第105回 ワークショップ
働きがいを
「数字」・「長い目」・「広い視野」で問い直す
講演
1.「実態調査から見る『働きがい』の現実」
辰巳 哲子氏(リクルートワークス研究所 主任研究員)
2.「組織行動研究は『働きがい』について何を語っているか?」
森永 雄太氏(武蔵大学経済学部経営学科 教授)
3.「ポップカルチャーから見る日本の『働きがい』」
上野山 達哉氏(大阪府立大学大学院経済学研究科 教授)
パネルディスカッション
<パネリスト>
辰巳 哲子氏、森永 雄太氏、上野山 達哉氏
鈴木 竜太(神戸大学大学院経営学研究科 教授)
<モデレーター>
服部 泰宏(神戸大学大学院経営学研究科 准教授)
司 会:服部 泰宏
コーディネータ:鈴木 竜太・服部 泰宏
イントロダクション
服部 泰宏
(神戸大学大学院経営学研究科 准教授)
神戸大学の服部と申します。本日、進行役を担当いたします。
今回のセッションは、「働きがいを『数字』・『長い目』・『広い視野』で問い直す」をテーマに、「働きがい」という問題をいろいろな角度から相対化し、見直してみようということがねらいです。例えば、就活において求職者に「企業を選ぶ理由」についてアンケートをすると「働きがい」が常に上位にあがり、逆に転職理由としては「働きがいがないから」が上位にあがります。つまり「働きがい」は、高ければ高いほど良いものであり、それがモチベーションにつながり、最終的には成果にもつながるということが、素朴に理解されてきたように思います。
他方で、例えば私の場合、「研究の仕事に働きがいがあるか」と問われたら、「働きがいがある」と間違いなく答えると思いますが、その「働きがい」故に、ついつい長時間仕事をしたり、週末も仕事に費やしたりして、疲労が蓄積し週明けの生産性を落としてしまうことがしばしばあります。同様のことが、ビジネスパーソンの皆さんにも起こっているのではないでしょうか。
そう考えていくと、私たちは「働きがい」を絶対的に良いものだと仮定して、「どうしたら働きがいを高められるか」と素朴に問うだけではなく、もう少し複雑な問いを立てる必要があるのかもしれません。今日は、このようなことを考えてみようと思います。
端的な結論が出るようなテーマではないと思いますが、少なくとも、どのような問題があり得るかくらいは、最終的に提示できればと思います。
講演1「実態調査から見る『働きがい』の現実

辰巳 哲子氏
(リクルートワークス研究所 主任研究員)
「働きがい」をめぐる実態調査
私はリクルートワークス研究所で、大人の学び、キャリア、キャリア教育、働くことの意味についての研究を行っています。2020年には「『働く×生き生き』を科学する」という研究をしました。「生き生き働く」という言葉自体が、働き方改革や健康経営の中で何の疑問もなく目標にされているところがあって、そもそも「生き生き働く」とはどういうことかを明らかにしたいと思いこの研究プロジェクトに参加していました。
プロジェクトの中で行った取材や分析結果、報告書についてはウェブ上でご覧いただけます。そこでは、「生き生き働く」という問題が、心理学や経営学だけでなく、社会学・経済学・哲学・人類学・宗教などの分野でどのように捉えられているのかを、専門家の方にお話を伺っています。
1万人を対象とした調査の定量的な分析をしたり、全国1600人の方に「生き生き働くとは、どういうことですか」「あなたが考える生き生き働く人は、どんな人ですか」など、全て自由記述で回答いただく調査も行いました。また、Googleの人事部に「従業員が生き生き働くためのマネジメント」という観点でお話を伺ったり、アメリカのウェルビーイング研究に関わったキャロル・リフ氏にわれわれの全データを見てもらい、結果についての意見をいただきました。
この研究の最後には、専門分野の異なる11人の研究者が、プロジェクトの過程で得られたデータを二次的に分析する研究会に集い、「生き生き働く」や「ウェルビーイング」について再分析し、ディスカッションペーパーにまとめました。こちらもウェブで公開しているのでご覧いただけます。本日はこの中から、働きがいについて3本の論文を基にご報告します。
人々が捉える「働きがい」の多様性:5つの成分の発見
「働きがいのある状態とは何か」に関して、まず考えてみたいと思います。働きがいがある状態を「働くことに、個人としての意味があり、それが達成(充足)された状態」ととりあえず定義した上で、この言葉を人々がどのように捉えているかということをデータオリエンテッドに検討しています。

調査の中では、「生き生き働く状態について表現する単語を五つあげてください」と質問しています。上位10項目には「やりがい」「元気」「いきがい」「健康」「楽しい」「はつらつ」「充実」「笑顔」などがあがりましたが、上位10位までの単語で全体の25%にしかならないことが、まず驚きでした。回答が1件しかなかった単語も多数存在しました。人々が考える「働きがい」のイメージというのは、これほど多様なのです。
この多様さについてさらに考えるために、阿久津聡・中山真孝・宮林隆吉による『現代日本社会における「生き生き働く」の意味: 定量的テキスト分析による検討』を見てみましょう。ここでは、「生き生き働く」ことに共通してみられる成分を抽出しています。「単語ベクトル」と言われる、単語間の距離情報をもとに意味を推定する方法を用いています。回答にあがった「元気」「いきがい」「健康」といった単語をもとに、それらを要約するような主成分を抽出した分析です。
まず見られたのが、「内的報酬」「外的報酬」という成分です。「笑顔」「元気」など、いわゆる内的な報酬に関連するもの、反対に、「給与」「所得」「利益」「収入」「地位」「転職」など金銭的/非金銭的報酬に関連するものです。人々はまず、内的あるいは外的報酬と関連付けて「生き生き働く」を捉えていると言えます。
次に「心理的ウェルビーイング」「身体的ウェルビーイング」の成分です。前者に関連するのは「ドキドキ」「ワクワク」「楽しい」「感動」といったポジティブな感情表現、後者に関連するのが「健康」「健やか」「長寿」などです。「働きがい」が心身の健康と密接に関連していることを表す結果と言えます。
この二つは調査をしなくてもある程度予想ができた内容かもしれませんが、それ以外のものは、私は意外に思いました。まず三つ目の成分は、「安定的ウェルビーイング」と「身軽さ」です。前者は「健康」「活力」「やりがい」「生きがい」など、先ほど見てきた身体的部分と精神的部分の両方を含む言葉に関連しています。他方で後者には、「サクッと」「軽快」「ぱっと」「後ろを向かない」といった言葉が関連しています。活動量の高さに関わる成分と解釈され、「安定的ウェルビーイング」と「身軽さ」というふうにラベルをつけています。
四つ目の成分は、「企業戦士」「ワークライフバランス」です。前者には「信念」「決意」「努力」「責任」などの言葉が、後者には「プライベートの充実」「アットホーム」などが関わっています。不断の努力と決意に基づく実行力、反対に、企業へのコミットをほどほどにしてワークライフバランスを重視することに、「働きがい」が関わっているようです。
五つ目の成分は、「活力・達成」と「安寧・知足」です。前者は「活力」や「達成」など何かを成し遂げたり、創造したりすることに関連する言葉、後者は「心配なし」「無理なく」「家族で食事」など、安寧であることに満足するような言葉が、それぞれ関わっています。それは「人々は、人並みであること、ほどほどであることに幸福を見出す」という、幸福研究の成果とも一致しているように思います。
このように「生き生き働く」状態というのは、決して「生き生き働けている」と「生き生き働けていない」が相反するという単一次元の問題ではなく、少なくとも、第1成分から第5成分までが複雑に関連しあって、人々の中にあると言えそうです。自分が達成された状態、生き生き働いている状態を言葉にできるのは、結局自分だけではないかと私たちは理解しています。
「有意味感」と「働きがい」
先に「働きがいがある状態=生き生き働く」状態を、「働くことに、個人としての意味があり、それが達成(充足)された状態」と定義しましたが、個人として意味のある「有意味感」との関連においてどのような関係性が見えているのかというのが、次の話題になります。
この課題については、久米功一による『一生懸命に働く、意味のない仕事をすることの構造と動因に関する探索的分析』を見てみましょう。ここでは、「個人としての意味がある」という実感を規定する要因について回帰分析によって検討しています。1万人を対象とした調査の結果、統計的にいくつかの要因が有意味感に有意に影響していることがわかりました。

具体的には「仕事は自己実現のための手段」「自分にしかできない役割がある」「他者と協働する」「仕事の進め方を自分で決める」「自分で一から仕事を創る」といった項目で、「自己」「自分」「自分で」といったことに関わる要因が有意味感に影響しているという結果でした。 また、自らが従事している仕事を積極的に捉え直すことに関わるジョブ・クラフティング[1]スコアと「生き生き働く」の関係も『主観的仕事ウェルビーイングの規定因についての探索的検討』の中で検討しています。ジョブ・クラフティングスコアの低群と高群に分けて、どのような言葉を「生き生き働く」と捉えているのかを分析した結果、ジョブ・クラフティングを積極的に行っていない群は「給与」「報酬」「人間関係」など外的報酬を重視し、どちらかというと他者主導型の「働きがい」と捉えている人であることがわかりました。一方、ジョブ・クラフティングを積極的に行っているのは、「前向き」「取り組む」「忙しい」「認める」など、自己主導型の「働きがい」と捉えている人であるようです。
「働きがい」を見出しにくい仕事があるという現実
もう一つ、「私の仕事は世の中に対して何の意味も持たない」と回答した人の多くが、生き生き働く状態について「特にない」「分からない」と答えていました。働きがいや生き生き働くことについて語るためには、自らの仕事経験を振り返る必要がありますが、世の中にはそもそも働く意味を実感することが難しい仕事、意味を見出すことが難しい仕事があるということです。近年話題の言葉で例えれば、「ブルシット・ジョブ」[2]のようなものが現実にあることを、示唆する結果ではないでしょうか。
働きがいが人から押し付けられたものであるとき、何が起こるかということについても分析をしています。興味深いのは、仮に「働きがいがある」と実感していても、それが人から押しつけられたものである場合には、生き生きを実感することができず、健康に対してマイナスの影響すらあるということが分析結果に示されています。
