第112回 ワークショップ
経営学と脳科学
MRI(Magnetic Resonance Imaging)を使ったら見えてくる将来
講演
1.日本的企業会計の脳神経会計学的解釈
山地 秀俊(神戸大学大学院経営学研究科 研究員)
2.人生100年時代の脳の健康とWell-beingの実現を目指して
山川 義徳氏(東京工業大学科学技術創成研究院 特定教授/
京都大学経営管理大学院 特命教授/
神戸大学産官学連携本部 客員教授)
質問会
<パネリスト> 山地 秀俊、山川 義徳氏
<モデレーター>後藤 雅敏(神戸大学大学院経営学研究科 教授)
講演1 日本的企業会計の脳神経会計学的解釈

山地 秀俊
(神戸大学大学院経営学研究科 研究員)
今回の講演の大筋です。第二次世界大戦後から今日までの日本の企業会計の展開過程を、脳科学的知見とどのようにつなげて研究に活かしているかという大胆な話です。まずは会計の歴史についてお話しして、それが脳科学でさらにどれだけ深く理解できるかについて話します。
何が問題か
今回問題にする戦後日本の企業会計制度の流れについて触れておきます。その中核には戦後まもなくにできた企業会計原則[1]があります。1949年に経済安定本部企業会計制度対策調査会の中間報告として制定されました。企業会計原則は、アメリカの占領政策としてアメリカの会計ルールを範としたものです。日本の戦後を、民主的な証券市場から調達される民間資金で復興するために制定されました。それは、日本社会から戦前の全体主義的な風潮を排除して、二度と日本が戦争を起こさないような民主国家にするというアメリカの占領政策の意図から作用されたと考えられます。
1951年に対策調査会はなくなり、以後、大蔵省の企業会計審議会によって修正が加えられながら、1980年代ぐらいまで企業会計原則が日本的企業会計の中心でした。ところがその企業会計原則が1990年ぐらいまでに、徐々にその力がなくなってきて、それに代わって世界的基準のIFRS(International Financial Reporting Standards:国際財務報告基準)が利用されるようになります。企業会計原則からIFRSに移行する会計ルール(制度)の変遷を、どのように理解すればいいのかというのが大きなポイントです。その理解を脳科学の成果を援用しながら進めていきたいと思います。
戦後日本の経済発展と近代化論
戦後日本の経済発展
長い間、戦後日本の企業会計の中核であった企業会計原則を理解するためには、戦後アメリカの対日本占領政策を理解しておく必要があります。当初アメリカの占領政策は、日本が二度と戦争を起こさない民主国家につくりかえることにその主眼がありました。そのための政策として、戦前日本経済の中心であった財閥を解体したり、労働者のストライキ権を確立したりと様々な政策がアメリカ指導の下にとられました。そうした政策の理論的背景にアメリカの研究者の手になる日本近代化論がありました。戦後まもなくの日本近代化論としては、日本史の歴史学者E.H.ノーマンのクリティカルな理論があり、戦前の日本社会を批判的に見ていました。それに基づいて財閥解体やスト権の確立がなされたといえるでしょう。企業会計原則の制定もそうした政策の一環といえます。しかし、1945年から1948年の極めて短期間のうちに、占領化政策は大きく方向転換をしました。1947年にトルーマン大統領のトルーマン・ドクトリンによって、アメリカの占領政策に変化があり、反共政策に舵を切りました。そのために1948年以降、アメリカの日本占領政策に逆コース化といわれる変化が現れて、日本の再右傾化を認めた上で経済復興を優先して、アメリカが日本を反共の防波堤にしようとしました。アメリカは、中国とソ連(ロシア)が太平洋に出てくることを妨げる防波堤として日本を利用しようとしましたが、それは今でもそうです。
こうしたアメリカの占領政策の変化で、企業会計原則の運用にも変化が出てきました。戦前からの日本の経済社会の特徴が活かされ、さらに日本的経営を支える企業会計原則として変質していきました。それまではアメリカのSEC(Securities and Exchange Commission:米国証券取引委員会)の趣旨通りの企業会計原則を運用しようとしていましたが、そうではなくなっていったということです。日本が戦争を起こさないための政策というよりも、反共政策に日本を使うべく、企業会計原則もそれまでの民主的証券市場優先思考ではなくて、日本経済の戦後復興のためなら、あいまいな企業会計原則の適用でいいのではないかという流れになっていきました。
意図通り逆コース化とともに日本は高度成長の軌道に乗っていきます。そして日本の高度成長路線を支持すべく、前述のノーマンのような先鋭的近代化論ではなく、保守的日本近代化論が1960年代の初めからラーシャワーらの日本研究者によって主張されるようになります。日本は江戸時代から西洋と同じような近代化路線をたどっていたし、また、それを推し進める社会基盤や政治家が存在していたということが、アメリカの研究者による日本の近代化歴史研究論文の中で新たに数多く公表されるようになります。
近代化の系譜
アメリカ指導型での戦後日本の復興を規定する近代化論の源流はどこにあるのでしょうか。これは社会経済学者のマックス・ウェーバーが端緒で、ドイツで出てきた思想です。ウェーバーには『東エルベ・ドイツにおける農業労働者の状態[2]』とか、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神[3]』という著書があります。彼は、経済の生産性の根拠、資本主義が発展する根拠に、プロテスタンティズム[4]の倫理を見出しました。これまでのマルクス主義では、経済が倫理を規定しているとしていましたが、ウェーバーはそうではなく、倫理が経済を規定するとしました。すなわち、経済の根底にある合理性の根拠に宗教的倫理があると指摘しました。個人の確固とした存在としての倫理があってこそ、資本主義は発展するということです。大まかには、民主主義、合理性といった倫理観・理念が先にあって、その後に経済の発展があるという発想が近代化論となります。現在ではより明確化されて、民主主義と資本主義が両輪になって経済社会が発展するという発想です。理念を優先する考え方であり、これは明らかにマルクス主義を意識して、それとは違う発想がウェーバーによって提示された思考の帰結です。
ウェーバーは、西洋の近代資本主義は、倫理・理念が優先し理にかなう合理主義を基にして、それが資本主義を発展させたと言っています。また彼は、単なる金もうけ的な資本主義すなわち賤民資本主義という資本主義もあると言っています。それは、中国や日本でも昔からあったものだと言っています。
宗教は、禁欲主義をとるのは当たり前ですが、農業従事者や生産者は、普通の労働者でありながら世俗内禁欲主義を守って合理的に生産性を上げていくとしています。これは西洋資本主義の基本であり、近代経済学の基本でもあります。ウェーバーの理念先行の理論は、アメリカのT・パーソンズという社会学の大家に引き継がれていきました。
さらに特徴的なのは、世俗内禁欲主義とつながるフォワード・ルッキングというものの見方であります。どういうことかというと、通常、過去のデータを蓄積して、そこから将来を見通していくという発想こそ基本的思考だと思いますが、ここでは先に将来が確定していて、それから現在の在り方が導かれるという発想です。バック・トゥ・ザ・フューチャー[5]という映画で、過去の自分の両親の出会いがうまくいかなくなると、自分が写真から消えていくというシーンがありました。それと同じで、通常は過去が分かってから現在、将来が分かってくるはずなのに、近代経済学にもみられるフォワード・ルッキングという発想は、将来が分かると現在が分かるとします。証券市場の理論も、そのような理論構成になっています。その根底にあるプロテスタントの世俗内禁欲主義とは、自分が将来、天国に行くという確定的目標を達成するのには、現在をどうすればいいのか、そのためには、どのくらい現在禁欲主義的生活を送るべきか、きちんと合理的に計算を行って、その結果として現在(の生活)を作っていくという発想です。
日本の企業会計原則制定にも影響したと思われるペイトン・リトルトンの会計理論も、近代化論的発想に基づいているといわれています。倫理が経済を規定するという近代化論と軌を一にした考え方です。マックス・ウェーバーは、近代西洋資本主義の倫理を具現化したものとして、各生産者あるいは経営者は、複式簿記を利用すると象徴的に考えていたと思われます。
近代経済学と近代化論の主張は、個が確立して他を尊重し、世俗内禁欲主義で生活するという考え方に端を発しています。経営者は象徴的に複式簿記を用います。そうした経営者あるいは労働者が中心となる近代資本主義の社会は、民主主義社会と共存共栄します。戦後日本の発展には、ウェーバーから始まるこうした考え方が複雑に影響していきます。
ウェーバー的近代化論から日本近代化論へ
日本近代化論を研究するアメリカの研究者は、ウェーバー的思考に基づいて、プロテスタンティズムの倫理に匹敵するような日本的な倫理観を持った人が歴史上存在したか探しました。日本には江戸時代に二宮金治郎や石田梅岩[6]が存在していて、世俗内禁欲主義と同じように、商人は律儀に経営をやっていかなければいけないと言っていたことを突きとめ、日本には西洋と同じような発想を持った人がいたという主張を裏付けました。
江戸時代の政治の世界では、松平定信よりもむしろ田沼意次がアメリカの研究者によって重要視されました。農業や農村生活を立国の基礎とする農本主義を松平定信らはとってきましたが、田沼意次は、印旛沼の干拓事業など様々な経済政策をとり、まさにケインズ的経済政策の発想を持った人でした。アメリカの近代化論者は、日本にも江戸時代からこういう政治家がいたということで、日本近代思想に注目しました。また、江戸末期における注目すべき人物として、坂本龍馬を取り上げています。日本では戦前、坂本龍馬は、ほとんど注目されていませんでした。アメリカの研究者は、日本には先見の明のある政治家がすでに江戸時代から存在していたと述べています。
さらに、近代化の社会的基盤として、一般大衆の教育水準が高かったことも、近代資本主義を形成する上で重要な要素です。日本には寺子屋制度がありました。この制度のおかげで、多くの人が読み書きソロバンができました。これも日本が西洋と同じように近代化を果たして成長していった一つの大きな理由とされています。さらには、日本が近代化を果たすために、明治時代あるいはそれ以前に、貨幣経済が浸透しなければならないという発想がありました。
石田梅岩や田沼意次、坂本龍馬らは、日本の学者ではなくて、アメリカの学者が注目しました。アメリカの社会学者のロバート・ニーリー・ベラーが著書『Tokugawa Religion: The Values of Pre-Industrial Japan』で、石田梅岩に着目しました。これは、堀一郎・池田昭翻訳で『日本近代化と宗教倫理[7]』が出版されています。寺子屋の庶民教育の水準の高さについては、イギリスの社会学者ロナルド・ドーアが『Education in Tokugawa Japan』で紹介しています。
