誰の手も挙がりません。挙がったとしても1、2人です。多くの場合は、システム開発絡みの業務をしている方か、比較的多いのは金融系です。多くの会社では実は足元の業務をしっかり理解する訓練もされていなかったりします。

 全体的にこれまでの企業は、足元の業務をしっかり回すための教育しか行ってきませんでした。オペレーションそのものと、そのオペレーションをする人員を管理するところが教育の主な観点だったのです。これからの従業員は単にオペレーションを滞りなく実行するというだけでなく、自社の業務の構造管理を行うこと、そして場合によっては新しい変革を創造するという役割を担うことになります。それは時に新事業の創造だったり、既存ビジネスの強化だったりするのですが、その変化に対して適応させていく教育は、これからの企業の大きな課題になってくるのではないかと思います。

 ビジネスアジリティは、今の時代に必要とされる経営の要素の総体のようなものです。新規事業創造はもちろん、エンタープライズアーキテクチャーの運営、組織と人を適応型に変化させていく取り組み、これら全てがある意味ビジネスアジリティであり、ビジネスアジリティの姿は各社それぞれだという捉え方もできると思います。

ビジネスアジリティの三つのポイント

 このように考えていくとビジネスアジリティは範囲が広すぎて、結局なんだか分からなくもなってきます。しかし、どのような領域の取り組みであってもそこにはいくつかの共通項があります。まとめとして、この共通項となる三つのポイントをお話ししたいと思います。ビジネスアジリティを実践する上でのポイントは、「小さく素早くはじめ、大きく育てる」「サイロを越えてネットワークで連携する」「個人とチームが自律的に判断して、行動する」です。

 アジリティの根底にある一つの共通要素は、小さく素早く始めて、見通しを修正しながら大きく育てることなのです。大きなプランを立ててそのまま実行するのではありません。まず小さく初めてみて、その中の学びをフィードバックしながら大きく育てるのです。先ほど飯野さんが「リーンとは決して小さな取り組みをすることではない」とおっしゃっていて、まさにそこが大切で、初めは小さく、でも大きく育てるための方法論なのです。この根底にあるのはアジャイル開発から来たMVPの考え方だと思います。これがまず全ての根底にある一つ目の要素です。

 もう一つは、組織のありようが変わるということを石井先生がおっしゃっていました。企業は何といっても、生産なら生産、企画なら企画という機能別組織がとても多いのですが、ビジネスを小さくすぐに始めるとなると、小さくてもさまざまな専門性を一つのチームに結集させなければなりません。新製品のテスト販売をしたいとなれば、企画する人だけでなく、テスト品を作る生産側やそれを外に出していくマーケティングなど、さまざまな人がいます。チームは小さくても、異なる専門性が一つになって機能しないとMVPを作れないのです。

 これは他のところでも同じです。無人店舗の実験を始めた通販会社があるのですが、それまで物流や商品企画などに分かれていたのが、無人店舗を作ろうとなったら、店舗設計の人、商品企画の人、物流の人、エンジニア、そこから上がってくるデータをどう処理するかという観点でデータマーケティングや会計の人がみんな集まって議論しないと、たった一つのテスト店舗が作れないのです。

 そうなると、これまでのように、私は○○部門の人というサイロではなくて、ある取り組みがあったときには、それぞれの専門家が集まってすぐにチームを作れるような機動力がものすごく大事になります。結果的に機能別組織からプロジェクトチーム型の組織になっていて、しかも組織がそのときのプロジェクトによってどんどん入れ替わっていくような世界です。ですから、下手をすると組織図がとても書きづらい組織運営になると思います。

 そこに集まっているのはそれぞれ専門性が違う人たちなので、専門性を軸にした評価など成り立ちません。大切なのはチームの目標達成であり、それが最大の評価指標としてあり、それぞれの専門性を活かしてそれにどれだけ貢献できたかということが、非常に大事になります。

 こういった世界観では、自分の専門性を盾にして協力しないことはあり得ません。例えば、情報セキュリティの専門家が「それはセキュリティルール上、駄目なものは駄目だから、あとは君たちで考えて」というのは許されないのです。そこのチームにセキュリティの専門家として入っている以上、セキュリティのルールとして絶対外してはいけないところはここだけれども、そのビジョン、そのビジネスを成り立たせるためには、ここが許容範囲だとか、こういう考え方ならいけるという、チームの目標達成に自分の専門的知見を活かして貢献する姿勢が求められます。