調査から見えてきたこと
以上、これまで見てきたことから、今後検討が必要だと考えていることを共有させていただきたいと思います。
第1に、生き生き働いている状態、満たされた状態が多様であるということ、にもかかわらず、これが一義的に捉えられているという問題です。私自身もリーダーであり、マネジメントもしますが、メンバーが「ワークライフバランスを重視したい」とか「多くを求めないので、一般の人が生き生き働いている状態と同程度にストレスや負担なく働きたい」と言ったときに、そのメンバーに対して「そんなこと言わないで、もうちょっと頑張って」と言っている部分もあると思います。それぞれの生き生き働く状態が異なるのに、それを強制しがちな状態をどのように考えていけばいいのでしょうか。
ここで重要になるのが、働きがいは非常に複雑で、他者が定義できるようなものではないため、自分自身にとっての働きがいを言語化していかないと、自分が生き生き働ける状態を把握することができない可能性があるということです。「これが働きがいである」と企業側から一律で与えられるものではなく、自分の手で獲得していくような形で実現しなければ、本当の意味でそれをつかむことはできないのです。
日本では、これまで長らく置かれた環境に合わせるように働いてきた状態が続いていたので、そうした環境の中で自分の働きがいを考えること自体、なかなか行われていなかったのではないかと思います。今回のコロナ禍で、ワークとライフの組み合わせが普段より意識的に考えられるようになった今こそ、「自分が生き生き働ける状態」を考える時なのかもしれません。
第2に、そもそも意味に乏しい仕事経験しかしていない場合、働きがいを考える機会そのものが奪われてしまう可能性があるということです。そのような仕事に従事している人たちが、自分だけの働きがいをつかむにはどうすればいいのかは、重要な課題であると考えています。
[1] ジョブ・クラフティング(job crafting):Wrzesniewski & Duttonが2001年に「個人が職務または仕事に関連する境界に加える物理的および認知的変化」と定義した。仕事の取り組み方を見直し、自分の強みを発見することで、仕事の中に主体的にやりがいを見出していく考え方
[2] ブルシット・ジョブ:デヴィッド・グレーバー(著)、酒井隆史・芳賀達彦・森田和樹(訳)「ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論」 岩波書店 2020
講演2「組織行動研究は『働きがい』について何を語っているか?」

森永 雄太氏
(武蔵大学経済学部経営学科 教授)
「働きがい」の問題との接点
私は、神戸大学の経営学研究科に在籍当時、働く個人のモチベーションの研究をしていました。従業員自身が、どのように自分のやる気を引き出したり生み出したりしているのかという「個人の自己調整」の観点に注目して博士論文を書きました。その重要なキーコンセプトが、ジョブ・クラフティングでした。自らが従事している仕事を積極的に捉え直すことに関わるコンセプトに注目していたという意味では、働きがいや生き生き働くことに、最初から興味を持っていたといえます。
その後、東京の大学で教えるようになり、企業の人事課題により近いところに関心を持つようになりました。これだけいろいろな経営学の研究があって、従業員が生き生きとやる気を持って働けることを追求しているわけですが、現場ではやる気の問題が完全に解決されているようには思えない、という問題意識を持つようになったのです。今日は、昔からの関心に立ち戻って考えてみます。
「働きがい」をめぐる古典的な議論
組織行動論や経営管理論で、どのような働きがいの議論が行われてきたのでしょうか。ここでは古典的な議論だけでなく、21世紀に入ってからどのような議論が行われているのかという、やや新しい議論についてご紹介します。その中で働きがいをやや広めに捉えることで、働きがいの本当の意味を考え直してみようという研究知見も出てきているので、ご紹介できればと思っています。
経営管理論では、ハーズバーグの2要因理論[1]が非常に有名で、職務満足を高める要因と不満を高める要因は違うという話があります。職務満足には働きがいと働きやすさの2側面があることは長らく指摘されてきたと思います。
その中で、経営学の良いところでもあり悪いところでもあると指摘できるのは、職務満足を高める側の要因、いわゆる動機づけ要因の方に過度に注目してきたことです。先ほどの辰巳さんの話も大きく関わりますが、動機づけ要因である達成や仕事そのものの性質にフォーカスされ、精緻な検討が行われてきました。その一方で、金銭や物理的条件など不満を高める要因、ハーズバーグの言葉で言えば衛生要因については、驚くほど研究が少ないように思います。どのような仕事が従業員のやる気や「生き生き」を引き出すのかという、ポジティブサイドにもっぱら焦点を当てて、研究がなされてきたのです。
モチベーションに関わる古い研究の一つであり、今でも影響力の大きな研究が、ハックマン&オルダムの職務特性モデル[2]と呼ばれるものだと思います。これは「中心的仕事次元」と呼ばれる五つの特徴を想定し、これらがあると、人は仕事に対してやりがいを感じやすいということを主張するものです。一つ目はスキル多様性です。単一のことをずっと繰り返すのではなくて、いろいろな自分のスキルを活用することができるということです。二つ目のタスク同一性は、自分が何をしているのかという仕事の全体像が分かるような仕事の割り当てられ方をしているということです。三つ目のタスク重要性は、なくなってもいいような仕事ではなく、この仕事がないと人の命に関わるとか、社会が崩れてしまうことが認知できるということです。四つ目の自律性は、自己裁量のある仕事なのかどうか、五つ目のフィードバックは、自分のしたことがうまくいったかどうかがよく分かる仕事かどうかということです。これら五つの特徴のある仕事がいくつかの心理状態を引き出して、結果的にモチベーションや高い仕事成果に結び付いていく、というのが職務特性モデルの肝です。これも明らかに、「働きがい」の問題を捉えた研究と言えます。
「働きがい」をめぐる今日的な議論
しかし、ハーズバーグの研究は1959年の研究、ハックマン&オルダムは1975~1976年と、どちらも比較的古いことも事実です。そこで以下では、その後の研究について紹介したいと思います。
やりがいを捉える今日的な眼差しとしてご紹介したいのは、ワーク・エンゲージメントと内発的動機づけです。
まずご紹介するのが、仕事に対するエンゲージメントというコンセプトです。ヨーロッパを中心にかなり多くの研究があり、学術的に使われている考え方です。ワーク・エンゲージメントは、活力・熱意・没頭という3次元から構成され、仕事に対して生き生きと働いている状態のことだと言われています。これに相反するのがバーンアウトという状態です。そもそもワーク・エンゲージメントは、バーンアウト研究を発展する形で注目されてきたという経緯があります。
もう一つが内発的動機づけです。皆さんの中には、提唱者であるデシ先生[3]の研究をご存じの方もいらっしゃると思います。子どもがパズルに熱中して、面白いので休憩もせずにずっとやっているような状態が内発的動機づけです。やっていること自体に報酬があり、面白くてやっている状態のことをいいます。
この研究の中で、内発的動機づけには、私たちが持つ三つの欲求が関係していると指摘されています。
一つ目は、有能さへの欲求で、あまりにも自分ができないと思ってしまうと内発的動機づけには結び付かないということです。二つ目に、自律性への欲求。自律的に物事を進めたいという欲求が充足されていると、内発的動機づけが喚起されます。三つ目は、関係性への欲求です。周りとの良好な関係性が満たされることで内発的動機づけに結び付きます。この三つの欲求が同時に満たされる状態が良いと言われています。
デシ先生の内発的動機づけの研究は非常に有名な割に、意外と仕事の設計との関連で議論されることがあまりなくて、この三つの欲求が大事だとして、それらを充足するような職務設計をどのように行えばよいかというような議論は、実はあまり行われていない現実があります。
ワーク・エンゲージメント研究も、内発的動機づけ研究も、科学的な手続きを経て尺度が構成され、やりがいを規定するような要因を実証的に、あるいは実験を通じて明らかにする緻密な研究はたくさんあって、ある意味では非常に精緻な知見をもたらしてきたと言えると思います。
「働きがい=良いもの」を超えて
一方で、「やりがい」とか「働きがい」の問題が本来内包している機微を削ぎ落として、みんなが緩やかに共有するような一部分だけの議論になってしまった面もあるかもしれません。先のハーズバーグのところで指摘した、金銭や物理的条件などが議論の後景に退いてしまったという問題なども、その一例と言えそうです。「やりがい」や「働きがい」のポジティブな側面に関心が集中してきたことで、これらのダークサイドとして「やりがい搾取」のような問題がありうるといったことが、私たちの視野の中に入ってこなかった面があるかもしれません。
今日のテーマは、働きがいを広い目で改めて捉え直してみようというものですから、今ご紹介したようなワーク・エンゲージメントや内発的モチベーションというコンセプトを使いながら、「働きがい=良いもの」というステレオタイプから少し離れることを示唆した研究・知見を紹介したいと思います。
ワーク・エンゲージメントや自己決定理論における内発的動機づけの研究は、いずれも基本的に経営学の世界では、そのような状態にあると仕事に対してポジティブな影響を与え、成果に結び付くと考えられ、蓄積されてきました。ただ、改めて今回のテーマに関連付けて研究知見を見つめ直してみると、ネガティブな側面について示唆した研究も少ないながらも、トップジャーナルの中に見つけることができます。
私がヒアリングしていた過去のデータと併せて、最近の研究をご紹介します。私は、元々、生き生きと働いている人に興味があったので、「お宅の会社でジョブ・クラフティングのようなことをしながら自分で仕事をつくったり、面白い企画を取り込んだりして、生き生きと働いている人を紹介してください。また、その上司の人も紹介してください」というふうに、働く個人とその上司のペアのヒアリングをしていたことがあります。今日ご紹介するのは、上司を対象に、生き生きと働けている人のデメリット、あるいは生き生き働いている人ですら課題を抱えているとしたら、それはどういうことかということをヒアリングしたデータです。
