特集-15
15.これからの企業資料のあり方

  • 平野恭平 (神戸大学大学院経営学研究科 准教授)

8月17日寄稿

 新型コロナウイルスの感染拡大を防止するため、多くの企業では一時的にでも在宅勤務が試みられ、業務のあり方や働き方を見直すことになったと思われる。この期間に気になる新聞記事を目にした※1)。ビジネス文書での押印にまつわる慣行を見直す動きである。押印のためだけに出勤するのは論外として、在宅勤務時、押印を求められると、紙に書類を印刷して、押印して、それをスキャンして、メールで送るなどの手間がかかり、在宅での仕事の効率を下げることにもなりかねない。在宅勤務にとどまらず、各種申請や通常業務などでも押印の慣行を見直し、ペーパーレスや電子署名などに切り替え、利便性や効率性を改善していくことには、多くの人々が賛同するところであろう。ハンコを日本の文化であるという見解もあるが(個人的には賛同したいところではあるが…)、多くの働く人々には利便性や効率性が望まれるであろう。

 ここでは、経営史を専門とする研究者からの視点でこの問題を考えてみたい。押印の必要がなくなると、今以上に文書を紙に印刷する必要がなくなり、企業の業務で生じる文書が紙の形で残ることが減るように思われる。残された文書記録類を利用して研究しようとすると、これは将来的に障害になる可能性がある。実際、パソコンが日常業務に用いられることが当たり前になってきた1990年代以降、情報通信技術の進歩も相まって企業内の文書が紙で残されることは減る傾向にある。また、説明会や会議などでプレゼンテーション・ソフトの利用が広がると、紙の形で残る資料もスライドを印刷したものが増えてきた印象を受ける。こうした現状では、プレゼン資料・プレスリリース・社内報などを幅広く利用しつつ、業務に携わった方々へのヒアリングでしのぐことも経営史研究を行う上での選択肢の一つとなる。その一方で、電子媒体に記録されている文書が永久不滅かといえばそれも怪しい。使用していたファイル形式が読み取れなくなることもあれば、フロッピーディスクのように記録メディアが使われなくなることもあるし、CD-Rなどのプラスチックが劣化して破損することもある。クラウド上に保存しているデータが消えることもあり得るし、容量の問題から古いものが削除されてしまう可能性もある。

 コロナ禍を契機に、脱押印やペーパーレスが進む可能性はあるだろう。それによって在宅勤務が多少はやりやすくなり、業務のあり方や働き方も少しは変わるかもしれない。しかしながら、こうした利便性や効率性を追求する一方で、日々の業務で生じる文書をどのように残していくのかという点にも、少しでも気を配ってもらいたい。政府がコロナ対策をめぐる重要会議の議事録の作成を求めたように、過去の政策をめぐる意思決定の過程を残し、災禍に直面した際の政府や行政の対応について事後の検証に備え、将来的に似たような災禍に直面した際の教訓とすることも必要であろう※2)。これは、企業の経営をめぐっても同じことではないだろうか。経営戦略の策定、さまざまな管理のあり方、制度の効果などを後日検証したり、社史としてまとめたりする時に、資料は欠かせない。企業で専任のアーキビストを雇用することや社史室を常設することのハードルは高いかもしれないが、そういった視点をもって企業の業務で生じる資料をどのように残していくかについても考えてもらえればと思っている。

 

※1 「在宅勤務で脱ハンコ」『読売新聞』2020年5月20日
    「日本のハンコ文化岐路」『読売新聞』2020年7月1日

※2 「公文書「歴史的事態」指定検討」『読売新聞』2020年3月7日
    「専門家会議議事録作成へ」『読売新聞』2020年6月2日
      「コロナと公文書 後世の検証へ記録に残せ」『西日本新聞』2020年4月12日