そして、農業経営は村的集団から家族化した経営へと変化するとともに貨幣経済が浸透していきました。米によって年貢を払うのではなくて、お金によって年貢を払う形が徐々に浸透していきました。これについては、トーマス・C・スミスの『Agrarian Origins of Modern Japan』に書かれています。これは、大塚久雄が翻訳して『近代日本の農村的起源[8]』として出版されています。政治の領域では、松平定信らの農本主義よりも田沼意次のケインズ政策の方が理解しやすいということで、アメリカの歴史学者であり日本史研究家のジョン・W・ホールは、田沼意次に関する論考[9]を書きました。マリウス・B・ジャンセンは『坂本龍馬と明治維新[10]』という本を出しました(平尾道雄、浜田亀吉 (翻訳))。いずれも原本の出版当時、日本人もあまり知らなかったような人に注目して、戦後、特に日本は西洋と同じように近代化路線で資本主義と民主主義が合体して成長していく基礎だと説きました。非クリスチャン、非白人の国家の中で、日本だけが近代化に成功した国だと示しました。戦後日本は、アメリカの占領政策で反共産主義勢力の防波堤になっていくことと並行して、世界的にも西欧の資本主義以外では、日本だけが独特の形で経済発展に成功したといわれるようになりました。
私の友人であり先生でもあります歴史学者ロナルド・トビが、2008年に『「鎖国」という外交[11]』を出しました。これは、日本は江戸時代、鎖国をしていなかったのではないか、ということを述べています。すなわち、江戸時代にも朝鮮通信使が日本に十数回やってきています。また、そのころ琉球は日本ではなかったので、日本ではない琉球が使節団を送っているのに、どうして鎖国なのか、という問題提起をして一斉を風靡(ふうび)しました。現在でも千葉県の佐倉にある国立歴史民俗博物館では、トビの鎖国がなかったという発想のもとに、日本の江戸時代の資料の展示をしています。それは戦後の日本の近代化論を、日本人ではなくてアメリカ人が植民地政策的な発想で理論形成したということを示しているようにも思います。
日本的経営論
先に述べたように、1948年以降、保守主義的な逆流が日本に起こりました。その中にあって、1960年以降、日本近代化論がアメリカの中で先鋭的な近代化論から保守的な近代化論に変わって、特にアメリカの学者が、日本はすごい、西洋以外では日本が一番の国だ、唯一の国だといいはじめました。それとともに、日本的経営論も台頭してきました。日本は西洋的な近代化ではなく、全ての経済が解決すべき課題を独特なシステムで解決する特殊近代化を果たしており、それは経済的にも理にかなっている、と日本的経営を評価したのが、経済学者の青木昌彦です。日本的経営を特に経営学的に説明したのが、経営学者のジェームズ・C・アベグレンと社会学者のエズラ・ヴォーゲルです。1958年に『日本の経営[12]』をアベグレンが出版し、1979年にヴォーゲルが『ジャパンアズ・ナンバーワン[13]』を出しています。アベグレンは『日本の経営』では、終身雇用は変わった制度だと紹介していますが、1990年に出版された『新・日本の経営[14]』では、日本的経営はすごいと論調を変えています。日本の組織の特徴的なところは、江戸時代からの伝統である組織重視の経営、江戸時代の政治価値重視の行動の継承、保守的近代化、というように江戸時代から戦後まで徐々に日本の経済社会が、西洋的側面も併せ持って発展した点であると思います。
戦後の日本的経営は、アメリカとの貿易で支えられていました。日本的経営は、アメリカが反共対策の一環として日本を位置づけ主導していたため、日米経済競争でアメリカは一歩引く政策をとりました。ゆえに日本は経済発展ができたわけです。例えば、1950年代は、「ワンダラーブラウス」といって、日本のブラウスは、1枚1ドル(当時固定相場360円)の安価な値段で、アメリカで大量に売れました。そのため日本の繊維産業が急速に発展してアメリカの繊維産業に影響を与えました。1960年には鉄鋼産業界が、アメリカが西海岸で作った鉄鋼のよりも日本からわざわざ海をわたって運んだ鉄の方が安かったのでアメリカで売れて発展しました。そのため遅れていたアメリカ西海岸のインフラが発展したといわれています。戦後の日本の鉄鋼業の製造は、戦争による破壊からの新工場再建で非常に効率的でした。1970年代は、日本のテレビがアメリカを席巻しました。ニクソン政権が輸入制限をちらつかせたため、対米輸出自主規制を受け入れることで収束しました。1980年代に入ると自動車の輸出に関して、アメリカが日米自動車協議で貿易摩擦をなんとかしろと言いました。そこで1981年に日本政府と自動車業界は輸出自主規制を受け入れることとなりました。半導体についても同様です。半導体部品やその製品であるコンピュータ、航空宇宙などといった先端技術分野において日米ハイテク摩擦がありましたが、アメリカの要求にこたえて、日本も徐々に一歩引きつつ協定を結んできました。こうして、日本の高度成長とともに日本的経営はうまく進歩していきました。
日本的経営は、文字通り経営として、どのような特徴を持っていたのでしょうか。労働市場の三種の神器といわれる、終身雇用、年功賃金、企業別組合という特徴がありました。終身雇用であるために、若手労働者に対して年配労働者が技術を教えていくという形で、日本は職場での技術の伝承がうまくいったといわれています。年功賃金は、年功序列で賃金が決まるということです。人生で年齢的にお金が必要な時にお金がもらえる年功賃金は、労働者にとってありがたい制度でした。今はそうでない企業もあって、いい仕事をしている人がいい賃金をもらう成果主義をとっているところもあります。企業別組合は、企業ごとに組合があります。従って、ストライキも起こしづらい労使協調路線の構図になっていました。
日本的企業会計
日本的経営の諸特徴が、戦後すぐにアメリカ的会計ルールに基づいて制定された日本の企業会計原則のルールに結果的にマッチングしました。企業会計原則の基本として、発生主義、実現主義、取得原価主義会計というこの三つのルールが非常に重要です。まず、発生主義は、取引が事実として発生した時点で費用を計上するという考え方です。実は発生主義と終身雇用が結びついて、退職金の支払いに備えて、企業が終身雇用で退職金支払資金を積み立てるときに発生主義を適用して、退職給付引当金を設定します。それによって、巨額の退職給付引当金が企業内に蓄積していきました。これは労働者のものなのですが、企業によっては、資本金よりも退職給付引当金の方が多いことがありました。だから、批判的な会計学者は、日本の企業は労働者のものだ、と半ば冗談に半ば本気に言っていました。そのくらい発生主義会計は、終身雇用と結びついて日本企業の資金調達に貢献していた時期がありました。
その次が、資本市場です。日本の資本市場は、残念ながらお金を必要とする企業に個人の資金が直接流入する直接金融にはなりませんでした。株を買ってくれる人がいなかったゆえに、直接金融で企業が民主的に資金調達をすることができなかった。そこで銀行からお金を借りて、それによって企業が資金を調達する間接金融が主となりました。また、間接金融の延長として銀行が企業に資金を貸し付けていることと並行して、Aという企業がBという企業の株を持ち、Bという企業がCという企業の株を持ち、Cという企業はAという企業の株を持ちという形で、組織が相互に株式の持ち合いをしました。株式会社として運用していくために、このような形で資本調達を工夫しました。これがアメリカの直接金融という発想とは相容れない形の、日本的経営の特徴である戦前の財閥支配を想起させるような資本市場ができました。これが取得した資産を取得時の原価のままで評価する取得原価主義とうまくマッチングしました。なぜ、マッチングしたかというと、銀行が企業に資金を貸していることからも資本市場の中核は銀行です。その当時、土地などはうなぎ登りで価格が上昇していたので、土地をはじめとする資産を時価評価をすると、企業の資産規模がすぐに大きくなっていくはずでした。しかし、そうはなりませんでした。なぜかというと、取得原価主義で、企業資産の価値をずっと据え置かなければならないという規則になっています。なぜ、それが企業会計原則として有効に機能したかというと、典型的には貸主の銀行が担保として企業の土地を持っているので、時価評価にして企業の土地評価益が配当として企業から流出してしまうと、企業の担保価値が下がります。取得原価のままにしておくと、土地の担保価値が実質的に大きくなります。銀行を中心とした資本市場だったので、取得原価主義というのは銀行に有利に機能したのです。
もう一つは、流通市場です。流通市場では、企業系列という形で株式を相互に持ち合って、お互いが一つの企業集団として運営されていきました。それが、実現主義とうまくマッチングしました。企業は企業間で取引をした場合に、企業同士が表面上は独立しているが、内部はトップの企業が下の企業をコントロールしているという形になっていました。従って、日本の企業は、売上高を企業系列の中でうまく分配していきます。この分配のためには、実現主義がうまく機能しました。どういうことかというと、実現主義とは、相互に独立した企業間の取引をもって実現とみなします。逆に法的に相互に独立した企業が取引すれば、収益として認識することが可能であり、簡単に収益を実現できる、操作できると日本の企業は考えました。もともと日本の企業系列ではトップ企業が下部の企業を把握している企業集団なので、利益を集団間で付け回しても、表面上は独立した企業体なので、実現主義として法的には認められ、企業が集団として存続することができたと考えられます。
そういう形で、日本的経営の特徴である労働市場、資本市場や流通市場の特殊事情とでもいうべきものが、発生主義、実現主義、取得原価主義会計という戦後に入ってきた企業会計原則の中心となる原則とうまくマッチングしました。競争を制約した互恵主義的・集団的な企業経営、合理的な勤勉さの根源を江戸時代に求めたのが、アメリカの日本近代化論研究者の流れをくむ日本的経営の解釈です。こういう形で日本的経営論、日本的近代化、日本的企業会計がつながって日本が経済成長していったと理解できます。
日本的企業会計と脳科学
脳実験の議論を視野に入れるべく、議論を少し進めます。日本にも江戸時代から会計帳簿がありました。そうした日本固有の会計とアメリカから戦後に入ってきたアメリカ的会計に齟齬(そご)がなかったのでしょうか、と問うてみます。
そうすると、脳内における長期的意思決定の制度化と短期的意思決定の制度化という問題が視野に入ってきます。そこで、脳実験の成果を援用しながら、日本の戦後に入ってきた企業会計原則の運用と江戸・明治期の会計が、相互に特徴的に混在しえたことを説明します。
長い目で見た会計学の変遷と脳の影響
長期的会計ルールの形成・変遷は、数百年、あるいは1000年を超えます。そこでいわれるのが生態学的合理性、すなわち生物学的な合理性のことです。例えば、アメーバーなどは、勝手にランダムに動いてえさを採っています。勝手に動くから合理的ではないということですが、実はアメーバーのえさもランダムに動いています。ランダムに動いているえさを採るのは、ランダムに動いて採るのが一番合理的だということです。人間の合理性も、それに近いものがあるのではないかといわれています。マックス・ウェーバーがいうような近代的合理性よりも前から生態学的合理性がありました。その典型的な会計ルールは、取得原価主義(収支計算)と保守主義です。
この原則は昔からあったといわれています。収支計算は、取得原価主義あるいは実現主義と同じようなものですが、きちんと収支によって記録され、データを基に多くの人々が安心してお互いに付き合うことができます。近代経済学がいうような合理性とは違う意味での収支計算の持つ合理性があり、いわば生態学的な合理性があります。保守主義原則の下では、費用として計上するときには、できるだけ早く費用として計上して、収益として計上するときはできるだけ遅く計上します。企業は保守的に経理を行うことによって、安全性を保つことができるということです。脳科学と親和性のある生態学的合理性から、収支計算と保守主義は注目され、その利用の意義が改めて評価されてきました。会計ルールの長期的な形成ということでいえば、会計学者のバス・ウェマイヤやブラウンの脳神経会計学的研究があげられます。脳神経会計学的研究は、ニューロアカウンティングといわれ、長期的な生態学的な合理性に基づく会計が、どういう形で脳の影響によって形成されていったかが議論されています(山地, 2023[15])。