一つ目は、ASさんの事例です。「生き生き働いているのは良い。自分の理想を目指して一生懸命やってくれる。ただ、時間を惜しまずにやるので、こちらの管理が疎かになっているときには過重労働になっていて、残業時間が多過ぎることがある。このようなところに少し気を付けなくてはいけない」とおっしゃっていました。あるいは、「つい自分で全部やってしまい、部下や若手に仕事を振るのがおろそかになっていることもある」ともおっしゃっています。本人は「別にいい」と思ってやっていますが、組織的には管理上の問題があることが示唆されています。仕事生活と家庭生活の二つで時間を区切ったときに、仕事生活に熱中するとどうしても家庭生活への影響がある。これは今まで十分に考えてこなかった面だと思います。
欧米でもハルベスレベンらの2009年の研究(Halbesleben, Harvey & Bolino,2009)で、仕事熱心でワーク・エンゲージメントを高くして取り組むことによって、仕事と家庭生活のコンフリクトが高くなってしまうことが明らかにされています。ワーク・エンゲージメントが高いと、つい周りの人の話を聞いたり、相談に乗ったりして、役割外の行動についても熱心にやってしまうので、業務が多くなるし、心配してしまうなどの負担もそれだけ大きくなります。そうすることで仕事への干渉や時間的な問題、本人の疲労の問題も含めていくつかの次元で、コンフリクトを高めるような悪影響が出てきます。
さらに、誠実な人、きちんとやる人ほど役割外行動がコンフリクトにつながる、すなわち真面目な人ほどそうした悪影響に結び付くことが示唆されます。熱心で真面目にやっていることが、ある意味では私生活への悪影響に結び付いていく研究が21世紀に入ってしばらくしてから出てきました。
同じようなことは関西大学の細見先生らの研究(2020)でも示されています。先ほどワーク・エンゲージメントには三つの次元があるとご紹介しましたが、その三つ目である「没頭」という次元のみが、ネガティブな波及効果に結び付くことがデータから実証されています。家庭生活に十分取り組めていないといった認知につながることで、仕事に没頭することが必ずしも家庭生活の充実につながらないケースもあるという危険性を示唆する研究もあります。
二つ目の事例は、BSさんです。上司の方は、「やることは頑張っているけれども偏りがある」と指摘していました。理系的・論理的な考え方が好きな方で、それを仕事に持ち込んで熱心に職場に展開している非常に能動的な方でしたが、好きなことだけに能動性を発揮するという面がありました。仕事や職場に浸透させていくためには、周りの人の気持ちを理解するなど情緒的なものを伴わなければならないのですが、そこを本人が軽視しているので、少し軌道修正したいし、そのようなことも勉強してほしいとフィードバックしているとおっしゃっていました。例えば、パズルをやっている子どもの「好きだ」というエネルギーは非常に大きいけれど、それは他方で、好きなことだけにエネルギーが向けられてしまうという側面も当然あります。そのようなことを職場内で少し緩和させていかないと、成果や周りの人からの理解に結び付かない面もあるといえるのではないかと思います。
「やりがい」だけで十分か?
やりがいや内発的動機づけに基づいて仕事をしているだけで本当に十分なのか、という視点に立った研究もあります。とりわけ有名なものの一つに、グラントらによる2011年の研究(Grant and Berry , 2011)があります。グラントたちは先行研究を丁寧にレビューする中で、「内発的動機づけが創造性を高める」というデシ由来の仮定を支持しない研究がある、という点に注目しました。内発的動機づけがある場合、その人は物事に好き好んで取り組んでいるわけだから、仮に失敗したとしてもいろいろと工夫を盛り込むことで、創造的になりうる。一見するとそう考えがちなのですが、本当にそのようなことが言えるのか。それだけでは成果に結び付かないのではないか。条件がもう一つ必要なのではないかと彼らは考えたのです。
そこで彼らが注目したのが、向社会的動機づけ(プロソーシャルモチベーション)というアイディアでした。プロソーシャル、つまり「社会や人の役に立ちたい」という動機を伴っている場合にのみ、内発的動機づけは創造性に結び付くのではないかと主張したのです。消防士は、水をかけるのが好きだからではなく、人の命を救いたい、人々の生活の安全を守りたいという気持ちで頑張っていると思います。このように、社会に対して役立ちたいという気持ちを伴うときには、相手の立場に立った発想の転換が起こり、創造性に結び付くということを実証しています。内発的動機づけがあれば何でもいい、組織においてみんなハッピーという話はやや短絡的すぎるということを示唆する研究だと言えます。
求められるのは「頑張りの使いよう」に関する議論
組織行動研究では生きがい・やりがいのいろいろな機微をそぎ落としながら、定量的な研究を中心に知見を提供してきました。もちろんそれだけではありませんが、そのようなことを強調してきたことは間違いないと思います。一方で、そこから50~60年経って、一部では頑張り過ぎる人や、やることが偏ってしまう人も出てきているという議論も生まれており、対応策が求められていると思います。単に「頑張らせる」ではなく、頑張りを方向づけることや頑張りをいかに持続させるかという管理技術、要するに、「頑張りの使いよう」がこれから議論するべきテーマとしてあると思います。
例えばアスリートの世界では、積極的に休養を取り入れることがかなり常識になってきていると思います。休み方についても考える必要があるのかもしれませんし、どちらに頑張っていくのか、関心を方向付けていくのか、社会のため、組織のため、お客さんのためにやりがいを感じるような結節点を見いだしていく取り組みも引き続き大事です。
結論めいたことは言いづらいのですが、人事の世界でもフェファー[4]は「人を大事にする会社は非常にいい。そして、人を活かすことが競争力に結び付く」と言っています。フェファーは最近、『ブラック職場があなたを殺す』という非常にドキッとするタイトルの著書を発表しており、その中で「採用や能力開発も大事だけれども、企業は改めて従業員の健康や安全の側面にも目を向けなければいけない」と言っています。やはり頑張らせて引き上げる取り組みだけでは不十分であり、持続のことを考えて、ボトムアップからのアプローチも大事だということを示唆しているのではないかと思います。やりがいの持続という観点も重視する必要があるということも、大きなポイントだと思います。
[1] ハーズバーグの二要因理論(動機付け・衛生理論):アメリカの心理学者、フレデリック・ハーズバーグが提唱した職務満足および職務不満足を引き起こす要因に関する理論。人間の仕事における満足度は、ある特定の要因が満たされると満足度が上がり、不足すると満足度が下がるということではなくて、「満足」に関わる要因(動機付け要因)と「不満足」に関わる要因(衛生要因)は別のものであるとする考え方。
[2] ハックマン&オルダムの職務特性モデル:心理学者J・リチャード・ハックマン(J. Richard Hackman)と経営学者グレッグ・R・オルダム(Greg R. Oldham)は、「仕事の特性」が人の「やる気」に関連すると考え、その研究内容を「職務特性モデル」(Job-Characteristics-Model)として理論化した。
[3] デシ先生:エドワード・L. デシ(Edward L. Deci)米国ローチェスター大学の心理学教授。動機付け理論の大家。「外発的動機付け」と「内発的動機づけ」の関係性を理論化した。自律的決定が動機付けに影響を与える「自己決定理論」を提唱した。著書:『人を伸ばす力―内発と自律のすすめ』(共著)新曜社 1999
[4] フェファー(Jeffrey Pfeffer):スタンフォード大学ビジネススクール教授(トーマス・D・ディー2世記念講座)。専門は組織行動学。1979年よりスタンフォード大学で教鞭をとる。ハーバード大学ビジネススクール、ロンドン・ビジネススクール、IESEなどで客員教授や講師を務めている。著書に『「権力」を握る人の法則』などがある。
講演3「ポップカルチャーから見る日本の『働きがい』」

上野山 達哉氏
(大阪府立大学大学院経済学研究科 教授)
「働きがい」を見る眼差しとしてのポップカルチャー
私も研究歴20年以上なのですが、ほぼ調査研究を中心にやってきました。いわゆる実証主義的なアプローチに基づいて、データはこう、分析はこう、仮説はこう、検証したらこうなったという形で研究発表してきました。今回はそれとは少し異なる形で、経営学という学問の外から経営学を見るために、マンガやポップカルチャーという文化的な媒体を使ってお話しします。
私が神戸大学の経営学研究科に在籍していたのが1995~2000年です。組織行動やキャリアの研究をずっとしていましたが、ここ数年は「コーリング(calling)」という概念の研究をしています。コーリングは日本語で「天職」という言葉が当てられることが多いのですが、われわれがなぜ働くのかということの答えを、何かとの結び付きに関連付けて考える仕事観・職業観を指す概念です。
コーリングという概念自体は仕事倫理に関わる概念ですが、最近は組織の倫理、事業の倫理などいろいろなエシックス(倫理)やモラル(道徳)の問題がある中で、それを組織行動的なアプローチで説明するような概念や基礎理論などに関心を持って研究しています。
鈴木竜太先生や甲南大学の北居明先生、関西学院大学の松本雄一先生と、今回お話しするサラリーマンマンガと日本人の仕事観・組織観の関連についてチームで研究しています。本日は、その研究の一部をお話しします。
今日の要旨は、主に三つあります。一つ目に、ポップカルチャー、特にマンガという媒体から、われわれが考える働きがいの何をどのように見たらいいのか、あるいはどのように見えてくるのかという点についてお話しします。
二つ目に、やはり文化というのは生ものなので、媒体における仕事観や組織観は短期間で一定のものの見方・枠組み・前提などが維持されつつ、長期的に徐々に変わっていくというダイナミズムを持っていると思いますが、どのような変遷を見せているかについて触れたいと思います。