 ですから、「私は言いたいことだけ言います」という評論家姿勢は絶対に許されません。当然のことながらハレーションも起きます。そうなったときに、お互いの専門性、それぞれ背負って立っているものが違うことを理解して、お互いに対して敬意を持つことが当然必要になります。このあたりの人事的な考え方が大きく変わってきます。この「サイロを越えてネットワークで連携する」のが二つ目の要素です。

 三つ目に、そういったさまざまな専門家が集まったプロジェクトチームがどんどん機動的に動いていくと、これまでのような階層型組織の考え方では組織的な運営がかなり難しくなります。それぞれの現場が、それぞれの現場で機動的に動くと、管理職とは何する人ぞという世界になります。いわゆるティール組織のような考え方です。

 そうなると、上位者から指示や命令が下りてきて、下位者はそれに従うような構造ではなくなります。基本的に、各プロジェクトチームが自分たちで自分たちのありようを考え、自由に動きます。では、経営者は何をするかというと、構成員たちが自由に、しかしある種の規律を持って動ける環境を作ることになります。組織全体として絶対にやってはいけないことは何かとか、いろいろなことをやっているけれども最終的に目指しているゴールは何なのかというビジョンや組織の運営原則を提示したり、さまざまなプロジェクトチーム間で発生する利害を調整するようなファシリテーターのような役割になります。トップが上にいて下が従うのではなく、現場が最前線で動いているのをマネジメントが支援するような組織構造になっていくと思います。

 その個々のチームに集まっている人たちは、高い自律性が必要になります。自分で考えて自分で行動するというのは、決して自分勝手にやっていいということではなく、さまざまな人への敬意を持ちながら、組織のみんなが共有しているビジョンに対して自分がどう貢献していくかを考えながら、自分でやることを想起できる。そのような自律性をすべての人とチームが獲得している組織こそが、ビジネスアジリティの高い組織なのです。


[1] 要求工学:工学設計プロセスで要件を定義、文書化、および維持するプロセス。

[2] エンタープライズアーキテクチャー:構成要素、それらの構成要素の外的に見える特性、及びそれらの間の関係を含む、事業構造の全体的なデザイン。

[3] AT&T(American Telephone & Telegraph Company):情報通信・メディア系を中心とするアメリカ合衆国の多国籍コングロマリットの持株会社。米国最大手の電話会社であるAT&T地域電話会社およびAT&Tコミュニケーションズとメディア企業のワーナーメディアを傘下に収める。子会社を通じて、固定電話、携帯電話、インターネット接続、データ通信、情報通信システムに係るビジネスソリューションの提供、IP放送、衛星テレビ、ケーブルテレビ、テレビ番組の製作・配信、映画の製作・配給、出版、デジタル・ターゲッティッド広告等の事業を行う。

[4] チャプター11:米国における代表的な再建型の倒産法制である「米連邦破産法11条」のこと。日本の民事再生法に相当する。

[5] 競争優位の終焉:リタ・マグレイス(著)、鬼澤 忍(訳)2014年 日本経済新聞出版社

[6] ダイナミックケイパビリティ:カリフォルニア大学バークレー校のデイヴィッド・J・ティース氏によって提唱された戦略経営論で、環境や状況が激しく変化する中で、企業がその変化に対応して自己を変革する能力と言われている。

[7] ホラクラシー(Holacracy):分散型の管理と組織統治の方法で、管理階層に帰属せず、自己組織化チームの全体を通して権限と意思決定を分散させる。

 

パネルディスカッション

<パネリスト> 飯野 将人氏、山本 政樹氏、石井 淳蔵

 

 

<司会>栗木 契
(神戸大学大学院経営学研究科 教授)

 

栗木 それでは、パネルディスカッションに入ります。まず私の方から質問をさせていただき、続いて参加者の方からの質問を取り上げていきます。

 さて近年は、エフェクチュエーションやアジャイルなどへの関心が高まっているとはいえ、企業の現場はなかなか変わらない、変われないという声も聞きます。お二人は、俊敏なアプローチへの阻害要因をどのように見ておられますか。