短期的会計ルールは、数十年あるいは100年前後の会計ルールの変遷・形成で、構築主義的な合理性です。構築主義的というのは生態学的と対をなす言葉です。取得原価主義は、きちんとしたデータに基づく計算による利益計算です。初期の産業資本主義は、ものづくりを中心にした会計なので、取得原価主義が、ものづくりの原価計算と一緒になり、非常に有用な経済学的な合理性になっていきました。そうした会計データは証券市場にも有用なデータとなり、それが産業資本主義で効率的な生産を行う企業の情報が証券市場に伝わり、産業資本主義が発展するという発想につながっていきました。生産効率性を伝える短期的なルールとしての取得原価主義は、信頼性を醸成する長期的なものとは少し意味合いが違っています。しかし名前は同じです。この短期的な取得原価主義の機能は、証券市場での企業評価を重視する会計に移っていくと同時に、公正価値会計、すなわち時価会計が現在では入っていることになります。このように短期的な会計ルールと長期的会計ルールは、変遷しつつ混じり合っているということが注目されるべきことです。
W・A・ペイトンとA・C・リトルトンの『会社会計基準序説[16]』に、産業資本主義のための会計の解説がなされています。そこで中心的な発想は、業績(利益)は努力と成果で決まるという考え方です。努力は費用であり、成果は収益で、努力は、取得原価主義で計算されて、成果は、実現主義で計算される。それによって、効率的な生産をする企業が生き残っていくという発想を、戦後日本の会計原則に影響を与えたと思える初期のSEC(Securities and Exchange Commission:米国証券取引委員会)はとりました。
それに対して1970年代以降から、徐々に証券市場が金融資本主義志向の会計に移っていきます。1968年にボール・ブラウンが、 ”An Empirical Evaluation of Accounting Income Numbers” という論文を発表しました。以後、アメリカ会計学は、ボール・ブラウンの手のひらの上で回っているといわれるような会計になっていきます。産業資本主義、生産指向の資本主義はもうほとんど評価されなくなって、証券市場が金融的に評価してくれる企業が偉い、というような形に変わっています。あえて言えばペイトン&リトルトンは近代経済学のアイデア、ボール・ブラウンはファイナンスのアイデアです。
第二次世界大戦後に、企業会計原則がアメリカから日本に入ってきて、1990年ぐらいまでで力が落ちていく。それを超えて一貫して存在しているのは、長期的歴史的な制度化による商人の会計です。取得原価主義と保守主義が典型です。短期的な会計としての企業会計原則というものがあります。企業会計原則から、IFRSに短期的な経済の会計の形が変わっていきます。両者が混在していることに問題と特徴があります。
脳実験会計学
話は変わりますが、われわれは脳実験で核磁気共鳴画像法(MRI:magnetic resonance imaging)を使いました。MRIの中は強烈な磁力線が用いられており、脳の中の水素の磁場の強弱や差を測定します。内臓のMRIは、肝臓とか腎臓とかそれぞれ磁場の大きさが違います。従って、MRIで撮れば、磁場の差が輝度の違いとなり、どのように内臓が弱っているか、どの内臓に異質なものがあるか分かります。水素の磁場の測定技術を、脳内の血液の動きを測定するための技術として使ったのが、fMRI(functional magnetic resonance imaging)という測定技術です。刺激を与えると、その刺激を判断するための脳の部位が分かります。図像や文字・数字によって脳の特定部位が刺激されたときに当該部位で酸素が消費されて、それを埋め合わせるために多くの血液(酸素)が集まってきます。集まったとき、水素の磁場がゆがみます。その磁場のゆがみを測定していくのが、fMRIです。fMRIはX線を使わないので、非侵襲的ということで非常に安全な実験技法となります。
ここで短期的会計ルールと長期的会計ルールの混在ということを説くために、効率と公平という二つの刺激を使ったわれわれの仕掛品の脳実験について少しお話しします。効率は、例えば、あなたが経営者だとすると、ある生産効率の労働者にどの程度の給料の支払いをするかという刺激を実験的に利用します。次に公平性について考えていきます。その場合に取り上げた公平性は、年齢がかなり上の場合は、少し生産性が落ちても給料はそれほど大きく減らさない、あるいは大きく減らしますという刺激を与えて、脳内反応を見ます。効率・公平、各々のどういう反応が脳のどの部位で見受けられるかをfMRIで脳の撮影をして調べました。
結果、どういう部位が反応したかということを示したのが以下の図です。

図で列挙した部位は全て有意な反応を示した部位という意味で、効率・公平の意思決定に何らかの意味を持って関与しています。その中でInsular(島皮質)とMFG(中前頭回)とIFG(下前頭回)の賦活程度が、被験者の意識的給与回答の高低水準と有意な相関を持って反応しました。
当該脳実験で驚いたのは、SPL(上頭頂小葉)という部位だけが、効率性の刺激をしたときだけしか賦活しない部位ということでした。あとは全部、効率も公平も同じような部位が賦活しています。これから何が見えるかですが、効率も公平もほぼ同じ脳の部位を使って意思決定がなされていて、効率だけはより追加的な部位が使われて判断されます。これらは、何を意味するのでしょうか。実は公平性の方が、脳の反応の部位の相互関係が時間的に前に形成された可能性があるということです。それに対して効率性は、公平性の部分を利用しながら、追加的にSPLを使って判断しています。公平性の方が昔からあった脳の中のつながりで、効率性はそれに付け加えてなされてきたものだということです。
会計のルールも、効率性の方が先なのではないかとか、公平性が先なのではないかという議論に則して議論を行えると思います。人間はずっと公平という問題を考えます。公平性は、先に形成された会計課題であり、効率性は後から形成されてくる課題です。経営や会計の課題でも、公平性で形成されたルートを使って、まず、課題が判断され、追加的なルートが加わって効率性の課題が判断されていると考えることができそうです。
エピジェネティクス(遺伝子の塩基配列は同じなのに遺伝子の発現が変わる現象)という発想が医学にはあります。当然ですが、数百年では、明確には遺伝子的な変化は形成されません。遺伝子は変わりませんが、遺伝する可能性があることが、最近脳科学の医学分野ではエピジェネティクスとして注目されています。これは私の推測ですが、公平性は、ずいぶん長い期間をかけて脳で遺伝的に形成されていたもので、効率性は、ごく短期に、にわかに形成されているのではないかと思います。経済学を勉強したら、それが意思決定ルートとして形成されていく。そういうものではないでしょうか。従って効率性は、公平性の使っていたルールに一部分を付け加えて判断するようになったのではないかと考えています。
そこから比喩的に考えられるのは、会計原則でも効率を優先させる会計原則は、比較的短期に形成されて、エピジェネティクスで長期の遺伝子変化なしでも遺伝として受け継がれていくようなルールは、非常に長期間で形成されているものである。それをどういう形で、現在の会計原則形成の理解に適応するのでしょうか。会計の主ルールの中で、取得原価主義、保守主義は、実は公平性のような非常に長期間をかけて形成された会計ルールではないかと思います。それに対して、企業会計原則のように戦後に形成されたものは、短期のうちに形成された会計ルールです。ややこしいのは、取得原価主義とか保守主義は、短期にも長期にも存在するルールです。機能の仕方は少しずつ違っていますが、同じような名前で同じような場面で使われるルールです。従って、企業会計原則は、日本の企業会計の中にあって、一方でアメリカ的に合理主義的な会計原則として使われていながら、別の面では日本的な企業会計、日本的な経営に流用されます。保守主義とか、取得原価主義は混在して利用されているのではないかと思います。従って、少し大きく見ると、常に現行の会計ルールの中で何かしら新旧混在するものがあると言えるのではないかと思います。
民主主義と情報公開
最後に、民主主義と情報公開について話します。民主主義は、資本主義と対になる西洋的な概念です。両者にとって重要なのは情報公開で、当然、企業会計の問題でもあります。
次に講演される山川先生が、BHQ(Brain Healthcare Quotient)という脳の健康度の指標を考案しましたので、それを利用して情報公開はどのような脳の賦活と関連しているか試験的に検討してみました。BHQは脳の健康度なので、その健康度が強いものほど情報公開を志向します。従って、民主的な思考が強いということがいえると、いい分析結果になるのですが、被験者20~30人ぐらいの実験によると、確かに符号は仮説通りですが、個人の情報公開志向の強さとBHQによる健康度との相関は、まだ有意であるとはいえない結果でした。より多くのサンプルを使った実験が待たれます。
スウェーデンのV-DEM研究所(Varieties of Democracy)が、毎年各国の民主主義の程度を計測し、指標に基づいて分析しています。その調査結果との関連で、資本主義、近代化論が両輪のように関与している自由主義陣営の国家では、1995年段階では日本やアメリカのように民主主義が強いほど一人当たりGDPも大きいという形になって、民主主義が理念として強いところほど、資本主義は発展するというのがよく分かります。近代化論そのものと言えるかもしれません。
ところが、最近はそうなっていません。V-DEM研究所の調査に基づくと、中国やロシアなど民主主義国ではなくても資本主義は発展するというように読み取れる結果が出ています。2020年になると、アメリカは少し全体主義に寄っています。なぜかというと、これはトランプ前大統領の影響ではないかと思われます。中国とロシアは、社会主義市場経済といわれていますが、資本主義的な面(一人当たりGDP)は発展していますが、民主主義は発展していません。
われわれは今まで、資本主義と民主主義は両輪になって発展してこそ、社会は発展すると考えてきたのにそうなっていません。会計の領域でも、ロシアや中国もIFRS などを導入しようとしています。本来、これはG7あたりが中心になって作り上げた会計原則ですが、今、ロシアや中国も導入しようとしています。そうなってくると国の経済は、民主主義がなくても、類似した会計原則を採用して資本主義は発展するということになりそうです。
戦後の日本で中長期的と短期的な会計ルールが混在していたように、中国やロシアでも昔からやってきた会計と最近の西洋の会計を混在させて利用しようとしています。いわば日本の戦後経済の発展をなぞっていくような会計政策なのではないかと思います。これはいいことなのかどうか分からない難しい問題だと思います。
*「注」は、編集担当によって付されたものである