三つ目に、特に働く人のマンガ、ここでは安野モヨコさんの『働きマン』という作品を題材にして、働きがいについてどのような捉え方がされているかをご説明したいと思います。
ポップカルチャーとしてのサラリーマンマンガ
まずポップカルチャー、大衆文化の媒体としてのサラリーマンマンガについてご説明します。マンガという媒体自体はそもそも、少年少女、特に少年マンガからスタートしたと言われています。なぜこれが青年を対象にした市場に変わっていったかというと、少年マンガを読んでいた人たちが成長し、青年になったことが一つです。もう一つは描き手側の話で、少年を対象にすると表現上の制約がいろいろあって、描写の中でやってはいけないことや、全国のPTAからクレームが来ることがあって、より自由な表現を求めて作家たちが青年誌に軸足を移していったという経緯があるようです。
マンガの中でも少年マンガが一番大きな市場ですが、それと並んで青年誌のマーケットが急成長して、その中の一ジャンルとして働く人、あるいは組織の中で働く人のサラリーマンマンガというジャンルが出てきました。その中では、仕事と主人公その他の個人との関わり、あるいは組織に対するものの見方が顕著な形で示されているとわれわれは考えています。
マンガは資料性を持つ文化的な媒体ですので、読者たちの共感や憧れによってマーケットが成立していると考えることができます。いろいろな感じ方、共感の仕方がありますが、まず一つはサラリーマンの日常、仕事の中の日常を描いて、「こういうことは自分にもある」という、「あるある」の側面を描くようなタイプのマンガがあります。もう一つは、自分が実現することは少し難しいけれども、「こういうふうに働きたい」「こういうふうに組織と向き合いたい」「こういうキャリアを実現したい」という理想や成長の方向性を示すようなマンガがあります。
文化は生ものですし、ポップカルチャーという非常に大きな市場の中で、いろいろなマンガが生まれては死んでいきます。文化のフィールド、文化的な媒体の市場全体の中では、どうしてもメインとサブがあります。メインは、その社会の中で支配的になっている仕事や組織観に通底する部分に前提が置かれたマンガが市場性を獲得していますが、それとは相反するような考え方、あるいはごく一部の人たちの共感を呼ぶような、いわゆるサブカル的なマンガが起こってきました。それがだんだん、プロダクトライフサイクルではないですけれども、市場として多くの読者を獲得するようになると、それがメイン的な立ち位置を示すようになります。
社会科学の手段としてのポップカルチャー
われわれが科学のアプローチで現実を抽象化する手法として、まず一つはモデル化があげられます。現実の中の要因、一般的に変数といいますが、変数という箱を作り、複数の変数の関係を調べる方法でモデルを作って検証します。これとこれは関係がある、これが原因でこれが結果だと考えられるという、因果関係です。あるいは、こういう段階の次にこういう段階が来て、こういう段階が次に来るというプロセスモデルもあります。因果であれ、プロセスであれ、偶然ではなく何らかの必然性があるような関係が成立していることを一生懸命検証しようとしています。
森永先生が紹介された職務特性モデルで想定されているのは、スキル多様性や自律性といった変数が内発的モチベーションを高める、という因果関係です。欲求階層説やそれを発展させたアルダファーのERG理論[1]というモデルの場合、最初は生存に必要な欲求が喚起されて、それが満たされると人間関係を満たしたいという欲求が来て、最後に自分が成長したいという欲求が来るというプロセスモデル的なものになります。この種の研究の場合、例えば、働きがいを持っており、それが好ましくない帰結をもたらしてしまった少数事例が現実にあったとしても、それはとるに足らない誤差や例外として片付けられてしまうことになります。
ところが、マンガを含むポップカルチャーの媒体は、このような因果モデルやプロセスモデル、それを検証する統計学の論理に縛られる必要がありません。例えば、統計学的には誤差として処理されるような因果関係やプロセスを取り出して、ストーリーにすることが可能です。働きがいを持っていたとしても、往々にして好ましくないような予期せぬ帰結を生んでしまったり、働きがいがあるばかりにジレンマに陥ったりすることをポップカルチャーは描くことができます。日常のありふれた経験、特に印象には残らないような経験を積み重ねて一つのストーリーを紡いでいくことができることも、この方法の魅力の一つです。基本的に仕事にやりがいを感じているような人であっても、それと相反していたり、無関係な出来事が日常にはたくさん起こっていたりするものです。それを拾い出して何かの話にしていくことが可能だということです。
「古典」に見られる「組織内キャリア=成功」の価値観
サラリーマンマンガという媒体の背後にある仕事観や組織観が、ある程度変化してきていることが、先行研究や文献でも指摘されています。真実一郎さんが『サラリーマン漫画の戦後史』という本を書かれていて、その指摘を非常に参考にしているのですが、真実さんは1950年代のサラリーマン小説で人気のあった源氏鶏太[2]という小説家の影響を指摘しています。
まず一つ目に、仕事や組織、あるいはそこで働く人に対して非常に楽観的・肯定的な見方をしているという特徴付けがあり、勧善懲悪によってストーリーが成立していることです。二つ目に、能力や努力よりも性格で成功に導くパターンが多いことです。真実さんはこれを「人柄主義」と名付けています。それから、家族主義といって組織の存在を非常に重く置いて、それが単なる組織ではなく、公私を交えた緊密な人間関係を含む擬似家族的な存在だということです。家族主義は組織のメンバーとの深いつながりが前提とされ、かつそれがサクセスストーリーに結び付いていきます。
日本のサラリーマンマンガの中で一番注目すべきなのは、『課長島耕作』という作品です。これが源氏鶏太の血を最も強く受け継いでいると真実さんは指摘しています。特に序盤に顕著なのですが、何の努力もしないで女性に非常にモテて、女性関係も含めていろいろな人間関係の助けがあって、特に努力することなくトラブルを解決していく様子が描かれています。そのようなことを繰り返していく中で、彼は課長から部長になり、役員になり、社長になり、今は相談役に出世していくというキャリアを保っています。
『なぜか笑介』という作品も、組織に対するロイヤリティが顕著なマンガです。いろいろなエピソードがありますが、彼が仕事上の失敗を忘れないために自社の広告看板に自分の名前を小さく右下に書いて、看板代1か月分の40万円を自腹で払ったというエピソードが出てきます。会社に対する貢献がものすごく重視されています。
文化的媒体における仕事観は、一様ではありません。『課長島耕作』や『なぜか笑介』とは違う考え方を提示したマンガの代表的なものとして『釣りバカ日誌』などがあります。総合的に見ると組織の中で良い関係を維持して成果を上げたり、最終的には出世していくようなトーンは、『釣りバカ日誌』の浜崎伝助も一緒です。昇進の話を何回も断りますが最終的には昇進を受けているのは、やはり組織の中でのキャリアがわれわれビジネスパーソンとしての成功を特徴づける有用な指標だという前提に立っていると言えます。
90年代以降の漫画に見られるサラリーマン像の多様化
これが古典的なサラリーマンマンガの見方だとすると、1990年代以降は異なる展開を見せてきていることが指摘されています。つまり、平均的なサラリーマン像を指摘することがなくなってきたということです。まず、職業的な多様性が生まれています。例えば、『重版出来!』のマンガ編集者、『健康で文化的な最低限度の生活』のケースワーカー、『バンビーノ!』の料理人など、いろいろな仕事のスペシャリスト、プロフェッショナルのマンガが出てきます。仕事観・組織観についても、家族主義的で組織に重きを置いたものではない『いいひと。』『サラリーマン金太郎』『ぼく、オタリーマン』といったマンガが出てきて、必ずしも組織のために一生懸命に滅私奉公する必要はなく、それに変わる見方を提示するようなマンガが出てきています。
『働きマン』が描き出す「働きがい」の呪縛と皮肉
今回ご紹介するのは、1990年代以降の流れに位置づけられる『働きマン』という作品です。安野モヨコさん作で、講談社の「モーニング」に2004年から連載されましたが、2008年から休載となり、現在に至ります。真実さんは「未完のパッチワーク」と表現しています。
『働きマン』は群像劇で、主人公は松方弘子という雑誌編集者の女性ですが、いろいろな仕事や組織にそれぞれの見方をする人物が描かれます。基本的にみんな仕事にやりがいを持っているのですが、何か予期せぬ結果を生んだり、ジレンマに陥ったりする状況が描かれています。
以下、具体的にエピソードベースでお話ししていきます。主人公の弘子は、雑誌編集にものすごい熱意を持って生き生きと働き、自分でも「働きマン」といって人の3倍の速さで仕事ができるスーパーウーマンです。自分が作りたい雑誌を作るために、早く雑誌編集長になりたいという目標を持って頑張っていますが、あまりにも仕事熱心なために、新二という恋人と会うこともままなりません。「今日、会えない」というメールが来ても、本当は会いたいのにあまりにも仕事に追われているので、逆に「よかった、これで眠れる」と寝てしまうようなエピソードが紹介されています。
あるとき、取材していく中でちょっと恐怖を感じるようなエピソードがあって、本当はそれを恋人の新二に話したいのですが、仕事とプライベートは分けたいと思っているので言えません。他方、新二も自分の仕事に「これでいいのかな?」と悩んでいるのですが、それを弘子に打ち明けられない。最終的に、仕事の悩みをプライベートに持ち込みたくないという相手を思う気遣いが、お互いに悪循環を生んでしまい、「俺たち、もう別れよう」ということになってしまうストーリーです。
二つ目に、働きがいと商業主義のジレンマとアイロニーにまつわる、弘子の行きつけのマッサージ店のセラピストである緑子のエピソードです。
緑子はマッサージにものすごくやりがいを感じていて、お客さんの体を単にほぐすだけでなく、体のいろいろなパーツを正しい位置に戻して、本来あるべき姿に戻すことに喜びを感じるタイプです。コリを取ってあげたいという緑子の思いが、本来の規定時間を超えてしまうことがあります。そのような緑子の仕事へのこだわりを、弘子はすごく喜んでいるのですが、きちんと時間を切ってやってほしいと思うお客さんもいるわけです。ある日、もう少しでコリが取れるというところで、緑子は急いでいるお客さんに時間超過していることを怒られてしまいます。そして、上司にも「きちんと時間を守ってやってほしい」と注意されました。自分のやりたい仕事がしたいということで店を辞めることになるのですが、次に行った先が以前ほど処遇のよくない職場であることが描かれています。