飯野 例えば、私の経験で言うと、B to Bというのは、このアプローチでやりづらいところが非常にあります。というのも、B to Cではインタビュースキルやデプスインタビュー[i]を駆使することでコンシューマーの深層心理をある程度探ることは可能ですが、これがB to Bになった瞬間に、まさに先ほどのプロキュアメント[ii]ではありませんが、お得意さんの企業の部長などが本当に欲しているものを言語化できないことがとても多いのです。

 今までのお得意さんが、いわゆる世の中のトレンドの半歩先をちゃんとつかもうとしているアーリーアダプターではないケースが結構あって、B to Bの方がこういうものをつかんでいくのは本当に難しいと思っています。

栗木 顧客に適応するのではなく、顧客を創造する姿勢が必要になるのですね。

山本 一昨日もシェアードサービスの会社で研修をしていたのですが、シェアードサービスは、グループ会社の担当者から言われた「これをやって欲しい」をそのまま唯々諾々と受けるような構図がよくあります。でもこれは、グループ全体から見るとものすごく非効率で、全体としてはむしろ無駄を生んでいるようなことが少なくありません。

 そうならないためには、どういう機能の分担の中で、どういう経営を実現したいのかというビジョンを持っていなければ駄目なのです。そこを理解した人が担当者に、「おまえがシェアードサービスに依頼している内容はそもそも違うぞ」と誰かが言ってあげなければいけない。でも、このレベルのビジョンをきちんと持てている会社はすごく少ないです。残念ながら、下手をすると経営レベルでもきちんとした世界観を持てていないケースもあります。そうなると実は事業者側が、相手が本当にやるべきなのはどこなのかというカスタマーインサイトではなくて、どちらかというとプロダクトアウト的に「私があなたたちだったらこう思います」というものを出していかなければいけないということもあります。その意味で共創は決してお客さま優位な世界でもなく、ある意味対等だと思います。

参加者Z 私の所属企業では、社内でも常に新しいものを生み出そうという議論はしていて、新規事業を推進する部門もあるのですが、実際に開発リソースは既存の事業にほぼ充てられていて、新しいことをしようとすると既存事業の合間を縫って検討することしかできないような状況がずっと続いています。クリステンセン氏の『イノベーションのジレンマ[iii]』も読みましたが、やはり新規と既存はきっちり分けて運営しないとうまくいかないという話もあります。今日のお話の内容もそのようなことになるのでしょうか。それとも、両立させるようなことについて何かポイントになることがあれば、ご助言を頂ければと思います。

山本 これに関しては、分離した方がいいというクリステンセンの考え方と、どちらかというと既存リソースとのつなぎが大事になるから内部でやった方がいいという「両利きの経営」の考え方の側に分かれると思うのですが、本質的にはその事業をつくるために必要なケイパビリティをどうやって集めるかという話なのだと思っています。その実態は結局、人と人とのネットワークをつなぐ、コミュニティをつくることだと思っていて、岩盤層だらけで既存の枠組みの中でつくろうとしてもつくれないというか、せっかくそういう人があちこちにいるのに、所属している部門の論理にブロックされてしまうようであれば、抜き出した方がいいと思います。

 でも、本来であれば、何らかの既存のケイパビリティの中に変化点を加えていかないと、最後のところでは事業があまりスケールしなかったり、本来使えるリソースをきちんと使い切れなくて無駄なことをやってしまったりすることは当然あるわけで、本当であれば「両利きの経営」が言うように、今ある機能を活かしていくのも手だとは思います。結局、どちらに振れるかは、どちらが近道かという話にしかならないと思っています。

 あまりに足並みが重いようであれば、クリステンセン流に外に出した方がいいのでしょうけど、そのときよくある問題として、組織だけは別にしたけれども結局働きかける先が既存の組織の内部であれば状況は変わらないということです。多くの会社のDX推進部門で起きているのはそれなのです。組織だけ出したけど、結局変えなければいけないのは既存の各部門だから、むしろ部門が外になってしまったことでコミュニケーションが取りにくくなって仕方がないということがたくさん起きます。ですから、組織論はそれ自体では問題解決しなくて、どうやって人のモチベーションを喚起し、ネットワークをつないで、必要なケイパビリティと意志を集めるかということになってしまいます。

 もしスピンアウトさせるのであれば、いっそ既存のリソースは全く期待せずに、無駄だと思っていてもそこに何かのリソースを再投資するぐらいの勢いが必要だったり、その辺で多分、世の中の取り組みがどっちつかずになっていることが非常に多いのだろうとすごく思います。自社の文化を考えたときに、どうやって意志と能力を1か所に集めるかというところから逆算することが大切です。