[1] 企業会計原則:企業会計の実務の中に慣習として発達したものの中から、一般に公正妥当と認められたところを要約した基準である。法律ではないが、企業が会計業務を実施する場合の基本的なルールとなっている。真実性、正規の簿記、資本取引・損益取引区分、明瞭性、継続性、保守主義、単一性の七つの原則から成り立っている
[2] 東エルベ・ドイツにおける農業労働者の状態:マックス・ウェーバー(著)、肥前栄一 (訳)2003年、未来社
[3] プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神:マックス・ウェーバー (著)、大塚久雄 (訳)、1989年、岩波文庫(改訳版)
[4] プロテスタンティズム:16世紀の宗教改革に発した、キリスト教プロテスタント各派の思想・神学。人は信仰によって救われるとする信仰による義認と聖書を信仰の唯一の根拠とする聖書主義
[5] バック・トゥ・ザ・フューチャー:1985年のアメリカのSF映画。ロバート・ゼメキスが監督とボブ・ゲイルと共に脚本を務め、マイケル・J・フォックスが主役を演じた。アカデミー賞、サターン賞、ヒューゴー賞を受賞。その後、『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』(1989年)と『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3』(1990年)が続編として製作された
[6] 石田梅岩:江戸時代の思想家、倫理学者。思想の要は、人間を真の人間たらしめる「性」を「あるがまま」の姿において把握し、「あるべきよう」の行動規範を求めようとすること
[7] 日本近代化と宗教倫理―日本近世宗教論:R.N.ベラー (著)、 堀一郎・池田昭(訳)、1962年、未来社
[8] 近代日本の農村的起源:トーマス C. スミス(著)、大塚久雄(訳)、2007年、岩波書店
[9] 田沼意次に関する論考:John Whitney Hall, 「Tanuma Okitsugu(田沼意次)」, pp1719–1788, 『forerunner of modern Japan』1955, ハーバード大学出版局
[10] 坂本龍馬と明治維新:マリアス・B. ジャンセン(著)、平尾道雄・浜田亀吉(訳)、2009年、時事通信出版局(新装版)
[11] 「鎖国」という外交(全集 日本の歴史 9):ロナルド・トビ(著)、2008年、小学館
[12] 日本の経営:ジェームス・ C・アベグレン(著)、山岡洋一(訳)、日経BPマーケティング(日本経済新聞出版:新訳版)
[13] ジャパンアズ・ナンバーワン:エズラ・F. ヴォーゲル(著)、広中和歌子・木本彰子(訳)、 2004年、阪急コミュニケーションズ(新版)
[14] 新・日本の経営:ジェームス・C・アベグレン (著)、山岡洋一(訳)、2004年、日経BPマーケティング(日本経済新聞出版)
[15] 講演録「ニューロアカウンティング 山地秀俊」『企業会計』2023. Vol.75, No.9, pp34-65
[16] 会社会計基準序説:ペイトン、リトルトン(共著)、中島省吾(訳)、1958年、森山書店
講演2 人生100年時代の脳の健康とWell-beingの実現を目指して

山川 義徳氏
(東京工業大学科学技術創成研究院 特定教授/京都大学経営管理大学院 特命教授/神戸大学産官学連携本部 客員教授)
今回は大きく三つの話題についてお話しします。一つ目は私が脳の研究を始めた大きなきっかけになった内閣府のプロジェクトをご紹介できればと思います。二つ目は、その中で具体的にどんな研究をしてきたか、特に脳をどうしたら健康にできるかをお話しします。最後に、手軽に脳を健康にできるようなライフスタイルの事例をご紹介したいと思います。これは、企業や自治体との連携を通じたオープンイノベーションや産官学連携といわれている領域です。
内閣府ImPACT山川プログラム
最初に、内閣府のImPACT(Impulsing PAradigm Change through disruptiveTechnologies Program:革新的研究開発推進プログラム)についてお話しします。認知症やうつ病など脳・精神疾患と呼ばれる病気は、社会的にも経済的にも多くの人が関係しています。実際に概算してみると、国内で約1000万人、世界だと約5億人がこれらの病気にかかっています。それに対して社会的な損失は、医療費とか介護費とか、例えば、お父さまが認知症になられて、子どもが働けなくなったといった周辺のものも含めると、実に日本で約20兆円、世界では約430兆円という、かなりの金額が社会的な損失となっています。
研究のトレンドは大きく二つあります。一つは、病気が問題であるならば、治療薬をつくればいいということです。ただ、脳は正直難しくて、本当にいい薬はありません。つい最近もアメリカのFDA(Food and Drug Administration:アメリカ食品医薬品局)で、認知症に関する薬事承認が下り、日本でも承認されるという話になっています。ただし、服用すれば治るわけではなくて、前よりは多少いい効果がありますというレベルです。同様にうつ病の薬なども存在しているのですが、副作用が大きいので、正直、完全にこれらの病気を治すのは難しいのではないかというのが私の印象です。
一方、脳科学で分からないことが多く、薬もつくれないのであるならば、病気になったら、脳とか人に頼るのではなくて、ITやロボット、AIが代わりにやればいいのではないかという研究グループも存在しています。例えば、車が自動で運転すれば事故もないし、行きたいところに行ってくれるといったスタイルの発想があります。
そんな中で、私たちの研究グループは、脳科学は難しいけれど脳を見捨てるのも寂しい。できれば個々人の脳の健康維持・増進を実現して、いつまでも自分の力で運転できるようにすれば豊かな生活が送れるのではないかということで、若いうちから脳を健康にするような研究を、かれこれ20~30年ほど続けてきました。
今から10年ほど前に内閣府のプロジェクトに採択されました。もともとは故安倍総理が構想した、社会を変革するような基礎研究に国が投資するということで、約250件の中の一つに私の脳の取り組みを選んでいただきました。おかげさまでこのプロジェクトには、日本の脳科学者300名ほど集まっていただきました。病気になってからがとてもお金がかかるので、脳科学を使って、元気なうちに産業振興を含めて、健康な消費をつくることによって、財政的にも維持します。個人としても、年を重ねて脳の老化や病気を心配して、そのために貯蓄するよりは、そういう心配がない状態でいつまでも冴えた頭でやりたいことをやるというのがいい人生だと思っています。そういうことができないかということで脳科学を使うことを考えました。
一緒に研究する脳の研究者たちと、世の中の人たちに役立つためにはどうしたらいいかを考え、脳の健康度の物差しをつくりました。
ビル・ゲイツがウォール・ストリート・ジャーナルで「物差しは大事です」と話したエピソードがあります。その物差しがあると、自分がやった行為が正しいか、正しくないか、フィードバックできるし、間違っていれば直すし、他の人もその物差しを基準に頑張るので、そういう意味では単位があればいいというお話です。それを参考に、私たちも脳の健康について、新しい単位をつくることに考えが至りました。
一番のポイントは、いわゆる脳の健康状態をご本人にフィードバックする際に、一般の人でも分かりやすい類似した単位は何かというと、IQ(Intelligence Quotient:知能指数)は分かりやすいと考えました。平均値が100で、±15の中に値があるので、例えば「あなたのIQは、100よりかなり低いです」というとあまりよくないことが分かります。これを、ブレインヘルスケアに関するIQのようなものということで、BHQ(Brain Healthcare Quotient)と名付けました。具体的には、「あなたのBHQは90ですね」と言われたら脳の健康状態はあまりよくないし、130だとよい状態とすぐ分かるようになります。昨日に比べてBHQがどのくらい上がったといった議論もできるようになると思うので、そういうことをまずはやろうと最初に決めました。
二つ目のポイントは、このBHQは何で測るかという大問題がありました。世界中の脳研究でMRIはよく使われています。このMRI装置が日本中に散らばっていて、日本は世界で断トツにMRIの設置率の高い国です。この国ほど手軽にMRIを撮れる国はありません。それで私は日本にあるいい社会インフラであるMRIを使って、これをどうにかBHQに活かせないかと考えました。
もう一つは、脳ドックです。日本では健康な人にもかかわらず頭を測ります。アメリカでは重症でない限りMRIを撮ることはなく、これもあって約30万~40万円ぐらいが相場です。日本だったら3万~4万円ぐらいです。MRIにかかるコストの違いは、日本は設置台数が多いし、お医者さまが頑張っているということです。そういう意味では、MRIを使って、脳ドック的なものを勧め、これをインフラにしてBHQをつくるというのはいいだろうという着想に至りました。
これまでの脳ドックは、主に脳卒中の早期発見に使われてきました。最近、認知症の鑑別診断にも使われ始めています。例えば、脳卒中だと100人が脳ドックに行っても、引っ掛かるのは3人ぐらいです。残り97人の人たちは、「病気じゃないですよ」で診断が終わっています。その中で私たちは何をしたかというと、脳のMRIを撮りました。まずお医者さまが脳卒中ではないという状態が分かった上で、97%の人たちに対して「あなたのBHQは幾つです」とフィードバックする仕組みを社会インフラとして用意しました。
MRIの画像解析をして、脳がどれぐらい痛んでいるかというのを場所ごとに分けて、日本人のデータベースから平均を100、標準偏差を±15の間で値をつくりました。そうすると、どれぐらいの状態かというのが分かるという仕組みです。
脳がどれぐらい痛んでいるかどうかを示すことで、脳の外側の部分で神経細胞がたくさんある部分がどうなっているかを示すことができます。一方、脳内にはネットワークがいろいろ張り巡らされています。そのネットワークの状態が、ハイウェイのように整備されているのか、あぜ道のようにガタガタになっているのかをMRIの画像から見ることができるので、それに値を付けています。これによって、日本人の平均的なデータと比較して、あなたの頭の萎縮具合がどのぐらいですよとか、線維の乱れはどのぐらいですよ、というのをフィードバックできるようになりました。
内閣府のプロジェクトということもあったので、このBHQという値をオーソライズするためにも国際標準にしました。スイスのジュネーブにITU-T(International Telecommunication Union Telecommunication Standardization Sector:国際電気通信連合電気通信標準化部門)という通信系の標準化団体があります。彼らがデジタルヘルスの領域で、体の情報をデジタル化してヘルスケア領域に使おうとWHO(World Health Organization:世界保健機関)と一緒にやろうとしていました。そのときに、日本側から、「私たちは脳の指標をつくっています、脳については世界中で研究されていますが、まだ標準の物差しはないので、この指標はいかがでしょうか」と提案をして、今から5年前に国際標準になりました。
このポイントは、一つはもちろんオーソライゼーションしてもらうということですが、それ以上に大事なのは、「こういうことをするとBHQが上がります」とか「こういうことをすると下がります」という指標としてのBHQが日本だけではなくて、他国でも使えるようになる。それは裏を返すと、他国で分かったBHQを上げる方法や下がる理由が日本にも入ってくるので、社会において同じ共通の単位があると、みんながこの値を上げる努力、下げない努力をしてくれます。それをみんなでシェアする枠組みになると思ったので、ITU-Tに話をしました。