「働きがい」がもたらす視野狭窄
三つ目に、こだわりを持つことで視野が狭くなるというエピソードです。渚マユという新人編集者が、夏目美好という作家の担当になります。マユは夏目の大ファンで、夏目が今までどおりに小説を書けるよう、編集担当者として必死に振る舞います。今までのイメージや作風を守れるように奮闘し、そのために各者と調整するのですが、それが空回りしてしまいます。
あるとき、編集長の意向で異動が言い渡され、マユは他の作家担当になり、弘子が夏目の担当になります。弘子はマユと違い、夏目に思い切って作風を変えてみようと提案し、それが結果的に大反響を呼び、大ヒット作品を生みます。そうしたことが一通り起こった後で、夏目は自分が過去の仕事にとらわれていたことを実感し、それをマユに伝えます。「過去の仕事にとらわれすぎていたから」というセリフから、やりがいを持って意欲的に取り組んでいたことが、かえって柔軟性を失わせてしまうというエピソードでした。
他者の犠牲の上に成り立つ「働きがい」
最後のエピソードは、書籍の営業担当の千葉真が主人公です。千葉はドライに淡々と仕事をこなすタイプで、先ほど出てきた夏目の本の営業担当となり、弘子とも絡んできます。弘子が千葉に「この本を売りたいから頑張ってよ」と言うのですが、千葉はすごくドライです。実は4年前、好きな女性編集者が担当する本を売るために奔走しました。千葉は自分が奔走したから売れたと思っていたのですが、思いを寄せていた女性編集者は、「ライターさんと二人で頑張ったかいがあったかな」と、彼女は、ライターと二人三脚でこの本を売ったと思っていました。
実は陰に千葉のすごい努力があったのですが、そこに彼女の目が向けられていなかったことで千葉はショックを受け、殻にこもってしまいます。そういうことがあったので、夏目の書籍についても淡々と営業していたのですが、やがて思いに火がついて仕事に奔走し、夏目に感謝されるというストーリーになっています。これは女性編集者の視点になりますが、自分がやりがいを持っていても他の人の頑張りを捉えきれていない場合、結果的には人に悲しい思いをさせてしまうことがあり得るのではないかと思います。何らかの他者の犠牲や尽力によって自分のやりがいが成り立っていることを、われわれはしばしば忘れてしまうことがあります。
科学者がポップカルチャーに注目する意味
冒頭にコーリングという概念を研究していると申し上げましたが、コーリングの議論においても、影響の両義性について活発に議論されています。職業上の好ましい帰結や仕事・生活全般の幸福に寄与することに対して天職観という概念が使われている一方で、条件によってはいろいろな悪影響が発生することが指摘されているのです。
われわれは因果や臨界事象などの科学的手法で何らかの現象を測定し、命題を導出しようとしているのですが、それも一つの物語と考えた方がいいのだと思います。現実を抽象化しているということは、何らかを切り捨てている部分が当然あるわけで、ポップカルチャーに触れることでそれを思い出し、寄って立つ前提や捨象化しているものなど、われわれの記述にも物語性があることを自覚することができます。
文化は生ものなので、時代の空気を反映し、サブカルチャーからメインカルチャー的なメディアの展開があります。今は社畜マンガという会社に対して帰属しつつも、気持ちの上では冷めているような個人を描くマンガが出てきて、サブだったものが徐々にメインになっています。これが今の組織行動の研究で捉えられているかというと、やはり捉えられていない部分があると単純に思うので、そのような時代の空気をポップカルチャーから受け止めて、科学的なアプローチをしていけたら、その記述の展開に活用するような形で学ぶことができるのではないかと考えています。
[1] ERG理論:クレイトン・アルダーファー(Clayton Alderfer)によって提唱された概念。組織が経営され発展するのは、人間の主要な3つの欲が元となっている。
E:Existence 存在するということ(生存)
R:Relatedness 関わるということ(関係)
G:Growth 成長するということ(成長)
[2] 源氏鶏太(げんじ けいた):日本の小説家。本名、田中富雄。住友合資会社勤務の傍ら小説を書き始め、『英語屋さん』ほか2編で直木賞受賞。『三等重役』『停年退職』『天上大風』など、サラリーマン生活からの体験に基づいた小説で人気を博した。戦後の昭和を代表するベストセラー作家の一人。
パネルディスカッション
<パネリスト> 辰巳哲子氏、森永雄太氏、上野山達哉氏、鈴木竜太(神戸大学大学院経営学研究科 教授)
<司会/モデレーター> 服部泰宏
服部 ここからはパネル・ディスカッションです。ご講演いただいたお三方に加え、今回のワークショップを私と一緒に企画しました、鈴木竜太先生もパネリストに加わっていただき、進めていきたいと思います。
鈴木 神戸大学の鈴木です。働きがいについてさらに展開して皆さんと考えていけたらと思います。どうぞよろしくお願いします。
服部 まず、辰巳さんのお話の中に、「働きがいは本来すごく豊かな概念であるはずなのに、それが一義的に捉えられてしまっている」とありました。事実、データを見ていくと、個人は実は、いろいろなものを働きがいとして捉えていることがわかります。そう考えると、一義的に捉えられていることに加えて、そもそも働きがいについて語る言葉そのものが貧弱になっていて、経験そのものは豊かなのだけれども、言説になった途端に随分と陳腐なものになってしまうということが問題の本質なのかもしれません。辰巳さんご自身は、働きがいをどういう言葉で表現するか、お聞かせください。
「働きがい」を語る言葉の貧弱さ
辰巳 働きがいがある状態というのは、「働くことに、個人としての意味があり、それが達成(充足)された状態」なのだと思います。オンラインシステムのチャットに参加者のYさんから、「働きがいが多様化しているのはそのとおりだと思います。一方で社内では、自分の働きがいを具体的に言語化できる従業員は非常に少ないと思います」というご意見を頂きました。私もそうだと思っています。今日はご紹介できませんでしたが、「ご自身が生き生き働いているときは、どういうときですか」にあわせて、「周囲で生き生き働いている人たちは、どんな人ですか」という質問もしました。出てきた言葉を比較すると、「周囲で生き生き働いている人」についての方が、ものすごく豊かな表現が出てきました。人のことはよく見えるというのか、自分のことが見えていない、社内では言いにくいという問題はあるのではないかと思います。
これまでは、自分自身の働きがいを考える機会自体が少なかったと思うのです。そういうことを考えなくていい風土があったのかもしれません。コロナ禍で特にリモートワークが進んだことによって、例えば、コンピュータの分析を待つ間に、「じゃあ、洗濯機のボタンを押してくるか」とか、働くことと学ぶことや暮らすことの時間の組み合わせを自分でつくっていくときに、改めて自分のライフの中での「働くこと」とは、どういう位置づけなのかという議論が始まっているのではないかと思います。今回ご紹介したデータも事例の一つでしかないかもしれませんが、そういうものを見ながら、「では自分はどういう働きがいを大事にするのか」ということを、改めて考える機会をこれからつくっていく必要があるのだろうと私自身は思います。
服部 例えば、部下や若い人のことを考えるときに、組織としてできることには一体どんなことがあるのでしょうか。この点について、どのようなお考えを持っていらっしゃいますか。
辰巳 今は1on1ミーティングをしていらっしゃるところが非常に増えていると思うのですが、1on1の中で一人ひとり大事にしているものが違うという前提の中、何を大事に働いている人なのか、それが今の仕事の中でどういう形で発揮できているのかというやりとりをしないと、マネジメントを行うことが難しいのではないかと思っています。働きがいは思っていた以上に複雑なのだと思います。キーワードで見たときに、1人からしか回答がないものも多くあったことを考えると、それぞれで捉え方はとても複雑だし、自分で働きがいを手にしようと思ったときに、自分の口で説明できる人になっていかなければならないと私は強く思っています。逆に言えば、マネジメント側は、自分で表現できる環境をどうやってつくっていくかということしかできないのではないかと思います。
言語化の落とし穴、語りえぬものの大事さ
服部 部下の方々は、働きがいに関して豊かな経験を持ちうるのだけれども、それをうまく表現できないが故に、現実の経験の方も狭い範囲に押し込められてしまう面があると思います。これに似た問題として、「成長意欲」などがあると思います。教育者として、あるいは上司として、もしくは人事としてかもしれませんが、この問題にどう向き合えばよいのでしょうか。
鈴木 多様であるということだし、認識の問題であるとも思います。もちろん肉体的に悲鳴を上げるというのは別の問題としてあると思うし、ドーパミンが出てくるということもあると思います。しかし、われわれがコミュニケーションを取る際、言語化する上で気を付けなければならないのは、まさしく人にとって働きがいというのは、一つのものに規定されないことが十分あるということです。
人は欲張りなので、意味を欲しいという人もいるし、それなりの報酬も欲しいという人もいます。あるいは、良い関係の中で仕事をしたいし、家族も大事にできるような形で仕事が続けられたらと思ったりもします。そうしたことを複合的に考えて、「ここは働きがいのある場所だ」と思うのではないでしょうか。ですから、1on1でもいいのですが、やりとりをしていて、「彼の働きがいはここにある」という感じで本人もそう思ったままそうなってしまうのは、かえって危ないこともあるのではないかという気がします。
もう一つの問題として、今や自分で考えなければならないという問題になってきたのは間違いないと思いますし、それを伝えなくてはならないというのはあると思うのですが、一方で、やや逆説的だけど簡単には言語化できないような複雑なものでもあることは考えていく必要があると思いました。多分、概念化しよう、言語化しよう、あるいは論理的に捉えようというときに、捨象される部分が結構大事なのではないかと思います。同じように、マネジメントの中でそれを実行してしまうとやはり捨象するものが出てきてしまうので、それを忘れずに考えておくしかないのだと思います。