石井 先ほどの自由闊達に関してお話ししたいことがあります。梅田の阪急百貨店に、カルビーのとてつもなく高いポテトチップスを売っている「グランカルビー」があります。こんなものが売れるのかと社長にも聞いたことがありますが、売れているらしいです。この店を出したのは、鹿児島工場の人です。鹿児島工場で操業度が落ちたから何とかしなければいけないとその人は考えたのでしょう。それまでのカルビーなら、例えば、九州支店長に「稼働率を上げるための新製品か何かをこちらへ回してくれ」という話になって、そこからさらに九州支店長は東京本社の商品開発部に行って、「何かいい商品を鹿児島に頼めないか」という話になるのでしょうけど、その人はそのようなまどろっこしいことはせずに、大阪へ出てきて阪急の担当者と会いました。

 普通、「何しに来たんだ」と関西営業本部の担当が言ったり、あるいは商品企画部門が「それはあなたの仕事ではなく、あなたは工場の操業度を上げることが仕事でしょう」と言ったりすると思うのですが、カルビーは、そういう組織をつくっていません。要するに、誰と組んでも構わないのです。組織の上に企画書を上げるよりも、お客さんに企画書を持っていった方が早いというのは、この話なのです。

飯野 この問いは永遠の問いで、私があちこちの会社で同じような質問をされたときにお伝えしているのは、新規事業の部門はある種の出島として必要ですが、新規事業の部門のメンバーにアイディエーションからしろというのは愚の骨頂です。先ほどの山本さんの話にもあったと思いますが、アイデアは縦割りの組織から出てくるものではなくて、巨大企業であればどこかにゲリラ的に存在しているはずだし、その人たちが声を上げやすい社風が必要です。やりたい人がやりたいように、同時多発的にあちこちから声を上げることが大事だと思います。

 アイディエーションや試行錯誤の入り口までは、それぞれの所属部署でやるしかなくて、これを「机の下活動」のようにやれと言うと大抵は既存事業のプレッシャーにつぶされてしまいます。私が拝見していると、うまくいっているところは、10%とか20%という副業的な時間の制度を持っています。それは英語を勉強しても何してもいいのだけれども、例えば私がお手伝いしている三菱地所などは、10%の時間は本業をしてはいけないのです。本業ではないことをしてもいいのではなくて、毎年の人事考課のときに、この10%の時間に何をしたかというのを聞いて、それが本業と同じだったら駄目なのです。そういうプレッシャーをかけられている中で、新規事業に手を挙げる人が出てきました。

参加者S  マザーハウスの創業者の山口絵理子さんは、大きな構想を描くことよりも、今年一年何をするかという本当に目の前にあることを決めながらやっていき、それを続けたら大きな道筋がだんだん見えてきたという話をしておられます。そう考えると、まさに今の時代は大きな戦略よりもそういう目の前のことをどう続けていくかが非常に重要なのではないかと今日のお話を聞いて思いました。先生方はどう考えられているのか、お聞きできればと思います。

飯野 全くおっしゃるとおりで、エフェクチュエーションという理論が示しているのはまさにそこです。何か大きな世界地図を持つのではなく、向こう三軒両隣のことだけを見て、一瞬一瞬を生きることだと私は解釈しています。その局面、今日を生きることの連続の中で、実はいつの間にか高みに上っているということを言っているのだと思います。

 実はそういうものの考え方をファイナンスでも活かせないかと考えています。私はバックグラウンドがファイナンスなので、ファイナンスでやりたいと思いますが、いわゆるディスカウントキャッシュフロー的なものの考え方はコーザルなわけです。将来価値から戻して今を考えています。それよりも、いわゆるリアルオプションなどといわれるようなオプションバリューはすごくエフェクチュアルなものの考え方だと思っていて、宝くじをたくさん持っている事業体が実は価値が高いというものの考え方に行けないのかということで、今、私は文章を書いています。大きな宝くじを一つ持つのではなく、小さい宝くじを何種類も持っている状態が、企業経営として求められると思っています。