次に年齢に伴うBHQの変化についてお話しします。図1は横軸が年齢です。縦軸が、GM-BHQ(脳の健康度)です。認知症の人は脳が縮むとか、高齢になると縮むと聞いたことがあると思います。私も時々、大学で授業をしますけども、こういう話を学生にしても若い方はあまり気にしません。実は脳は20歳ぐらいからほぼ着実に縮んでいきます。だいたい1年間で0.5ポイントずつ私たちの脳は放っておくと縮みます。60代、70代になってからの問題だと決して思わないでほしいと思います。

一方で、私が期待を持てると思っているのは、図1を見ると50歳の方でも20歳ぐらい、つまりぴちぴちの脳の方もいらっしゃれば、80歳ぐらいのかなり老いた脳の方もいらっしゃいます。つまり、このグラフ(図1)のどの辺に自分は該当するのかということもありますし、規則正しい健康的な生活をしていると、上の方で維持できて、そんなに下がらないということが明らかにできる予兆もこのグラフで見ることができると思います。
図2は、私の脳のMRIの画像です。私は自分ではそんなに悪くなっていないと信じていました。確かに、39歳では105ぐらいで、まあまあ普通です。それに対して、2年後(41歳)は、105から102まで下がっています。2年しかたっていないのに、私の脳は6年分縮んでいます。次の年はもっとひどくて、1年間で102から100まで落ちていますから4年分です。残念ながら、この時期は、すごい勢いで私の脳は縮んでいました。しかし、脳はしっかりと復活することがあります。実際、2018年から2019年は、のびのびした生活だったからか、1年後に1ポイント改善しています。

一方で、2019年から2020年の間に何が起きているかというと、コロナ禍になりました。2019年9月にMRIを撮って、その後、コロナ禍となり感染拡大もあり、自宅からほぼ一歩も出ずという状況になりました。しかし、研究のこともあって自分の脳をMRIで撮るためにこの日だけ外出しましたが、数値がすごく下がっていました。まずいなと思って、ここから生活を改めて、太らないようにしたり、運動したり、夜、ちゃんと寝るように心がけました。生活のリズムを整えて健康的な生活をすると、数値がしっかりと戻ったので、それ以降は生活を気にかけています。
改めて図1のグラフを見ると年齢とともに下がり続けそうですが、図2からもわかるように、ちゃんとした生活をすればしっかりと元に戻るし、逆に言うと、今、不健康な生活をしているとしたら、それを改善するだけで結構戻ります。
脳に可塑性があるといわれていますが、MRIを使うことで、変化している様子がようやく見えるようになってきたところです。一番のメッセージは、いつからでも遅くないので、脳は健康にできますということです。
もう一つ、考えておいた方がいいのは認知症の話で、認知症は75歳ぐらいで5~10%ぐらいがなるといわれています。私は研究に協力してくださるお医者さんに「75歳ぐらいで完全な認知症の方と、全く認知症でない方を連れてきてください」とお願いしました。MRIを撮るとやはり認知症の方はしっかりとBHQが低く、同じ75歳で認知症でない方は高い数値が出ました。
50歳を100にキャリブレーションしたので、だいたい10年間で5~6ポイントぐらい変わり、40歳で106、50歳で100、60歳で90、こんな感じで下がります。だいたい誤差が7~8ぐらいで、75歳ぐらいで下限値なのは認知症の方で、数値が上限の方が元気な方です。
プロジェクトが採択された当時、「100年人生」とよくちまたでいわれていました。私は内閣府で「私たちのBHQのデータから推定すると、100年人生になったら、高齢者のほとんどが認知症です。これ以上、医療費を上げないために、まずBHQの傾きを上げないといけないですよね」と社会正義的なことを発言しました。一方で、例えば、20歳とか30歳ぐらいから「50年後に認知症になるリスクがありますから、今日から何かしましょうね」と言っても、そんなに簡単な話ではありません。
それで私たちは心理系の先生方と一緒に、年齢は関係なく、脳が平均より健康な人は何かいい点があるのかを探して見つかったのが、やはりBHQが高い方は意欲が高い、共感性、つまり他の人に対して優しくできる、さらに言うと、好奇心とか根気もいい感じで維持できていることでした。
さらに、幸福感も脳の健康と関係がとても深いです。これは二つあって、幸福を感じている人たちは脳が健康ですが、もう一つ、私たちはこっちの方がメインだと思っているのは、脳が健康な人は幸福を感じやすいから、同じ状況下では、脳が健康な人の方がどうも幸福だと言っているようです。やはり脳を健康にするのは非常に大事で、まずは60~70代になったら、認知症のことを気にしながらということになるかもしれませんが、人生にわたって、Well-beingであったり、やる気を持って仕事に向かう、人に優しくすることも、脳の健康を大事にしていくということにつながると思っています。
今、脳ドックを受けても、特に何もなければ「所見なし」と言われますが、BHQドックレポートみたいなものを用意しています。
脳の健康を向上する要因の探索
こんな話をしたら、今後、どうしたら脳がよくなるかを知りたくなると思います。一般的には、残念ながら、年齢と共にBHQは下がります。下がっていくのをよくするにはどうしたらいいのか、そもそも何をしたらよくなるかというと、一つ目はメタボリックシンドローム(以下、メタボ)です。太っている方は絶対に縮んでいます。コロナ禍で太ったという方は多いと思います。これについて被験者150人のデータで論文を書きました。今、6000人ぐらいデータを取っていますが、太っている人は縮んでいます。太り始めた人は気を付けてください。
ただ、太ったら脳が縮むのか、脳が縮んだら太るのかは、まだよく分かりません。太ってくると、血がドロドロになって、血管は傷むので脳も傷みます。それだけではなくて、脳は縮んでくるとトップダウンの抑制が効かなくなるので、目の前においしいケーキやお肉があれば食べ、ビールがあれば飲むということになるので、太っていく。だから、私たちは、仮説的にこれだけ強い相関があるということは、因果がどちらかにあるというよりは、相互補完的にデフレスパイラルを起こしている状態なので、太り始めたら気を付けてくださいというのが一つ。
もう一つ、その延長で、日々の生活習慣を調べました。そうすると、平日、つまり仕事が普通にある日とか、イベントがある日にしっかり休息が取れている方は脳がいい状態です。一方で、週末など仕事がお休みの日に家でだらだら過ごしている方は悪い状態です。
そうすると体もそうですが、日々の生活習慣を規則正しくしましょうということです。裏を返すと、日本のビジネスパーソンは、平日、一所懸命に働いて、週末、疲れがたまって家でダウンという感じで過ごされている方が多く、かなり危険です。そういう生活パターンは脳にも悪いことが分かってきています。
食生活の面では、例えば、お酒を飲んでいて、お肉やご飯をたくさん食べている方は脳が縮んでいます。ただ、ちょっと面白いのは、メタボでない方はお酒の影響は少ないです。「太り始めたら、全般的に気を付けてください」なんですが、太っていなければ、それを勧めるわけではないのですが、多少、飲んでもいいということです。一方でお魚はやはり体にいいだけではなくて、脳にもいいということも論文で出しています。
産学連携の話にもなりますが、ビールの特定の成分が一部の人にはいいとか、コラーゲンペプチドは膝関節だけでなく脳にいいということは紹介していますが、私からすると、これを勧めるより太らないように気を付けた方がいいと考えています。
高カカオのチョコレートも、つい最近、論文にまとめています。チョコレートを食べるなら、高カカオのものがいいです。ただ、疲労感のある人じゃないとBHQが良くならないです。私は、協力してくださる企業といろいろな評価実験をしていますし、それは一定の価値があるので、世の中の多くのものはBHQという物差しで測って効果がある製品になっていけば、おそらく皆さんが買うことも含めて両輪でやっていけるといいのですが、個別に1個の商品でどうにかなるというものではないことをご理解いただきたいと思います。
食べ物だけではなくて、もう少し違う側面のストレスとか疲労の話をします。例えば、よくストレスがあるから脳が傷むといわれることがありますが、脳は意外に強くストレスぐらいでは縮みません。一方で、3か月~半年ぐらい、疲れが取れない長期的な疲れが疲労感という定義ですが、この状態になっている方は脳が縮んでいます。さらに、疲れていてかつストレスがかかっている方はすごく縮みます。
私は、企業経営者の方や自治体の首長にもお話しをする機会がありますが、その際に「部下が疲れていなかったら、多少、プレッシャーを与えても大丈夫だと思います。でも、疲れているときにプレッシャーを与えると縮みます。そうなれば、モチベーションは下がるし、人にも優しくできなくなるので、いいことはありません。この辺を気にしながら見ていただいた方がいいですよ」といった話をしています。皆さまも自分が疲れていると感じたら、多少は何か変えていかないと危ないかもしれません。自己研鑽の研修などは、脳がいい状態で、それによって仕事に対するやりがいも増えていくことも予想されます。
メタボや飲みすぎ、不眠もよくないと話しましたが、驚いたのは一人暮らしについてのデータです。一人暮らしの方はやはり脳が小さめというか、傷みがちです。やはり人間の脳は人とのコミュニケーションを求めている臓器でもあるので、別に一人暮らしをやめましょうというつもりはないですけども、一人暮らしの方はちょっと気を付けた方がいいと思われます。また、座り過ぎは、かなり傷んでくるというのが分かってきました。
私が気に入っている研究としては、「脳×他」で、健康住宅についての慶應大学の伊香賀先生たちとの研究です。冬場、寒い家に住んでいると、ヒートショックで脳卒中を起こすことがあります。この研究は山口県と高知県で調査されています。西日本には冬場に、きゅっと寒くなる家と、そんなに寒くならない家があります。特に寝室が寒い家に住んでいると脳は縮んでいます。これは何かというと、寒いところで寝ていると、呼吸に負担がかかります。そうすると呼吸機能は落ちていますし、酸素や血液の循環も悪くなり脳も傷みやすくなります。
同じように冬場、居間が暖かい家に住んでいる方は、やはり脳が健康です。私は、脳は暖めたらよくなるのかな、と思ったのですが、そんなことではなく、部屋が寒かったら、動きません。暖かいと動きます。つまり、暖かい家に住んでいる人は動くので運動量が増え、足の筋肉がついて、脳の状態もよくなっているということです。運動すると脳もよくなるという流れでもありますが、少なくとも冬場に家の中を暖めるといいということも分かってきています。
私はBHQコンソーシアムといって、いろいろな企業と共同研究をしています。例えば、フィットネスクラブと一緒に研究をしていますが、私が期待と面白さを感じるのは、科学として運動した方がいい。脳科学としては運動したら脳がよくなる。これは事実です。しかし、運動が嫌いな人にやってもらうにはどうすればよいかという話になります。コンソーシアムのメンバーには住宅メーカーも加わっています。そうすると、住宅メーカーが、断熱効果の高い家をつくってくれると運動しない人でも脳はよくできるので、産学連携は非常に価値があると思っています。今、三十数社の企業と連携していますし、大学も神戸大学だけではなくて、他の大学も連携しています。こんな形で脳科学者としてできることはやっていますが、それをうまくオープンイノベーションの形でやっていくのは非常に意義と価値があるのではないかと思っています。