服部 そうですね。最近、採用のときに使う適性検査などがいろいろと開発されていますが、最近見たもので今日の話に関わっていると思ったのが、その人のやる気の源泉がどこにあるのか、何で燃える人なのかを探るアセスメントです。例えば、お金で燃える人なのかとか、モチベーションなのかといったことが、アセスメントによって言語化、数値化されるのです。源泉を探ることで、企業が提供するものと個人が求めているものの間のギャップを最小化しようという、開発者の意図はよくわかります。
怖いのは、これが双方を「わかった」気にさせてしまうことです。この人はお金が1位で、関係性が2位でというふうに定量化されてしまうところで、採用担当者や配属先の上司は、「この人はこのタイプなのね」となる。最先端の取り組みではありますが、多少の危険もはらんでいるように思います。
辰巳 もう一つ思ったのは、参加者のKさんからチャットに頂いている質問にもありますが、自分のキャリアの中でも働きがいが変わるフェーズがあるということだと思います。服部先生がおっしゃったように、「この人はこのタイプね」と申し送りされても、「いや、それは15年前に変わっています」ということは普通にある話です。だからこそ、節目に自分の働きがいを考えたり、半年に一回の面談で上司と共有したりすることが必要になっているのかもしれません。
服部 なるほど、施策的にも少しずつ出始めているのですね。紳士服のAOKIがかつて、ギアチェンジパッケージ制度というものを導入しています。それぞれのキャリアに応じて、トップギアで走るときもあれば、ローギアでゆっくり走りたいときもあるという前提に立って、本人の変化に柔軟に対応しながら、仕事の負荷や配属を考えていこうというものです。個人の多様性と変化を見据えた、新しい動きだなあと思った記憶があります。
「向社会的であること」と「向組織的であること」
服部 さて森永さんのところで、頑張らせる技術が持つ問題やダークサイドの話がありました。やりがいというものが二つの難しさをはらむかもしれなくて、一つは頑張り過ぎてしまうという量的な問題、もう一つはその努力が必ずしも向組織的、向社会的なものにならないという方向性の問題です。
例えば、向組織と向社会というのは、組織的だけれども向社会ではないとか、それ自体が矛盾することもあり得ます。こうした方向性に関して、例えばマネジメント側として何ができるのだろうか、何に気を付けなければいけないのかという点を、森永さんの観察や研究の中でアドバイスがあればお願いします。
森永 おっしゃるとおり二つあると思うのです。経営学の場合は、基本的に理念を浸透していくような取り組みを伝統的なテーマとして、組織と個人の融合というか、ベクトルをそろえることを熱心にやってきたと理解しています。それは変わらないにしても、一方で新たな課題として、組織が目指しているところは、やや揺らいでいると最近感じます。従来、この会社はこういった形で組織に貢献していく形でやってきたものが、21世紀になって変わってきたように思います。
例えば、環境への関心が高まってきたときに、既存のビジネスがちょっと怪しくなってくるというか、あまり社会から歓迎されないようなビジネスをしているときには方向性を何らかの形で変えていくことを求められている会社もあると感じています。そういう意味で、改めて組織と社会の結び付きを根本的に考えることも求められつつあると思いますし、会社全体としては社会との結び付きは理解しているにしても、その解釈を末端の若い人がなかなかうまくできないこともあると思います。管理者がそこを翻訳してあげるような作業が、もしかしたらより難しくなっている気がしています。そういう意味で、難しい時代というか、自然にできることではなくなってきている気がするのは、ご指摘のとおりだと思いました。
上野山 先ほど最後にご紹介したように、社畜マンガの潮流があって、表面上は残業したり、組織の指示に従順に従ったりするけれども、内心はすごく冷めているというか、自分のことを「社畜」と表現するタイプのジャンルが出てきています。われわれ世代のように経営学の中で「強い文化論」を学んだ人間からすると、異質というか、見た目だけ言うことを聞いておけばうまくいくという組織人としての生き方を提示していること自体、組織と個人の今までの関係の前提がちょっと変わってきているのではないかと感じたりします。つまり、組織が個人に対してよかれと思っていることと、個人が求めていることにどうしようもないズレがあるということが、社畜というジャンルが生まれる一つの帰結になっているようなイメージがあります。ですから、経営や組織行動の枠組みの中でどう考えていくかということは、とても重要だと思いました。
服部 上野山先生のいうコーリングのような欧米発信のキャリア感は、この辺をどのように考えているのでしょうか。つまり、神から賜った、その意味で社会や世界を志向した仕事という面と、他ならぬその仕事を与えてくれる雇用者を志向した労働という二重の問題がありそうです。この辺の関係はどのように議論されるのでしょうか。コーリング研究をご存じない方も結構おられると思うので、この辺についてちょっと解きほぐしていただければと思います。
上野山 コーリングの見方は個人ベースの考え方が強くて、例えば、組織に所属して何か仕事を与えられるような状況であっても、その状況が自分の人生の目標を実現するための手段として利用できるという感覚(手段性)があれば、好ましい職務態度に結び付くという実証研究があります。コーリングというのは、個人の意思決定能力を超えた力の存在が職業観に反映されていると考えますが、基盤のある個人を前提とするという意味で従来の枠組みと共通する部分があると感じています。
服部 なるほど。鈴木先生はいかがですか。
鈴木 一言で言うと、難しい問題だと思います。私はこのワークショップの企画者の一人ですが、ぜひここで皆さんと考えたいと思っていました。少なくとも私が思うのは、われわれがマネジメントをする上で、今や社会のことや生活のことを視野に入れていかなければならない時代に、間違いなくなってきているということです。以前であれば、会社が立ち現れているところだけ面倒を見ていればよかったのですが、その向こう側にあるものも気に留めなければなりません。端的にいえば、仕事で生き生きしているけれども家庭がめちゃくちゃになったときに、「それは会社が悪いわけではないよ。自分で何とかする問題だろう」と言えるかというと、そうでもないのではないかと感じ始めていると思うのです。
さらに議論を困惑させるのは、量的な問題でいえば反対の問題もあるのです。以前、大手の広告代理店で働き過ぎの問題があったと思います。それで、夜8時か9時に電気を全て消すことにして、強制的に労働時間をコントロールしようとしました。そこで起こったことの一つは、CMを作る人はクリエーターでもあるので、クリエーターとしてはやはり良いものを作りたいのです。寝食を忘れて良いものを作りたいと思うけれど、それを止められてしまったわけです。それは別の意味で、働きがいを奪われているということが起こっているかもしれません。それはマネジメント側も感じているのですが、そうはできないということもあり、私からすれば難しい時代になっているということぐらいしか言えない感じはします。みんなで考えていくしかないのではないかと思います。
辰巳 まさに私は企業内のワークス研究所という研究機関で働いているのですが、研究スキルが足りていない人たちについては、個人で勉強することを多く求めます。そうなったときに、土曜日や日曜日に本を読んだり、自分で勉強したりするような状況も出てきている中で、「土日は研究の勉強をしないでね」とキャップをかぶせるのは、やはり違うと思うのです。それは実際に私が日々すごく困っている部分です。一方で、アウトプットのスケジュールももちろんある中で、どうやって折り合いをつけていくのかというのは、私自身も困っているという共感しかお伝えできません。どのようにマネジメントしていけばいいのかというのはまさに困っているところでもあります。
「ブラック企業が働き過ぎをもたらす」言説を相対化する
服部 ここで参加者の加護野先生にご意見いただきます。
加護野 私は2002年10月2日にシリコンバレーへ出張中、ホテルで脳出血を起こして倒れました。もしあのまま死んでいたら過労死だったと思います。当時はとても多忙で、ヨーロッパからアメリカへの出張中に倒れてしまいました。そのとき、自分では、機中で身体も休めて身体的に楽だと思っていましたが、医者からは、「飛行機内でよく寝たと思っても、身体にはかなりストレスがたまっている」と言われました。
その経験から、過労死は外からの強制によってめちゃくちゃ働いたから起こるわけではない、と考えています。むしろ、内発的動機づけで働いているとき、それを外から止められることによって高まるストレスの方が、よほど危ないと思います。
ところが世の中で過労死の議論が行われるときに必ず出てくるのが、ブラック企業モデルです。要するに、「働かせ過ぎ、プレッシャーを与え過ぎたから、過労死に至った」というものです。私は大手広告代理店の件を見ていて、ブラック企業モデルでは過労死は起こらないのではないかと感じました。過労死がなぜ起こるのかというのをきちんと調査したら、過労死を防ぐために本当に必要な方法が分かるのではないか。「上司は圧力をかけるな」と言うだけでは、絶対に過労死はなくなりません。恐らく本人がやりたいと思って一生懸命やっているから過労死は起こるのですから、それを止めるためにはどうしたらいいかということです。
恐らくこの問題は、本人の内から止めないと駄目だと思うのです。それは(天の声によって働くという意味での)コーリングではなくて、(内なる声によって働くことを制限するという)逆コーリングです。恐らくこれ以上やると、自分自身におかしなことが起こるだけではなくて、周りの人々に大変な迷惑をかけてしまうということを、本人に早く理解させることが必要ではないかと思います。
結局、世の中はブラック企業を特定して、それを批判したらそれで安心してしまって、何もしないのです。しかし、そんなことで過労死はなくならないと私は思っています。本当に過労死をなくすためには何が必要なのかということを、ぜひ考えてほしいと思います。過労死が、ブラック企業モデルで説明されているのを一度きちんと再点検して、ブラック企業モデルではないことをきちんと明らかにすることによって、今後そういう問題が起こるのを防ぐことができると思います。
