特集-7
7.コロナ禍におけるデジタル・トランスフォーメーション
8月11日寄稿
新型コロナウィルス感染拡大への対応として、リモート・ワーク、オンライン授業、EC、フードデリバリー・サービスなどでのデジタル技術の利用が社会的に広がっている。デジタル技術によって企業や社会のさまざま変革が進むことをデジタル・トランスフォーメーション(DX)というが、デジタル技術の利用に限って言えば、コロナ禍は図らずもDXを促進させる要因となっている。
ただし、DXというのは、デジタル技術の導入だけが課題ではない。新しい情報通信技術に基づいて企業や社会がどのように変わるのかが重要であり、その基底には、サービスやビジネスモデルの革新を通じた企業における競争優位の構築や生活・働き方の変革などが期待されており、それらがいかに実現されるかが重要になってくる。
ところが、現実には、やむをえずデジタル技術を広く利用する社会になったものの、それがサービスやビジネスモデルの革新につながったり、スタートアップ事業が新たな市場機会を捉えたりするという展開には至っていない。もちろん緊急の対応が求められ、準備の時間がないという理由も考えられるが、マーケティングの視点では、別の見方も可能である。それは、「取りあえずのオンライン化」がDXとして今後の革新的な取り組みへと展開されるためには、克服すべきマーケティング上の課題が残されているということである。すなわち、サービスの提供企業がデジタルサービスの設計をする際に、顧客にどのような価値を提供するのかを考えることが重要となるが、それが実際にはできていないと考えられる。
まず、コロナ禍においては、感染リスクを回避するために対面で提供されてきたサービスをデジタル技術によるサービスで代替することが行われているが、これは既存のサービスを要素に分解し、デジタル化できる部分をデジタル技術で代替するというパターンとして展開される。そのようなデジタルへの代替では、対面で提供されてきたサービスと同質的な価値を提供していると考えてしまい、そこに存在する課題はデジタル化の技術的課題だけと見なされやすい。そのため、それを受容しない顧客やうまく提供できないスタッフは、デジタル化への適応能力に欠けると考えやすい。また、デジタル化のメリットを強調することで新技術への適応を動機づけられると単純に考えている。
このようなデジタルへの代替は、サービスを顧客課題の解決として考えて、顧客が何を望んでいるのかという視点から捉えたものではなく、顧客がサービスに期待する価値は決まり切った定型的なものであり、それを実現する手段をデジタル技術に置き換えることでより効率的・効果的になると考える。また、その手段に対応しないような価値は、縁飾りのような些末なニーズと捉えられ、捨象されやすい。
しかし、顧客が期待するのは、サービスそのものではなく、そのサービスを通して達成される価値や課題解決であるために、サービスが売手の期待どおりに評価されず、市場で受容されないことも起こりうる。さらに言えば、そのようなデジタルへの代替を行ったサービスを顧客が受容しないのは、必ずしも顧客の適応能力不足によるわけでなく、売手が顧客の潜在需要を理解していなかったからであることも多い。
例えば、教育においてオンライン授業の採用が進んでいる。ただし、もともと対面授業において教室という空間を他人と共有しながら学習するというのは、学習の動機づけということも含めて、学生にさまざまな価値をもたらすものである。ところが授業というサービスを講義や質問への対応などの要素に分解して、個別にデジタル技術に代替することで従来の価値を代替できていると考えてしまうのは、こうした教育に対する潜在的な価値を見落とすことになりやすい。
もし一時的な対応としてのオンライン授業を行い、後で対面授業に戻すのであればそれでもよいが、eラーニング事業で市場開拓をめざす場合には、オンライン授業では対面授業に代わるどのような価値を提供できるかを改めて考える必要がある。そのベースには、学習についてどのような潜在的需要があり、オンライン授業がどのような課題解決をもたらすのかという分析が必要になる。
同様のことは、教育サービスだけでなく、オンラインやリモートに関わるさまざまなデジタルサービスで起こりうる。別の例をあげると、最近では、顧客が自宅でスマホを使って自分自身の体型を測定したり、肌などの状態を診断したりするオンラインサービスが、対面接客を避ける意味で注目されている。これらについても、デジタル技術を使った遠隔での測定・診断自体が目的化してしまうことがある。企業側ではAIを使って測定誤差を修正できるというメリットを訴求するが、顧客が求めているのは、正確な測定・診断ではなく、測定・診断で実現される価値である。その価値は、実際の測定・診断のプロセスにおける販売員やサービススタッフが顧客と交わす会話の中に表現されるはずであるが、正確な測定・診断が目的化されると、そうした顧客の声を収集することなく、正確さといった技術的な課題解決のみに意識が向かうのである。
なお、誤解しないように断っておくが、デジタル化で顧客の価値が損なわれるとか、顧客が満足しないということを言っているのではない。デジタル技術を導入するときに、サービスが顧客の課題解決であることを忘れて、顧客の需要に合わせたサービス内容の修正ができないことを問題にしているのである。
なぜこうしたことが起きやすいのかについては、二つの理由が考えられる。まず一つは、コロナ禍の影響による選択の余地がない状況でのデジタル化であるため、こうした顧客の潜在的な需要の問題は棚上げされ、緊急避難的にデジタルへの代替となったということがある。
もう一つの理由としては、サービスの提供者が、デジタル技術を使うことはビジネスモデル革新になると思い込んでいることがある。つまり、デジタルサービス自体が革新的であると思い込んでしまうために、実際は、既存事業の枠にとらわれ、技術的にサービスを定義し、そのサービスで実現される価値には無関心であることに気がつかないのである。特にデジタルサービスの設計を技術者に任せてしまうと、顧客の潜在需要に基づいた不満を過小評価し、事業展開に必要なサービスの修正ができなくなる。
それでは、ポストコロナのスタンダードとなるような変革を導くことはできず、社会的な制約が解除された後には、対面サービスへの回帰が発生し、その結果、社会に定着せず、企業も競争優位を構築できないことになるだろう。「転んでもただでは起きない」という欲深さを形容する表現があるが、市場が変革する時期に「ただ起きる」という選択は、競合や参入者に市場を奪われる危険性が高いことを認識すべきである。
消費者がデジタル技術を受容するというのは、DXにおいて克服すべき障壁の一つである。選択の余地がない状況であるにせよ、この障壁を一時的に超えられたにもかかわらず、企業側がこの市場機会を活かすことができないのなら、DXはなかなか実現しない。最終的に社会が受け入れるデジタル技術というのは、単なる代替物としてのデジタル技術ではなく、新たな価値を創造する革新であり、そこで実現される価値にこそ目を向ける必要があると言えるだろう。