手軽にBHQを楽しめる生活
最後のセッションのお話となります。あわせて、最新の研究をご紹介します。
MRIを使って検証もして、内閣府からそれなりの予算をいただいていたからできた研究が多いです。先にも述べましたが、日本はMRIにかかる費用が、アメリカの10分の1程度です。しかし、皆さんがMRIを手軽に使いますかというと、検査費の3万~4万円はそれなりの負担だと感じると思います。そこで何か考えなければということで、最近勧めているのは「推定BHQ」と呼んでいるものです。しっかり脳をMRIで撮った方がいいんですけれども、脳全体としていいか悪いかというのは、体に表出してくるので、スマートウオッチや睡眠センサーを使ったり、表情、声、血液検査、お肌の状態などからBHQを推定することをやっています。
皆さんに使っていただくようにするためには、MRIのような大型の装置ではなくて、手軽にできるといいというのが一つあります。では、自分の脳の状態が分かった後、何をしたらいいのかということで、新しい取り組みを進めています。脳科学で分かっている脳をよくすると報告されている論文をまとめて、BHQ Actions(図3)として企業にお話ししています。具体的には七つのカテゴリー、18個の行動指針にまとめました。

国連はSDGsの17の目標に対して、具体的なところまでは決めていません。でも、一方で大きな指針は17あるから、それを各企業や各自治体なりに取り込んで、自分の色に変えて実施しているので、それを参考にしたいと思いました。そんな中で、BHQを簡易計測するという話とBHQ Actionsを用いた改善策を企業や自治体に考えてもらうという両面を実際にやっている事例があるので紹介します。
一つ目はパナソニックさんの事例で、昨年(2022年)の暮れぐらいからかなり本格的に始めています。何をしたかというと、顔の表情からBHQを推定する装置をつくりました。認知症の方は表情が乏しくなってくるといわれます。つまり、脳の状態が悪くなれば、表情がなくなります。ただ、私たちが今、見せている表情で予測できるかというと、ちょっと難しいと思います。例えば、私の話が面白くなかったとしても、面白いと思っているような表情をしてくれることもあります。このように健常の方だと、単にその表情だけで検出することが難しいでしょう。
そこで、利用者の方が画面の指示に従って喜怒哀楽の表情を、それぞれ15秒ほどやっていただきます。そうすると脳の状態がいい人はいい表情の動かし方ができます。そうでない方は、すっと笑えなかったり、すっと怒れなかったりします。もちろんMRIに比べると精度がある程度落ちますが、計測するときれいにBHQが一定の程度は分かります。
この装置をセントラルスポーツに置かせていただき、実際にジムの利用者に測ってもらい、アンケート調査をしました。アンケート結果で面白いのは、「こういうのはあまり役に立たない」と回答した年齢層が高い方々は、「これを見せられるとよく運動しようと思う」とか、「続けてこのクラブにいようかなと思う」と回答しています。ある年齢以上になると「よくない結果だと怖いから、結果を見たくない」と思いながらも、いざ計測結果を見てみると、やっぱり運動を続けようとか、ジムを継続しようという気持ちになるのではないかと思います。おかげさまでセントラルスポーツだけでなく、RIZAPも研究に協力くださり、横展開も始まっています。
では、運動をしている人は数値的にはどうなのかを見ると、実年齢より4歳分ぐらい若い数値が出ています。だから、やっぱり運動は脳にいいというのが図4です。さらに、この研究で幸福感やワークエンゲージメント、モチベーションなどBHQと関係のある心理状態も伺っていて、フィットネスクラブ会員の方は、全国平均に比べるとやはりいい状態でした。

さらに、私が注目しているのは、ジムレッスンをしている方だと根気がよく、プールレッスンだとワークエンゲージメントがいい、などといった面も見えてきます。まだまだデータは少ないので、多くのデータを取って分析することが必要ですが、脳をよくするために運動をしたらいいということは科学の粒度なので、個人の粒度だとしたら、おそらく脳はいいけど、例えば、根気を上げたい場合や共感性を上げたい場合は、どういうことをしたらいいのかなど、もう少し具体的に分析を行った方がいいと思います。このように、いろんな組織と一緒にやれると産学連携も進むのではないかと思っています。その延長でつくったのは、実際にBHQ Actionsをセントラルスポーツ内で考えてもらい、ジムだけではなくて、パーソナルトレーニングやその他のスポーツに対して、BHQ Actionsのシールを貼ろうという流れです。
このパナソニックの装置を使って、コープこうべさんと一緒に2023年10月1日にうみかぜ音楽祭で、総合案内に装置を置いてスタンプラリーを企画しました。トヨタさんのブースは車の防災についての企画なので、BHQ Actionsの「学習」になります。資生堂さんのブースでは、自分に似合うパーソナルカラーで周りにきれいなものを置くというワークショップなので、「環境」になります。先ほどはセントラルスポーツで脳と健康と各トレーニングをひも付けましたが、ここでは複数のプレーヤーで産業間連携を仕掛けていて、実際に入口ではBHQを測りますが、脳をよくする活動は、異業種企業が連携する形です。
自治体系の事例も紹介します。これは(図5)ベスプラさんの携帯アプリとBHQドックのパッケージです。脳の行動支援として、運動(歩行も含む)、食事、脳トレ(学習行為)は大事なんですが、もともとベスプラさんはこの三つのアプリを用意していて、約10万人が利用しています。私たちは何をしたかというと、このアプリのログからBHQを推定できるようにしました。
これは何かというと、普通は脳をよくするために行動記録を付けますが、裏を返すと、どういう行為をしている人は脳がよくなるかということがわかります。相関関係があるので、どちらが先でもいいということです。このアプリの中にBHQ推定のシステムを追加して、このアプリを使うだけでBHQの値がお手元で分かるようにしました。

昨年(2022年)、浜松でこのアプリとBHQドックを用いた実証実験をしました。公共政策において健康施策はすごく難しくて、例えば、自治体が歩け歩け運動を開催すると、よく歩く人が参加します。公共サービスは何のためにやっているかというと、将来の病気に対する医療費削減が見込めるからやります。つまり、いつもあまり歩かない人に参加してもらいたくて、これが本来の期待なんですけども、残念ながら、歩け歩け運動をやればよく歩く人、ピクニックを開催するとピクニックが好きな人が参加するというのが現状です。
そんな中で、「脳の健康を考える」をテーマに開催すると、健康な人だけが参加するわけではなく、持病がある方が参加者の半分を占めました。科学でいえば体と脳はつながっています。しかし一般の感覚では、脳は体より大事な器官である印象です。私は脳科学者として、脳が大事なんですけども、科学的な見方をすると脳と体は等価です。そんな私も個人としては、また脳が大事と思ってしまいます。結果として、この実証では、血糖値が高いとか、血圧が高くて通院している方など、あまり健康ではない人たちが、脳だけはどうにかしたいと参加してくださったようです。
しかし、残念ながら実際に持病がある方は続きません。病気を持つ理由がやはりあるのかもしれません。ただし、その中でもしっかりと続けられた方は、病気を持っていない方と比べても食事も気を付けるようになるし、運動量も増えて、脳の状態はよくなる感じです。科学者としては、脳と身体が等価であるということをお伝えした方がいいと思う気持ちもある一方で脳の健康が心に刺さるのであれば、それもいいと思っています。このように社会に実装するために自治体が取り組むという意味においては、彼ら側の政策上の課題があって、それにうまくこの話はマッチしていくのが大事だろうと思います。
その延長で、少しだけ先の話をすると、実際にBHQの値は、50歳の100からどんどん下がり、認知症ラインを超えるのが87歳ぐらいです(図6)。それが浜松市の実証実験から(もちろんまだモデルとして確立していないのですが)、おそらく10年ぐらいは延ばせるのではないかと思われます。

こういった話があると、実際にその分だけ医療費が間違いなく浮くことになります。そうすると、先々の医療費が浮く分を実際に手前側に回せますので、この取り組みも今、進めているところです。
浜松でやった実証実験をBHQ Actionsも加えて、京都の久御山町の周辺でよさそうなイベントや地域資源で組み合わせた形で横展開を始めています。
宮崎県では、都農町でBHQ Actionsに対して、地域資源を活用して展開しています(図7)。今後5~6ぐらいの自治体と脳の物差しをベースに、地域の住民の方々の脳の状態を把握する活動を地域産業や地域資産と組み合わせて活動していきます。

最新の研究活動
最近の研究計画を少し紹介します。メタボは危ないと言いましたが、メタボだけじゃなくて、血糖値が高い方は気を付けてください。また、γGTP[i]も高い方は脳が縮み気味ですので、健康診断で引っ掛かっている方は気を付けましょう。まだ予備的な結果ですが、認知機能とヘモグロビンA1cといわれる糖尿病、血糖値の関係です。糖尿病の方は認知症になりやすいとよくいわれているんですが、認知症になるよりもっと手前から血糖値が高い人は、認知機能の状態はよくないです。
脳を健康にするために大切だとつくったBHQ Actionsは、ヘモグロビンA1cとの関係も深いので、脳をよくするものは体もよくするし、その中には糖尿病や認知症の予防も含まれるという意味において、脳をよくするためにいい行為をすると、結果として体がよくなるので、生活にそういった行為を取り入れるといいと考えています。
認知症の話は80歳を超えないと医療費にはそれほど影響してきません。それに対して、糖尿病の話はもう少し手前の年齢層から社会コストになっています。ですので「この行為をしたら、認知症が予防できるだけじゃなくて、糖尿病も予防できますよ」と大きな流れをつくろうとしています。
さらに、BHQ Actionsがあるので、「産業振興にもなります」とこれから自治体やいろいろな企業とも共同研究を進めようとしています。
全然違った仕組みで、Century Brain Projectをやっています。これは何かというと100歳になっても元気な人たちが、どういう生活をしているのかを調査するため、今年(2023年)の初頭から80歳以上で元気な人に何をやっているのかをインタビューしています。調査に協力してくださっている方々は、確実にアクティブです。他人とのコミュニケーションも、夫婦間や家族間だけではなく、いろいろな人とコミュニケーションをしています。その辺は元気の秘訣だと思います。
しかし、残念だったのは、その人たちのBHQは決してよい数値ではありませんでした。私は、80歳を超えても元気な人だったら、BHQは結構高めではないかと期待していました。実際計測すると数値があまり高くなくて、これは仮説と異なってしまうと思いました。しかし、細かく分析してみると、認知機能に関する領域をしっかり高い状態に保てると元気な高齢者になれそうです。それは裏を返すと、社会性です。他人とうまくやるとか、周りの環境がどうかという脳機能よりも、自分の頭で考えることが大事で、他のことは気にしなくても大丈夫なのかなという感じです。「かな」という感じなので、まだ分からないです。このように脳科学も、もう少し細分化したものを見られるようになっているというのが現状です。