服部 加護野先生に論点を出していただいたので、森永さんに少しお話を聞いてみたいと思います。健康経営や心と体の健康の文脈で、加護野先生が言われたような、ある種の客観的な条件、つまり労働時間やアビューシブ(虐待的)なリーダーシップのような現実の環境と、もう少し内面的なもの、この辺はどのように扱われているのでしょうか。分かっていることがあれば、お願いします。
森永 私の講演の最後にフェファーの二つの著書をご紹介しました。二つ目の著書でフェファーが言っているのは、例えば、給料を払わないというような一部の非常に悪い会社があって、そこで何か大変なことが起こっているということだけではなく、コンサルタントやあるいは研究者もそうかもしれませんが、自分の出世や業績、良い仕事がしたいということに駆り立てられて、一生懸命仕事をしているような場合に、周囲との競争のために頑張り過ぎてしまう人がいる、そうした状況も含めた、ブラック職場の議論をしています。
フェファーが強調している要因の中で、日本企業で働く正社員にかかわる要因は四つあります。一つ目は、加護野先生がおっしゃったことと、やや反するかもしれませんが、長時間労働の問題です。二つ目は、ワーク・ファミリー・コンフリクトの問題です。これは今日も議論に出てきたところだと思います。三つ目は、自律性がない仕事、言われたとおりにやっておけばいいという仕事の問題です。四つ目は、周囲からのサポートがない、あるいは孤立という問題です。こういったものが悪影響を与える4大要素という形で紹介されています。分かりやすくいろいろな知見を総合すると、こういうところではないかとフェファーはまとめています。
鈴木 参加者のAさんがチャットで日本的経営の良さをコメントされていました。日本的経営の人事的な考え方があったときによく揶揄されるのは、組織のメンバーが取り替えのきく機械のように扱われているという点でした。だからわれわれは、働きがいという言葉がいいのか分かりませんが、自分の働く意味や会社での意味を考えて、「他の誰でもないあなた」ということを大事に考えてきたと思います。これが先ほど加護野先生がおっしゃったように、「私がいなくては回らない」とか「私がいないと困る人がいる」とか「やっぱりその仕事は自分の仕事だと思う」ということで、別の意味でオーバーワークをつくっていった面もあると思います。
非常に難しい問題ではあるのですが、私も「自分がいなくなっても別に何も困りはしないのではないか」と思うと、結構気楽に仕事ができます。でも一方で、そう思いたくないところもあるし、そうではないと思うと、「できる限りのことをしないと」ということになるのかなと思います。これはどちらがいいというわけでもないのですが、難しい問題をはらんでいると思います。
やりがいがあることは時間を費やしたくなるし、自分に意味があると思えば、他の人を患わせないで自分がやると背負うことになりますから、こういうことが過労につながると思います。このようなことは、真面目な人に起こりやすいのかもしれません。
加護野 過労死について世の中は結局、自分たちの説明原理で納得できる理由を探しているのだと思います。そうではなくて、本当の理由は何なのかというのを、ぜひ皆さんのような立場の人々に研究していただきたいと思います。
服部 最近、千野帽子さんの『人はなぜ物語を求めるか』という本を読みました。そこで書かれていたのは、私たちは身の回りのさまざまな現象、特に不思議であったり不可解であったりするような現象があると、そこに都合の良い物語をくっつけて納得する傾向がある、ということでした。厄介なのは、そうして付与される物語の中には、全くもって正しくないが、しかし、妙な説得力を持ってしまうものがあるということです。私たちには、それらしい物語に触れると「なるほど確かにそうだよね」と非常に短絡的な理解に陥ってしまう傾向があるのです。それが物語の魅力でもあり、怖さでもあると思います。その意味で、フェファーが、エビデンスをきちんと出しましょう、しっかり地に足の着いた研究や議論をしましょうと言い続けているのは、非常に納得がいきます。
呪縛や皮肉に対峙する
服部 パネル・ディスカッションの最後に、上野山先生に出していただいた論点について触れておきたいと思います。今回の参加者の中には、かなり若い方々もおられます。上野山先生が抽出された働きがいがもたらす呪縛や皮肉のようなものに直面している方も結構多いのではないかと思います。
私は先月、卒業生からある相談を受けました。彼は人の命を救うことをミッションとしている医療関係の会社で働いているのですが、「実際に仕事を初めてみると、確かに自分の仕事によって誰かを救っているという側面もあるが、他方で、自分がこうして頑張って医療品を売っていることが、本当に誰かの役に立っているのかと思うことがある。」と言うのです。例えば、営業先の病院にいる患者さんにとって明らかに他社製品の方が良い場合、彼自身の良心に従えば、極端に言えば自社製品を「売らない」という行動が正しい行動ということになる。もちろん、営業マンである彼としては、会社の成果を上げるためにそれを売らなければならない。ここに大いなる葛藤があるというのです。これはあくまで一つの例ですが、このようなキャリア上の葛藤に直面したとき、私たちはそれをどう切り抜けて行けばよいのでしょうか。かなりヘビーな質問ですが、キャリアの研究がどういう道筋を提示しているのか、教えていただければと思います。
上野山 私が大学院にいた頃、新人の研究をしていた中で、実感していたことです。例えば、50歳手前の私がイメージするやりがいを、20代で仕事に就いたばかりの人が持ち得るかというと、やはり難しいというのが正直なところです。いろいろなジレンマというか、理念や理想が掲げるものとビジネスの論理が、今回マンガでもご紹介しているように矛盾する側面があるのは当然で、そこを自分の中で解決していくプロセス自体は、5年、10年仕事を経験していく中で見えてくる部分があるので、少なくとも入社直後の人たちに「仕事のやりがいはありますか」と聞くこと自体がちょっとナンセンスというか、それよりも「よく寝られていますか」「生活はちゃんと回っていますか」と聞くことの方がよほど大事だと思います。最近は、この概念を年齢不問で適用していいのかというところに、そもそも疑問を感じています。
服部 なるほど。先ほど言語化の話がありましたが、就職指導やキャリア教育の文脈、さらには採用の文脈では、「働きがい」という言葉を前面に出して、しかも近年は、それを言語化しようという報告に向かいつつあるように思います。本当にうまくやらないと、これもまた、若い世代をミスリードすることになりかねませんね。
マンガに描かれるテーマの変遷と読者のコホート(属性)
服部 ここで参加者の皆さんからの質問に触れていこうと思います。
例えば、上野山先生が取り上げられたマンガのコンテンツそのものは、時代を反映しながら進んでいくわけですが、他方で読者の世代というのは固定されていて、1990年代生まれは永遠に1990年代生まれのままで生きていくことになります。読者の年齢層は今回の分析対象ではないのだと思いますが、この点についてどうお考えでしょうか。
上野山 私もこの共同研究を始めて、久しくマンガを読んでいなかったので笑介や島耕作を読み始めたのですが、しんどくて読めません。島耕作は、特に序盤で性的な描写がどぎつくて、しんどいです。笑介にしても、当たり前のように会社のためを思ってすることが、私の年代でもかなり違和感があるというのが正直なところです。出版当時は、多分違和感なく普通に読んでいたと思いますが、今、あの当時の感覚のままで読むことはできないと思います。
つまり、コホートに縛られるというよりもむしろ、われわれは意外と時代を反映して、見方を少しずつ変化させているように思います。やはり男尊女卑だなとか、組織優位だなとか、仕事一筋だなというのは多々感じられるところで、かつてならば自然に受け止めていた部分に今は違和感を覚えるのです。
「働きがい」問題と日本型経営
服部 先ほど鈴木先生が触れられた参加者Aさんがチャットで、日本的経営、日本型経営の文脈でコメントされています。結構大事な論点だと思いました。経営のスタイルとしての日本企業のやり方と、「働きがい」問題の関係性について触れてみたいと思います。
鈴木 2007年に私が『自律する組織人』という本を出したとき、当時は日本的経営のやり方が大きく動いた後でした。そのとき思ったのは、会社と個人の関係は日本的経営が万全なときには、少なくも多くの正社員の人たちは考える必要のない問題でしたが、今や考えなければならない問題になったということでした。同じように、働きがいが何であるのかということについて、それほど考えなくてもよかった、つまり、会社が言うとおりに働くこと自体が価値を生むものであり、それ自体が喜びに還元されるような時代だったと思うのです。
もちろんそれによって十分な報酬が返ってくる保証がある、安心安全を与えてくれる、変なことをしなければ定年を全うできて、企業年金とともに十分に老後を過ごせるという時代だったと思います。こればかりは私はそのとき働いていないので分からないのですが、そうではないかと思うところはあります。
では、今、その形にすればいいかというと、なかなか難しいでしょう。給与的な保証はあると思いますが、一方でいったんわれわれが「働きがい」や「やりがい」、「キャリア」は自分で考えるものだと捉えるようになってしまった以上、それをもう一度「会社に全部預けましょう」と言うわけにはいかないのではないかと思います。給与や福利厚生の部分では、十分な働きがいを提示することはできるかもしれませんが、今日やり玉に上がっている意義や意味のような部分は難しいと思います。
ただ、これを乗り越えようと考えている一つが、今でいうパーパス経営[1]や理念経営であり、社会への貢献を念頭に置いた企業は、そういうものに応えようとしている面があると思います。この会社で貢献していくことが、そのまま社会的価値につながるということをうたっているわけですから、そういう形で意義を与えて、それが安定的な自分の職業にもなっているのだろうと思います。