山本 キープウォーキングはすごく大切だと思います。わが社は、グループ会社を除いてエル・ティー・エス単体だけで300人ぐらいのメンバーがいますが、実は平均年齢が30歳ぐらいで、主力が20代です。幸いにして、例えば、RPA(ロボティック・プロセス・オートメーション)に関しては市場に結構早く乗れましたし、AI、データ分析のようなサービスも比較的速やかに今のデジタルの流れに乗れています。

 RPAは、海外のカンファレンスに送ったメンバーが「RPAが、何か面白そうなので片っ端からツールを調べたら、こんなことが分かりました」と報告にきたので、「それを外でしゃべってみる?」とカンファレンスに送り出しました。すごく緊張していましたが、初めての講演の場でしゃべったら、結構反響がありました。AIなどもそうで、やる気のあるメンバーが「やりたい」と言うから、放っておいたという感じです。放っておきつつ、その人がそれをやり続けることができる環境だけは意識して維持しています。

 さまざまな方法論はありますが、基本的にこの世界のベースは、やりたいかどうかがまず大前提だと思うのです。情熱を持っているかどうかであり、情熱があったときにそれをきちんとやり続けられる意志を、本人がまず持っていることも重要だし、その環境を周りがつくることも重要だということになってはじめて、いろいろな組織論などが出てくると思っています。ともすると、このビジネスアジリティの世界は、企業が生き残るためにこれをせねばならぬというコミュニケーションになりますが、本当は何をやりたいのかというシンプルな世界だと思います。

参加者S そう考えると、今までマーケティングを顧客視点でやってきて、今の時代になったら逆に一人の思い込みの方が実はヒット商品を生んだり、いろいろなことをしていくのかなと最近非常に感じています。マーケットを見てしまうとどうしてもマーケットに振り回されますが、最近の事業は本人がやりたいとか誰かの思い込みがあってうまくいっている事例をたくさん見ます。サバが大好きだからといってSABARを始めた右田さんのような事例の方が、今の時代には合っているのかなと最近ちょっと感じています。

山本 イチゼロではないなと常に思っています。白黒、イチゼロ、○×ではなくて、さまざまなところからさまざまなアイデアが生まれて、それが自分発でも他人発でも何でもいいのだけれども、そのアイデアが生まれたときにさまざまな前向きな意志を持つ人がそこに集って、そこに対話が生まれて、対話の中からアイデアが膨らんでいくような場をどうつくるかであって、究極的には誰発のアイデアでもいいという世界なのだと思います。そう考えるとカスタマーインサイト、プロダクトアウトといった言葉は何かむしろ視野を狭めているような気がして、私は気になっています。

石井 今の一連のやり取りを聞きながら、何か足りないものがあるように思いました。たとえば阪急グループでは、「清く正しく美しく」を今でも守っています。電車の内装や宣伝の仕方、やっている事業を見ても阪急らしく、阪急らしい百貨店をつくっておられます。それが肝心だと私は思います。

 カルビーと組んでどのような店をつくるのかといったときに、その話だけを見ると、鹿児島から来た人とうまくつくったなという話になるのですが、そこではカルビーはカルビーらしさを活かしていると思っているし、阪急百貨店がこれは阪急百貨店らしい店なのだと思っているだろうし、そこのところは企業側にとって大切で、これがなくなってしまうとあちこちで何をやっても構わないという話になります。らしさというのは、ブランドというのか、伝統というのか、必要ではないのかなと思いました。

栗木 それでは、パネルディスカッションは以上とさせていただきます。

 「今、なぜ」ということで言うと、コロナの中で変化が絶えず、第6波は来るのかどうかも予測がつかない状況に私たちは置かれているわけですが、マーケティングのみならず、俊敏な動きの必要性は一段と高まっていて、起業家的な行動が私たちに求められていると思います。本日は貴重なお時間を皆さまからいただき、このディスカッションの場を持てたことを大変うれしく思っています。飯野様、山本様、石井先生には貴重なお話をいただきありがとうございました。皆さまも、長時間のご参加ありがとうございました。


[i] デプスインタビュー:定性調査の手法の一つで、対象者とモデレーターが“1対1”でインタビューする調査手法。

[ii] プロキュアメント:製造・販売に必要なあらゆる資材や人員などを調達し整備する業務。

[iii] イノベーションのジレンマ(増補改訂版):クレイトン・クリステンセン(著)、 玉田 俊平太(監修)、 伊豆原 弓 (翻訳)2001年 翔泳社

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