今回はBHQ全体の話をしましたが、私たちは、90か所の脳の領域の部位ごとの値(ローカルなBHQ)も持っています。例えば、海馬は記憶に関する部位です。私は海馬の数値が80ぐらいですから、かなり低い方です。一方で、コミュニケーションに関する上側頭回の数値は、130を超えています。だから極端な言い方をすると、しゃべって生きているという感じで、覚えてはいない。そんなふうに捉えることもできます。
ただ、ローカルなBHQは、まだあまり外に出さないつもりです。やはり、細部まで見てしまうと怖いと感じる人たちが一定数存在するので、今回のようなクローズドな場でのみ議論を始めています。そもそも私は、これは個性だと捉えることができると思っています。もちろん私もできれば海馬の数値が大きくありたいですけども、低ければ、私の同僚が私に変わって覚えていてくれればいいので、私はしゃべるから、皆さんは覚えてねというスタイルでよいのではないかと思います。多様性だとすれば、違うものの見方ができるので、そういった形でローカルなBHQは、今後、皆が使えるようにしたいと思っています。
今、BHQを海外に展開することもしていて、アメリカのシリコンバレーとロサンゼルスで実験を始めています。いきなりアメリカ人に被験者になってもらうのではなく、海外駐在は、特に日本人にとってはしんどいといわれているので、その方々の脳が実際にどういう状態なのかを調べています。そのためのBHQ Actionsの七つのカテゴリーが入っているアプリも、英語版をつくって実際にこれで実験します。
そこではアメリカ版のBHQ Actionsのコンテンツを用意しています。できれば私としては日本企業の皆さんが世界に展開するときにも使っていただきたいと考えています。
今回、覚えておいていただきたいのは「BHQ」という言葉です。もしかしたら5年か10年後ぐらいにBHQは有名になっているかもしれないし、全然違う物差しが使われているかもしれないですが、今回の話が皆さんの記憶に残れば幸いです。
皆さんの脳は、まだまだ戻ります。戻るための秘訣もお話ししました。皆さんのBHQが上がることを祈ってやみません。
[i] γGTP(ガンマ・グルタミルトランスペプチダーゼ):主に肝臓や胆道系に存在する酵素の一つ。タンパク質の合成やアミノ酸の輸送を支援する役割を果たしている。これにより、肝臓は体内で必要なタンパク質を生成し、不要な物質を解毒して排出するという重要な機能を担っている
質問会
<パネリスト> 山地 秀俊、山川 義徳氏

<モデレーター>後藤 雅敏
(神戸大学大学院経営学研究科 教授)
後藤 それでは、質問会を始めたいと思います。お二人にお話いただきました内容で、何か質問がある方はお願いいたします。
BHQと気温との関係
質問者1 山川先生にお願いします。家の中は暖かい方がいいというお話がありましたが、気温が高い場合、その辺の関係を教えてください。
山川 まず大前提は、冬場すごく寒くなる家というのが危険です。ですので、冬場に18度以下になるようだったら、暖房をつけましょう。一方で、今度は夏場です。これは暑すぎると危険です。なぜなら、脱水を起こします。脳は脱水に非常に弱いです。例えば、お酒を飲んで悪い一番の理由は脱水です。それと同じです。ですので、あくまでも冬場に暖め、夏場は下げていただく。
経済産業省の方に、「もちろん省エネのために節電するのはいいことですが、それで脳の状態が悪くなっていたら意味がないのでは」という話をしています。私たちが生活するのに適した温度にしてもらうのが、一番だと思います。
質問者1 それともう1点。小脳が小さくなると筋肉も衰えるということでしたが、大脳と小脳の関係で、どこがどうなったら体に影響を及ぼすか教えていただけますか。
山川 ローカルBHQには、小脳を入れていません。それはなぜかというと、小脳は運動学習に関係があるといわれていますが、小脳がどういう役割を持っているかはあまりよく分かっていないというのが、今の脳科学の現状です。もちろん、運動学習するときに小脳がとても大事な役割をしているというのは事実です。おそらく大脳のように、機能分化されているというよりは、神経細胞レベルである操作が必要なときに使われるような臓器という印象を持っています。
それはなぜかというと、サルから人間に進化したときに最も神経細胞が増えたのは、大脳ではなく小脳だといわれていて、小脳はもっと違う役割を持っていそうです。それに対して大脳の方は機能分化がされていて、例えば、バイオリニストの左の触覚領域の脳領域は厚くなっているとわかっています。大脳と小脳はもともと役割が違って、一定の役割が見えているのは大脳だということです。
BHQのオープンイノベーションについて
質問者2 山川先生に質問です。オープンイノベーションの企業の中に、自動車メーカーが入っていないのですが、何か理由があるのでしょうか。
山川 10年近く前は一緒にやっていました。決してもめたわけではなくて、何が起きたかというと、この5年、10年で自動運転が研究開発のメイントピックになってきました。私がよく彼らに問いかけていたのは、自動運転の車を本当に作るのかということです。
これは何かというと、デジタルデメンチア(dementia;認知症)という言葉があります。デジタル化されることによる認知症的症状で、その一番分かりやすい例が、カーナビができてから地図を覚えなくなりました。ロンドンのタクシー運転手は、カーナビがなかったころは細かい地図を覚えないといけないから、海馬がすごく大きかったのです。それと比べると、最近のロンドンのタクシー運転手は、海馬が大きくなっていません。他にも、例えば、パソコンを使用するようになって漢字が出てこなくなってきています。脳は残念ながら楽な方に流れます。また、脳は効率がすごいです。だから、やらなくてよいものはやらない。自動車を運転することは、運転する度に認知機能テストというか、脳トレをしています。それを自動運転にしたら、乗車している人はぼーっとできるわけですよね。そこは私とは相容れなかったご様子で、自動車メーカーはプロジェクトからご卒業されました。
質問者2 車から降りるときに、今日の運転はリッター何キロでしたと燃費を教えてくれます。スマホと車が連動していれば、スマホに教えてくれたりします。「今日のBHQはいくつでしたよ」と、車の運転が終わったら教えてくれるようなこともできるかなと考えながら聞いていました。
山川 おっしゃるとおりです。私がそのときに自動車メーカー各社に話したのは、「自動運転じゃなくて、脳をよくする車をつくりませんか」だし、間を取る意味で言うと、本当に認知症になってしまったら、危ないから自動運転の方が絶対いいです。でも、記憶がまだらぐらいの方だったら、自動運転の量を操作するという制御が大事だと思っています。今日のBHQの状態だったら、自動運転度は少なめでOKとか、今の脳の状態だったら、そろそろフル自動運転しないと危ないですというふうにする。
バリアフリー住宅は、家の中に段差があって気を付けないといけないという、頭を使う空間から段差をなくしてしまうため頭の働きが鈍くなるし、頭を使わなくしてしまいます。人間はリッチな場所にいると頭が豊かになるわけで、その最たるものが、人がいるということです。相手がいれば、時に腹立つこともあるかもしれませんが、それを含めて、一人暮らしよりもいいということです。そういうふうにして、人の脳とか心はできているので、バリアフリーにしたとたんに、どうも認知症の症状が出やすくなるらしいです。
もちろんけがはしない方がいいし、実際、骨折して入院すると人と話さなくなって、それはそれでまたよくないのです。多くの製品をつくるときに、それを使う人の脳まで考えていただけるとうれしいと思って、いろいろなことをお話ししました。
BHQについての倫理上の問題
質問者3 山川先生のローカルBHQを利用すれば、企業の採用試験などでアセスメントするよりも、その人の可能性とかが見えて、なぜこの人のパフォーマンスが落ちているのかなどが、よく分かるのではないかと思います。そういう議論になっているかという倫理的な問題も含めて、どんな議論があるかをお伺いしたい。
山川 私も、これはポテンシャルとして使っていただけると、とてもいいと思っています。ただ、選別というか区別というか差別にも、気を付けないといけないので、どうやって世の中に出していくかは、実は人事系の方と検討していますが、これは社内ですら出せないかもという議論はやはりあります。
もともと私はゲノムの研究もしていたのですが、ゲノムは残念ながらそう簡単には変えられないので、脳に傾倒しました。脳はダイナミックに変わります。そういう意味では、「君は記憶が悪いから、この仕事は無理だよね」と言うのではなくて、「もしこの仕事に就きたいなら、こういう脳のパターンとか、記憶はこのぐらいある方がいいよ。だから、そこを伸ばしたら?」という世界観を共有して、できるようになったら使えると思っています。そうでなければ、やはり怖くて出せない情報の一つになっていると認識しています。
質問者3 ありがとうございます。あと、脳ドックを受けることがありますが、最近は、データとしてBHQも入っているものなのですか。BHQを測定していただくときに何かデータを提出するという感じですか。
山川 正確に言うと、今のMRIとか脳ドックで撮ってもらう場合は、だいたい5mmスライスぐらいで測ります。これはなぜかというと、医師が見るために5mmにしています。1mmとか1.5mmスライスでないとBHQを測れないので、一般的な脳ドックで撮っている方の状態だと難しい。ただ、新しく保険報酬対象にもなっているVSRADは3Dで撮っているので、そのデータを私たちに送っていただけると、結果は返せるようにはなっています。
なぜ複式簿記を採用したのか
質問者3 山地先生に質問です。いろいろな会計の流れなどを聞かせていただいたのですが、一つだけ文脈が分からなかったのが、複式簿記を採用したという話が、なぜそうだったのかがよく理解できなかったので、なぜ複式簿記を採用することになったのかについて、お考えを聞かせていただきたいと思います。
山地 複式簿記は、今から500年以上前から歴史があります。長期的な制度化がなされているものですが、マックス・ウェーバーは、そうじゃないんだと主張しました。世俗的禁欲主義を取って、利益をきちっと計算して、それを資本蓄積して、もう一度資本として投入していくような、そういう律義な性格の人が複式簿記を利用するという理解です。でも、どちらがあっているというのではなくて、妥協策みたいな理解です。長期的な制度化でも、短期的な制度化でも複式簿記を採用します。ただ、長期的なものでの採用は、おそらく生態学的合理性といいますか、より動物的な発想で利益を計算するときにも使います。ところが、19世紀、20世紀になって複式簿記は、短期的制度化で理性的なところで利用するようになりました。
質問者3 複式簿記ではない選択肢もあったということですか。
山地 あります。もちろん複式簿記の方が利用頻度が少なくて、江戸時代だったら単式簿記で帳簿という発想で付けている人もいました。しかし、利益はきっちりと付けているし、取引で言えば、取得原価に基づく収支計算のような取引の記録をしているわけです。しかし、それが戦後の日本の企業会計になると、そういう問題と、合理的な企業の経営という問題が混在することになります。
分かりにくかったと思いますが、長期的制度化と短期的制度化というものが脳の中で同時に起こるという話をさせてもらったということです。
生活習慣病を改善したらBHQは?