辰巳 福利厚生や勤務条件については、個人の働き方が多様になってくると同時に、どんな勤務環境であれば自分がよく働けるのかということについても、個人で考え始める状況になってきていると思っています。となると、会社側が提供する福利厚生の仕組みについても、働く環境をどのようにアレンジするかということについても、個人と会社とのやりとりの中で決まっていくような流れになっているのではないかと思うのです。どこの部分が日本型経営で、どこの部分がもう少し柔軟に変わっていかなければならないのかという議論が既に始まっているのではないかと個人的に思っています。
服部 先ほど上野山先生がおっしゃっていたように、若い人にそこを押し付けるのはなかなか厳しくて、個人の中でそういうものを明確にしたり、吸い取っていったりする必要があるのか。年齢などもありますし、個人差があるというのも話をややこしくしているのですが、考えるべき変数が結構多様であるということが見えてきます。
鈴木 賃金や福利厚生、転勤の有無などの条件は、比較可能なものです。だから、ある種の競争になりかねないというか、どちらの方が賃金を出すかということになりかねない面があって、それが悩ましいところだと思います。一方で、パーパスだけは選ぶもので、比較できるものではないので、より志の高い方の会社に行くということにはなりません。そういう意味では、比較可能な方を大事にしたくなるというのは分かるような気がします。本来はもちろん、志が大事だからということで選ばれるものだと思いますが、こればかりは選ばれるものなので、比較できないものです。
森永 私も改めて福利厚生や条件などを考え直す時期に来ているのではないかという考えを持っています。ただ、難しいと思うのは、例えば先ほど企業を辞めて、独立開業した方の例が出てきました。恐らく企業に所属して働いているときには、それほど会社から良いサポートを受けていると感じていなかったのではないかと思うのです。恐らく、古くからある多くの日本企業は、割と福利厚生に気を遣って提供してきたと思いますが、それがずれてきている部分もあるし、従業員から評価されていない部分もある。どう変えていくのかというのは難しいです。従業員側からすれば、それによってサポートされている、成長を支援してもらっている形になっていないので、そこを単純にまた福利厚生を豊かにするように戻すだけではなくて、どう擦り合わせていくのかという議論も必要だという気がします。
※当日は、このあとグループディスカッションを行いました。グループディスカッションの内容は、割愛させていただきます。
総括
服部 最後に、パネリストの先生方に、今日のテーマを巡って一言ずつお願いしたいと思います。
鈴木 素朴に思ったことを二つ話したいと思います。どちらも最後のディスカッションのところを聞きながら思ったことです。一つは、ちょっと極端な見方かもしれませんが、働きがいというのは外的報酬による働きがいもあるし、どちらかというと価値や意味などの内的報酬の働きがいに偏っているという話があったと思います。どこかでわれわれは両方を独り占めするのはよくないとみんな思っているのだろうという面があります。つまり、仕事としてやりがいもあってお金もたくさんもらえる場合もあれば、反対にやりがいもなくてお金も少ない場合もあるのはまずいというところがあるように思います。この辺をわれわれはどこかで不公平に思っている面があると思います。
実際に起こっているところでいうと、労働時間を評価するとなると、やりがいがあって一生懸命それに没頭するから給料もたくさんもらえるということに対し、肉体的にしんどいから1日数時間しか働けないとなると頑張っていないように見えるということなので、それはまずいのではないかと思いました。これは素朴な感想です。
二つ目は、先ほどグループディスカッションのときに思ったことですが、やりがいや働きがいを与えなくてはいけない、そうしたものをマネジメントしなくてはいけないと考えたときに、どちらかというと意義や意味の方を何とか返そうと考えているのです。ただ、今日議論していたように個人の問題の部分が結構あるのではないかということで、これを組織と個人のマッチングで解決しようとするとどうしても限界があるわけです。一人ひとりで考えるしかなくなってくるわけです。一方で、福利厚生や給与の部分は、まさしく企業が返せるわかりやすい働きがいだと思います。「あなたの仕事について、これだけのものが返せるよ」と言うことができるのですが、こちらの部分には、いろいろな理由から日本企業はあまり応えてこなかった面があります。
福利厚生や給与の部分は直接的に応えられるのに応えてこなくて、意義や意味の部分は直接には応えられないけど、何とか応えようと頑張っているところがあって、後者の方はもしかしたら何を与えられるかという問い自体が間違っていて、どうしたらそういうものを感じてもらえるかを考えていくと、もう少しアイディアが出てくるのではないかと思ったところです。
反対に福利厚生や給与の部分は、どうしたらこの条件で満足してもらえるかを考えるのではなくて、直接的に返すようなことも必要なのではないかと思いました。この問いがスイッチしているところが、もしかしたら、この10年、20年の間にいろいろな理由で起こってしまったか、あるいはわれわれは巧妙に入れ替えてきたのか、そういうことが起こっているのではないかと思います。
辰巳 今日お話ししたとおり、生き生き働くことがとても多様であって、この多様な「生き生き働く」を実現しようと思ったときに、個人はどうしていかなければならないのかということと同時に、企業側はどのような環境をつくっていけばいいのかという議論を進めてきました。今日、私も鈴木先生と同じグループに少し入らせていただいたのですが、「働きがいは極めて個人的なものですよね」という話があって、本当にそのとおりだなと思いました。
その一方で、途中で参加者Mさんからご意見を頂いたのですが、みんなが自分の働きがいを追求しようと思ったときに、例えば「この組織に異動してもあなたの働きがいは満たせませんよ」とか「こっちだったら満たせますよ」というような、異動調整の中にもその内容を反映することが理想なのかもしれないということをチャットに書かれていました。そういうやり方もあるかもしれないと思いつつ、個人の働きがいや仕事に対する意味づけが経験の中で変わっていくこともあるし、それをマッチングのタイミングでバランスを取るようにするのか、個人に猶予期間を設けた中で、やはり意味づけができないとか、働きがいを感じられなくなったときに、自分の働きがいを改めて考えるような政策を考えていくのかというのは、私自身もまだ答えが見えていないのですが、今後考えていく必要があるのだろうということに気づかされました。
森永 今日のテーマは、内的報酬に偏った生きがいや働きがい、「生き生き」というようなものに対して批判的に考えるというものだと思います。シンプルに考えると、「生き生き」が経営学の中で重視されるようになってきたこと自体は、ある意味では素朴な進歩の部分もあると思います。ほとんどそういうことは考えなくていいという時代から、そういったことを強調し過ぎたという新たな時代に移ってきたわけです。これから私はまだまだ研究をしていきますので、働きがいのうまい使い方をもう一歩深めていけるような研究をしていきたいと思います。まだこの領域もやるべきことはたくさんあるのだなと感じました。
私は、キャリアの真ん中ぐらいかなと考えているのですが、まだまだやることを増やしていただいたという印象を持ちました。ありがとうございました。
上野山 どうしてマンガを取り上げるのかというと、文化的な媒体を研究することで、われわれの何らかの考え方や前提がそこに表象されているはずだという理屈があるからです。例えば、今のマンガの中に働きがいそのものを否定するような作品が出てきているかというと、まだそうではないと思います。『働きマン』にしても、働きがい自体を否定しているのではないけれども、そこに付随するいろいろなものによって起こる問題があって、時代の変化にわれわれは個々にそれを吟味して、例えば、いくら仕事が楽しいからといって時間を忘れて没頭することが果たしていいことなのかという問いかけが出てくることはあると思います。
ただ、加護野先生のご指摘については、考えさせられる部分がありました。もしかしたら加護野先生の問いかけを本気で考えたら、働きがいをそもそも「是」とする考え方自体が問われているのではないかという気がします。文化研究の中で批判的なアプローチがあって、われわれの立っている前提を本当に根底から問い直すものがあるのですが、過労死の問題を突き詰めて考えていくと、もしかしたら働きがいそのものに問題があるのではないかということも今日は考え、まだまだ考えることは尽きないなと思うのです。私も、そういったことを一つひとつ考えていきたいと思っています。今日はありがとうございました。
服部 実は、事前に用意したディスカッションテーマで、あえて取り上げなかったものがあります。それは、「働きがいはこれだけ複雑な現象なのに、なぜ、こんなにも単純化されて捉えられてきたのか」というものです。これは今日のセッションそのものを貫く、ある種メタな問いです。この場で咀嚼するにはこの問いはあまりに大きいということで、これはここにおられる皆さんのこの後の内省に委ねたいと思います。
冒頭の辰巳さんの講演にあったように、実は働きがいはすごく多様なもので、少なくとも五つの軸が考えられる。その一つひとつをとっても、おそらく、人によって捉え方がだいぶん異なる可能性すらあるものばかりです。しかも、森永さんや上野山さんのご報告から、これがいろいろな逆説的な結果やネガティブ結果を引き起こしうるものであることもわかりました。つまり、必ずしもいいものではないということを、何となく理解しているにもかかわらず、これが就職論壇や採用論壇、あるいは現実のHR施策になった途端、なぜかすごくポジティブなものとして、すごく単純化された形で語られてしまう。というよりも、私たち自身がそういう言説のゲームに参加し、加担してしまっている。これは社会科学的にも結構面白い問いだと思います。是非とも、皆さんにも考えていただきたいと思います。
今日、4名の皆さんがいろいろな角度から切り込んでくださったことで、参加者の皆さんの中に「なるほど、それは一考に値するな」という思いが芽生えたのではないかと思います。
辰巳さん、森永さん、上野山さん、そして鈴木先生、本日はありがとうございました。ご参加いただいた皆さんも、本当にありがとうございました。
[1] パーパス経営:人の思いを中心とした「パーパス」という目に見えない資産が源泉。自分は何のために存在するのか、そして他者にとって価値のあることをしたいという信念を源泉とした経営。