質問者4 生活習慣を改善すると、BHQが改善するというお話でしたが、BHQ78くらいが認知症ラインということでした。どの段階の方でも、生活習慣を改善したらBHQは本当によくなるのでしょうか。限界みたいなところは分かっているのでしょうか。
山川 正直、だいたい70歳を超えたあたりになってくると、当然ですけど、可塑的変化は弱いのでしんどいです。それは裏を返せば、若い方が絶対いいです。例えば、若い方は多少落ちたとしても戻る力もいっぱいあるので、若ければ若いほど始めた方が基本はいいです。
実際にこの75歳以上で、昨年(2022年)の暮れぐらいまで大規模スタディーが世界中で実施されましたが、実は運動介入をしてもあまりよくなっていません。不都合だからみんなあまり言わないのですが、75歳になっても頑張って歩いてもらうのは、脳科学からするとしんどいのは事実です。でも、政策的に75歳以上はもう無理なので、しょうがないですとはいえません。生活改善は若ければ若いほどいいですし、私たちの見立てですと、40代あたりが一番下がりやすい感じがします。これはまだ統計でしっかり見ていないですが。だから、40代ぐらいは気を付けていただいた方がいいですし、それより前の年代から意識していただくのがいいです。
BHQの時系列変化を求めたら?
質問者5 不思議だったのは、どの年代もばらつきがあるというのが、すごく驚きました。私は、若年層は比較的ばらつきが少なくて、高年齢層になるとばらつきの幅が広くなるのかなと思っていたらそうではなくて、年代にかかわらず全体がばらついています。これは、何か理由はありますか。また、時系列の変化は追跡されているのですか。
山川 それはGM(Gray Matter:灰白質)のことだけですけど、FA(White Matter:白質)はどちらかというとそれに近いような傾向が見えます。一方、年代によらずに一定のばらつきがある理由はいくつか考えられ、一つは、神経細胞に関しては、年齢にかかわらず、それなりに生活上の個人差があって分散しています。もう一つは、遺伝的な影響によって、もともと良い人と悪い人も少なからずいるのではないかということです。このことは、数値が上がりやすい人と下がりやすい人がいる可能性はあるかもしれません。遺伝では難しいのですが、生活であれば、どの年代であっても、うまくいけば数値が上がる可能性もあります。ばらつきについては、遺伝子の情報を含めてチェックすると、もう一歩踏み込んだことが分かるだろうと思っています。
追跡調査はしています。アルツハイマーになった方は、やはり数値が下がるスピードが加速しています。そうではない方は、やはり正常範囲のスピードで落ちています。本来は5年とか10年とか、より改善された生活をして、どういうことをしたら本当に上がるのかが見えてくると、より正確なことが言えるのかなと思っています。
腎臓病とBHQの関係は?
質問者6 山川先生にお願いします。今回の話では、いわゆる生活習慣病の一つとして、脳の健康度が下がるという話になるかと思います。僕も大学で、座っている時間が長ければ長いほど腎臓病になりやすいという論文を書きました。ただ、その相関関係はそうなのですが、では、実際座っている時間を短くしたら、腎臓はよくなるのかという話は全く別だというのが、この業界の解釈になると思います。運動すればするほどBHQが上がってくるのかどうかという論文は、今あるのかどうかということと、いろいろな生活習慣の中で、これだけは介入すればBHQが上がるという論文があるのか教えていただきたいのですが。
山川 まず一つ目の運動の話で言うと、実は運動不足だからといって、BHQは下がっていません。運動不足でメタボになっていればBHQは下がるのですが、運動不足でも太っていなかったり、眠れていたら大丈夫という話もあります。ですので、運動と脳が関係あるというその話すら、どこまでどうなのかなと思うところはあります。しかも、BHQが高い方は、積極性が高いので、結果としてよく運動しているというだけで、因果が逆みたいなことが起きていそうです。
介入の話で言うと、こういうものを食べれば多少上がる人がいるなどお話ししました。それだけではなくて、学習するといいという介入研究もしています。しかし、これをやったら数値が上がりますよと言えるほど、ロバストなものは正直ないと思っています。
質問者6 先ほどRIZAPと研究すると言っておられたので、RIZAPに入会する前と入会した後で、体重の増減は明らかに違うのではないかと思います。そういうのは、すごく分かりやすい介入研究になるのではないかと思いますが、それはどうですか。
山川 難しいのは、RIZAPに来ている時点で、違うファクターがかかっている状態だということです。それでもし数値がよくなったとしても、無理やり来るようにさせた場合には同じ結果になるかわかりません。そもそも無理やり来るようにさせるということも簡単ではないですし。
質問者6 行政との取り組みのときに、歩くことがいいというのと一緒で、RIZAP以外のフィットネス系のところと比べて、要は減量をメインとした運動ではなくて、単純に運動しているような施設と、体重を下げることを目的とした事業との比較であれば、その辺りのバイアスが多少和らぐのではないかと思ったのですが。
山川 丁寧にやれば、やりようはなくはないと思っています。ただ、その大前提は、大規模コホートスタディーで、すごく費用がかかります。その費用をかけてまで、細部を研究者サイドも企業サイドもやりたがらない。こうしたらよくなるだろうと期待をしている人たちと、それを信じなかった人も含めて全員が、このBHQという物差しと、BHQ Actionsの行動パターンでログをためていければと考えています。そのログがたまった後に、こういうことをした人はよくなったけれど、その理由はこれだよねというふうに、実際に介入の結果が出てから世の中に入れるのではなくて、世の中に入れた後に、研究者が後で解析する。こんな順番にする方が、おそらくこの分野の研究は進むだろうと思っています。
みんながやっているようなことばかりなので、それをちゃんとログとして集める方がいいですし、結局そこに個人のプレファレンス、好みがすごく入ってくる領域なので、個人によって効果だけでなく選択も違ってくると思います。病気を治すような医学的な介入実験という行為そのものが、この分野においては、私は正直ナンセンスだと思っています。
BHQの重みづけの値は?
質問者7 基本的な定義とかデータの取り方で教えていただきたいです。BHQのデータは、時間によって違うとか、日によって違うとか、もしそういうことがあれば、先生の脳のデータも、もしかしたら時間帯が違うときに撮ったら違うのではないかと思ったので、教えていただきたいです。また、ローカルBHQの90項目で気になるのは、これは単純に、全脳BHQはローカルBHQの平均なのか、重み付けとかあるのか。たぶん本来は重み付けがあるように思うので、教えてください。
山川 一つ目の質問は、脳の萎縮の話で言うと、だいたい3か月から半年ぐらい経過しない限り変化は見えません。ですので、MRIの構造画像で見ている最中では、3か月から半年ぐらいは、ほぼ変わらないと思ってください。一方でFA(白質)の場合は、だいたい2週間から1か月ぐらいで変わってきます。
推定BHQは何をしているかというと、こういう脳の人たちは、こういう運動をしますという相関関係からモデルを作っているので、例えば、今日1日よく歩いて、その推定モデルにはめた場合と、次の日あまり歩かなかったら、ちゃんと下がっています。しかし、これは決してその1日でそれだけ上げ下げしたのではなくて、そういう行為を1年間ほどすると、それぐらい下がるかもしれませんという、いわゆる加速度を見ているような状態なので、短期的な状態も見えはしますけれども、あくまでもシミュレーションベースと考えていただくのが正しい解釈です。
二つ目の質問は、今は、これは単に平均しています。おっしゃるとおり、先々はたぶん重み付けをして何かした方がよくなるだろうと思います。今は生データを平均してBHQを使っています。だから、脳の領域に関係なく、全体としてアベレージヘルシーしか見ていません。
質問者7 ありがとうございます。もう1点だけお願いします。データの取り方で、個人の行動とBHQという話があっていろいろなデータを入れてみて、例えば、今年(2023年)で言うと、タイガースの影響で関西はBHQが上がっているのではないかと思っています。そういう外部要因とのデータというのは、取られていますか。
山川 残念ながら、今は取れていません。大きいくくりで分かりやすいのは、国による違いです。日本は他国と比べるとヘルシーな国なので、私たちのこの傾きは、もしかして世界の中でもいいかもしれません。他国だったら、もっとすごい勢いで下がっているかもしれないので、その辺りを見合わせて、もう少しデータを増やしていくと、面白い研究ができるのではないかというのは、すごく期待しているところです。
BHQの今後は?
質問者8 山川先生にBHQコンソーシアムについてお尋ねします。各企業、それぞれ思惑はあると思いますが、このコンソーシアムにあたり、言語化された共通の大義が何かあると思います。それが何かということをお聞きしたいのと、利益の配分です。これは同業者の方が、いくつも入っていると思いますが、どういう形で分配されているのですか。
山川 大義はシンプルで、「世界中のBHQを上げよう」です。BHQではなくても、世界の方々の脳の健康に貢献しようというのが、ど真ん中の目標であり、やるべき行為です。その次ぐらいに日本として、たまには世界で勝つものをそろそろ作りませんかということです。今までは国内で争っていますが、このマーケットはこれから伸びますから、それよりは、ほかでもっといいところがあるのだから、非競争力みたいな扱いでやればいい。大前提で言えば、脳の健康についてはまだ誰もやっていないし、そもそも何が正解かもよく分からないから、みんなで力を合わせればいいのではないか。RIZAPやセントラルスポーツだけでやればいい話でもなく、まだまだやらなければいけないことはいっぱいあるから、そういう形でやりましょうということです。
私のイメージは、小さいピザを分けるのではなく、ピザ自身を大きくしましょうという話で、一応は乗ってくれていると信じています。
質問者8 見えない市場があるから、それを一緒に開発していこうということですね。その後で、皆さんで・・・。
山川 そうです。好きに分けたらいいじゃないですか、という感じです。
後藤 たくさんの質問をありがとうございました。この辺りでワークショップを終わりたいと思います。今回は山地先生、山川先生に貴重なお話をいただき、どうもありがとうございました。参加者の皆さまもご参加いただきお礼申し上げます。
